「ゼニのとれる」情報とは……。
ロッコム文章・編集塾の宿題で、
「若者の読書離れの今後」について
論じてもらったことがある。
日頃の講義の反映か効果か、
読書離れは続く、と見る人が多かった。
しかし、「スマートフォンで読むようになる」
と見通す人も30%以上はいた。
NHKの「ラジオ深夜便」で
「ワールドネットワーク」を聞いていると
アメリカの調査でも、
読書はスマホでする、という人が急増中という。
ペーパーによる読書しかしない者の想像では、
ひとくちに「読書」といっても、
ペーパーで読む書物と、
端末機器で読む書物とでは
選び方が違ってくるように思う。
どうイメージをふくらませても、
リビングルームまたはベッドで、
あるいは電車の中で、
端末機器によって
トルストイやスタンダール、
紫式部や清少納言、
柿本人麻呂、鴨長明、松尾芭蕉、
夏目漱石や村上春樹を
熟読する人のシーンは浮かばない。
実際、電車の中や路上で
スマホや端末に没頭している人を脇目で見ると、
なにかを検索中であったり、
ゲームであったり、
マンガであったり、
メールの読み返しであったりすることが多い。
いくつかの調査では、
スマホとかかわる時間が多い人ほど、
読書時間が少なくなる、とのデータを示している。
しかし、スマホで読書をする人もあるとすれば、
スマホかペーパーか、という議論は、
現実的ではない、ということになるのか。
スマホなどの端末に親近感を抱く人は、
以上のような解釈をするが、
新聞の定期購読者が
世界的に減少している現状を見ると、
端末機器の利用者は、
新聞を端末機器に切り替えたのではなく、
新聞の数百分の一の情報を
手のひら、またはヒザの上で読むことを選んだ、
という解釈をするのが正確だろう。
ヨーロッパの大学2校の共同研究によると、
スマホで物語を読ませたグループと、
ペーパーで物語を読ませたグループとの違いは、
大筋の記憶には差はないものの、
あるエピソードの前後の状況や
ディテールの解釈では、
ペーパーグループのほうが、
くわしく、正確であった、という。
端末機器や新聞、雑誌の形状および情報の多様性は、
書物の及ばないところである。
書物にも、図鑑や写真集、辞書などがあるが、
読み物としての書物の場合、
そこにある情報は、ひどくシンプルに見える。
が、その一見狭い入り口に吸い込まれればこそ、
雑音に邪魔されることなく、
イマジネーションの旅ができる、
という特性がある。
といって、
デジタルメディアとペパーメディアとの
優劣論をするつもりはない。
それは、クレオパトラと楊貴妃とどちらが美人か、
坂本龍馬と吉田松陰とどちらが偉いか、
という議論と同様、ナンセンスである。
どんな存在にも、それぞれの存在理由がある。
人間は、自分の作ったもので自分の生存を脅かしたり、
アホになったりするすることをしない、
兵器を除いて……。
昭和の大評論家、大宅壮一は
テレビの普及期に
テレビは「一億を総白痴化するものだ」と
断じたが、さて、日本人が白痴になったか、
そうは思えない。
(利口になったとも思わないが)
人間は、各種乗り物の普及によって運動量が減ると、
スポーツジムを作って時間に関係なく走り込むし、
オーブンレンジが使いにくいとなれば、
トースターやオーブントースターの単体を使って、
小回りが利くようにする……。
新聞の購読者減少に対して、
経営者は、有料電子版への移行を進めているという。
イギリスの『ザ・タイムズ』は
広告に依存せず、購読料を支払ってもらって
電子版『ザ・タイムズ』発行の可能性を探っているという。
商品化のポイントは、
大衆紙にない情勢の分析や解説であるという。
われわれは、日々、空を見、太陽を見、
政治・経済の動きを見ているが、
認識しないものは記憶にも残らない。
「見ていて、見ていない」のである。
しかし、大陽が50億年前に生まれ、
あと50億年ほどで燃え尽きることを認識すると、
見方が違ってくる。
いや、そんな先のことではなく、
きょうは運動会なので晴れてほしいと願う人には
太陽が、いっそう、うれしいものに見えてくる。
話は、いきなり急転換するが、
いま、健康支援者の多くは、
ペーパーやデジタル機器によって
健康情報を発信している。
日本全国で、
どれだけの給食だよりや献立だより、
健康関連のメディアが
配布されていることだろう。
パソコンソフトに頼って、
それなりのメディアができるが、
情報の正確さ、鮮度、実効性までは
パソコンは助けてはくれない。
結果として、中途半端な、
あまり情報源とならない情報を
乱発することになる。
編集とは、
とりあえずは、情報を目的に沿って整えること。
デザイン性、可読性などは
そのための入り口でしかない。
デザインは大事だが、
世の中にはお手本がたくさんある。
紙面構成、つまりレイアウトには、
オリンピックのエンブレムほどの
オリジナリティは求められない。
よほどのことがない限り、
著作権侵害で訴えられることはない。
しかし、最終目標となるコンテンツ、
つまり、
読んだ人の健康意識を高め、
健康行動がステップアップを促すような
情報のお手本は、
信じられないほど少ない。
そこで、
プロのアドバイスを求めざるを得なくなるのである。
編集には「免許」はいらないが、
しかし、無免許運転的な方法では、
人の心をキャッチできない。
ここでも、「ゼニのとれる」分析や解釈、
感受性や思想が求められる。
このところ、
健康情報を提供する人を対象としたセミナーから
講師依頼をいただくことが多くなった。
過日、9月6日の、
ロッコム文章・編集塾/能登教室では、
当地からのリクエストに沿って
「パソコンコミュニケーションへの適応力を高める。」
というテーマをとりあげた。
編集とは、情報の目的別パッキング法である。
日記は、創作であるとともに、
1日の行動を記号化し、編集することにほかならない。
Eメールもしかり。
よい情報を発信するには、
Eメールの書式、視覚的・言語的表現力、
ハガキや手紙の書き方、出し方など、
日常的な表現力のステップアップと
同時進行で進めるのが、
もっとも効果的である。
それは、この世における自分の社会的拠点
(居場所)をふやし、
定着させる作業でもある。
★ここに使った写真の多くは、
能登教室に関連して撮影したもの。
by rocky-road | 2015-09-10 22:51