「用字用語」に用事があります。

100円ショップで、
求めている商品をフロアの店員に尋ねたら、
別のフロアに電話をして、
その商品が
別のフロアにあることを確認してくれた。
電話を切るとき、「お疲れさまです」と
相手の同僚に言って電話を切った。

「お疲れさま」の、
こうした用法の現場に居合わせたことは、
職場から離れて久しい者にとっては、
有意義な言語体験である。
「お疲れさま」は、
かつては、職場から退出する同僚に対して、
「ご苦労さま」の意味で使っていた。
「ご苦労さま」は、
目上の者が目下の者に限って使うものだ、
などという説もあって、
使いづらいところがあったのかもしれない。

インドから日本に来た人が、
「『お疲れさま』は、とてもいいコトバだから
国に帰ったらはやらせたい」と言うのを
見ていたテレビで聞いたことがある。
それがいまでは、
Eメールの件名で、
「こんにちは」に代わるあいさつ表現として
「お疲れさま」と印字するらしい。
日本人、いや「職場人間」には、
使い勝手のよいコトバなのだろう。

「ヤバイ」を
きれいな虹を見たとき、
山頂でご来光を見たときに使う人がいるとは、
人から聞いた話だが、
先日、花火大会で、
隣にいた夫婦らしき2人連れのうち、
女性のほうが、
見事な花火が上がるたびに、
「これ、ヤバ~イ」と
何回も叫ぶのを間近で聞くことができた。

この夏は、
スノーケリングによる事故が数件あった。
このニュースを伝えるニュースでは、
「シュノーケリンク」を使っていた。
1度だけ、「スノーケリング」というのを聞いて、
妙に満足した。



もう40年くらい前になるだろうか、
ダイビング雑誌の編集を手伝っていたころ、
誌上で用語の統一を図った。

「スキューバーダイビング」を
「スクーバーダイビング」に、
「ボンベ」を「エアタンク」に、
「シュノーケル」を「スノーケル」に、
「足ひれ」「フィン」に……などと。
しょせんは英語のカタカナ表記だから、
どれだけ原語に近いか、ということよりも、
最後は好みの問題。
が、この「好み」が厄介なのである。

私自身についていえば、
「生態観察」とか「素潜り」とかと
呼んでいたダイビング用語を、
「フィッシュウォッチング」とか
「スノーケリング」とかに言い換え、
それを専門誌で提案したり、
連載中の雑誌で書いたりもした。

のちに、海洋学者が、
「フィッシュウォッチング」というコトバを
日本で最初に使ったのは私(学者自身)だろう、
と雑誌に書いていたので、
それよりはるか前に私が提案したことを
記事を送って訂正したこともある。

その記事を、いままた
昔のスクラップブックに当たってみると、
『海の世界』(海事広報協会発行)の
1973年(昭和48年)10月号であった。



そのころを振り返ると、
「用字用語」は、私の昔からの関心事で、
ダイビング雑誌(『マリンダイビング』)にも
「海の動詞」(1977年5月号から)とか
「ダイビング用語笑辞典」
(1980年1月号から)とかという連載をしているし、
『栄養と料理』にも、
用語解説の記事はしばしば載せてきた。

コトバは、まず音声コトバから発達し、
だいぶ遅れて文字が生まれた。
中国から漢字が輸入されるまでは、
日本には文字はなかった。
(文字まがいのものはあっただろうが)

漢字のおかげで、
日本人はようやく
本格的に文字を持つようになった。
中国の「殷」(いん)の国で漢字が生まれてから
およそ1500年以上もたってからのことである。

それをきっかけに、
ひらがなを考案し、
カタカナを作り出した。
そのおかげで、
世界のどんな言語でも、
カタカナで書くことができるようになったが
(原語とは大違いの発音ながら)、
書き分けのバリエーションもふえた。
日本人が文字や文章を書くとき、
その書き方(「用字」)で迷うようになったのは
3つの文字を持つことになったからであり、
それにアルファベットも採用し始めたから、
ますます頭を使うようになった。

ちなみに、本家の中国は、
表音文字を開発しなかったから、
「アメリカ」を「亜米利加」と
「マクドナルド」を「麦古唐納」と
「コカ・コーラ」を「可口可楽」と
「キャノン」を「佳能」と書くことになった。
それが不便か、そうでないかは、
表音文字を持たない中国人自身にも
わからないことだろう。
アルファベットになじんでいる中国人は、
ローマ字表記をしている、と聞いたことがある。

一方、「用語」のほうは、
国籍に関係なく、
話しコトバでも書きコトバでも
意識する必要がある。
「用語」とは、「コトバを用いること」
つまり、コトバの使い方のこと。
「きょうは、いい天気だね」というか、
「本日は、お日柄もよろしく」というかは、
その場、その雰囲気、その相手によって異なる。
「用語」つまり、使うコトバは、
100人100様(オーソドックスには百人百様)。
1人として使うコトバが同じ人はいない。

だから、
人が使っても自分は使いたくないコトバがあり、
階級意識のある地域や時代には、
自分の階級では、
使ってはならないコトバというものがあった。
たいした生まれでもないわが家でも、
親の前では「ヤバイ」や「バカ」、
「オレ」や「ベロ(舌)」「ケツ(尻)」は
使えなかった。
江戸の流れをくむ母親の影響だろう。
ローカルなコトバには、
それ相当の歴史があり、
それについて
他者に四の五のいわれる筋合いはないが、
コミュニケーション環境が広がると、
コトバもローカルからメジャーへと
バージョンアップさせざるを得なくなる。

デジタル機器の普及が、
コトバにいっそうの共通性を
求めるようになった。
メディア関係者は、
スタート時点から共通言語を用いることを
求められるが、
デジタル機器は、
プロ、アマに関係なく、
メジャーな言語表現が求められつつある。
「食の欧米化」や「食育」、
「安心・安全」「手作りだからおいしい」
「旬の食材」「絶妙な味」などは、
「予防医学や食生活村」での
方言のようなものである。

用字用語は、
人とのコミュニケーションをスムーズにする、
ということ以前に、
自分の思考力を高め、
人格をカタチづくる。
頭をよくするのは、
微量成分であるEPAやDHAであるよりも、
個々人が持っているコトバであり、
接しているコトバであり、
使っているコトバである。
その因果関係は、はっきりしている。

by rocky-road | 2015-08-29 22:12