からだによくないコトバ。

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食の世界には、
からだに「よい」ものと「よくない」ものとを
分別する、困った伝統がある。
酒はよくないものの代表で、
歴史的に上位にランクアップされている。

戦後は、
ファストフードやスナック菓子、清涼飲料が
「よくないもの」の定番として
多くの人の脳に刷り込まれてきた。

1960年代には、
「食品公害」などというコトバが生まれ、
以後、「怖い食品」「食べてはいけない」
などという警告型の情報が
三流出版社や三流編集者によって
社会にばらまかれている。
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少なくとも食品衛生法によって
管理されている食品に有害なものはないはず。
ポイントは個々の食品の成分ではなく、
総摂取量と、ほかの食品との塩梅の問題。

もっとも、食の専門家の中にも、
「からだにやさしい食品」「胃にやさしい食品」
「ヘルシーな食品」などのコトバを
不用意に使う者が少なくない。

「やさしい」や「ヘルシー」がある以上、
そうでないものがあるわけで、
これらの表現は、
けっきょくのところ、
からだによくない食品が
あることを暗示しているのである。
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基本的に、「からだに悪い食品」はない。
だから食品として人類に採用され、
あるいは個々の社会で認められ、
長く愛用されているのである。
食べ過ぎや偏りは、
食品の問題ではなく、人間の問題である。

「食品公害」などと言って、
食品添加物や農薬、
ファストフードなどを
排斥してきた者がいるが、
なんだかんだ言って、
日本は世界一の長寿国への道を上ってきた。
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見方によっては、
この過剰ともいえる健康意識や危機感が
長寿国の心理的モチベーションに
なっているところもなくはない。

ところで、
「からだによくない食品」はないが、
「からだによくないコトバ」というのはある。
「言語衛生法」はないから、
どんなコトバを使ってもいいわけだが、
ヘルスコミュニケーション論的にいえば、
以下のようなコトバは、
健康向上にプラスにはならないように思う。

「自分らしく生きる」
「身の丈に合った」
「自分探し」
「(あれこれを)捨てなさい」
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「自分らしく生きる」
というコトバを耳にするたびに、
世の中には、
「自分らしく生きていない」人が
そんなに多いのか、と思う。

芸人のコロッケは、
デフォルメの効いた、
味のある物まねで人気を得ているが、
それとても、
「だれからしく生きる」
ことを選んだわけではなく、
いかにも「他人らしさ」
を感じさせるパフォーマンスによって、
十二分に「自分らしく」生きているはずである

街を歩いていると、
女性の格好をして歩いている男性と
すれ違ったりするが、
ああいう人が、
「自分らしく生きたい」と思っているのか。
いやいや、彼らにとって、
まさに、その格好こそが
「自分らしさ」なのだろう。
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特段のエゴイストでなくても、
人は自分らしくしか生きられない。

「アインシュタインのように」
「ベートベンのように」
「イチローのように」
生きたいと思う人はいるだろうが、
それはモデルの範囲にとどまる。

「われ、思う、ゆえにわれあり。
私はデカルトである」などと言ったら、
救急車で病院に運ばれるはずである。

『フランス人は服を10着しか持たない』とか、
『服を買うなら、捨てなさい』
とかの本がヒットしているとして、
こういう現象を
社会心理学者はどう見るのだろう、
と思うことがある。
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皮相的に見れば、
大量生産、大量消費の時代が終わり、
その反動として、
いままで買い込んだものを
ここでいったん整理したくなったのだろう、
ということになる。

さらに、販売戦略として見れば、
とにかくクローゼットの中を
いったんはカラにしてもらわない限り、
新商品を収めるスペースがない、
ということにもなる。
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とすると、
「フランス人は10着」本は、
繊維メーカー、服飾メーカーの
遠大な戦略にほかならない、
ということになってしまう。

ヘルスコミュニケーション論的に見ると、
内向的モチベーションが
優勢になっている状況といえる。
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「努力せずに偉くなる方法」の答えは、
人の悪口を言うことである。
これなら、一銭の金もかけず、
これといった労働もせずに、
偉くなれる(……ような気になれる)。

これと似ていて、
モノを持たないこと、
整理すること、
ときに友だちさえも
整理したくなる心理。
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それを「引き算型モチベーション」
と名づけようか。

将来へのイメージに対するピントが合わない、
仕事のモチベーションがいまひとつ高まらない、
経済的余裕は生まれない……
といった、思い込みによる
「八方ふさがり」状態にある人にとって、
主体性を発揮できるのは、
自分の周辺を整理することくらいかもしれない。
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それは、社会性のレベルを
ワンランク下げることになる。
世界に出て、
いろいろのチャレンジをするのではなく、
「自分探し」とやらに関心を示す。
「自分探しの旅」には実績も成果も
ないから、次へのステップはいらない。

「身の丈に合った」や「フランス人は10着」
「買うなら捨てなさい」は、
引き算型モチベーションを援護してくれるコトバ。
服を捨てることは、
人に会う機会を捨てることにも通じる。
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こうした風潮は、子どもにも現われている。
学校で起こるイジメは、
つねに学校の管理体制に問題があり、
自殺者は、その不備による犠牲者である。

この図式は、
いつのまにか、自殺者が「善」で、
学校やイジメた側は「悪」である、
というカタチに定番化した。
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イジメを「悪」とするのは賛成だが、
悪にも程度があって、
「死ぬほどの悪」と「死ぬほどでない悪」がある。
が、次に死ぬ者は、図式を簡略化して、
「死んで恨みを晴らしてやる」となる。

なにしろ、「死んで身の潔白を明かす」
「死んで償いをする」「死んでお詫びする」
といった伝統を持つ国である。
教育委員会や校長が詫びる姿は、
次のヒーローを生み出すシステムになりつつある。
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死ぬことがいちばんの負け、
死ぬ奴は卑怯、死ぬ奴は責任のない奴、
などと、
死ぬことを止める価値観を植えつけないと、
死ぬ者は絶えない。
引き算では人生は築けない。

「生きて復習する戦略」くらい
教えてもいい。
「レ・ミゼラブル」は、必読の書である。
引き算ではなく、足し算で、
イジメた奴に報復する計画を練ること。
10年20年計画でもよい。
報復といっても、相手を消すことではない。
生かして反省させ、謝罪させる。
大きなモチベーションになるはずである。
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チャレンジのない種には、
進化は望めない。
そういう意味において、
「自分らしく」系のコトバは、
「からだによいコトバ」とは言いにくい。

からだによくないコトバは、
いつのまにか、
引き算型モチベーションで
自分を引っ張り始めることがある。
どう考えても、
ヘルシーなコトバとは思えない。

ご用心。
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もっとも、
「フランス人は10着しか……」のことを
影山さんが『エンパル』の巻頭ページに書いたら、
「それ、なんのこと?」と、
本の存在さえ知らない栄養士が少なくないという。
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こういう人がすでに存在しているということは、
日本人のモチベーションが
縮小期に入ったというのではなく、
ハナっから、縮んで生きている階層が
すでにある、ということだろう。

ビックバンの原理でいえば、
そこまで縮小すると
反転して大爆発を起こすことになる。

その可能性を疑いつつも、
それをいっちゃぁオシマイ。
それは一種のダメ出しだから、
「栄養士のこれからが楽しみ」
という話で、この項は終えることにしよう。
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by rocky-road | 2015-07-23 23:29  

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