「スリム体型」のリテラシー
7月4日の遠距離クラスでは
「非言語記号のリテラシー」と
「スピーチのスキルアップ」の2本を
講じた。(2015年 横浜、関内ホール)
「リテラシー」とは、読み書き能力。
そこから、事物の認知能力、
説明力などをも指すようになった。
次に「記号」とは、
情報を伝えるメディア。
文字や交通信号だけを指すわけではなく、
性別とか体型とかも
いろいろの情報をもっている、という意味で、
記号となりうる。
背が高い人に出会ったとき、
「スポーツをやっていました?」などと
問いかけるのは、
長身という体型から一定の情報を読み取り、
それを会話の材料に使っているのである。
これが「長身を記号化した」例。
世の中、物品にはだいたい名がついているが、
それでも、新しいものが次々に生まれるので、
その名称は無限といってよい。
さらに現象や行為となると、
ますます無限である。
それでも、人が走って通り過ぎるのを見て、
その人がなぜ走っているのかを
ある程度、読み解くことはできる。
「タクシーを止めようとしているのだろう」
「雨が降ってきたので、それを避けているのだろう」
「勤めに遅れそうなのだろう」
など、前後の状況から理解する。
どの行為にもコトバはない。
が、情報を持っている。
その意味において「非言語記号」であり、
「走る」という行為が「記号」となる。
本人に「記号」としての自覚はない。
見ているほうの人が、走るという行為を「記号化」し、
その意味を認知するのである。
その認識が間違っている場合、
「非言語記号」の分析力(リテラシー)に
不備があった、ということになる。
NHKニュースよく使う、
「ギリシャ経済の先行きは不透明」
という表現に不満を感じるのは、
心で見れば見えるはずの将来を、
「不透明」などと、
視覚の問題にすり替えて、
ごまかそうとする作為にズルさを見るからである。
つまりリテラシーがあれば見えるものを
視覚では絶対に透視できない物理現象に
すり替えるているのである。
目の前をべニア板で覆われたら、
確かに10センチ先も見えなくなる。
が、ギリシャ経済、ギリシャ国の将来は
見ようと思えば、
いくつかのパターンが見えてくるはずである。
ニュースで、不確定な予測はしにくい。
そこで昔は「予断を許さない」と言った。
が、これも使い古して手アカがついたので、
言い換えを迫られたのだろう。
が、誠実さという点では、
「予断を許さない」のほうが
「不透明」よりは上である。
プロは、こういうとき、
新しい表現をつく出さなければならない。
自分のリテラシー力の低さを
べニア板を持ってきてごまかしてはいけない。
もう1つ、NHK関係でいうと、
6月26日の「ニュース深読み」というテレビ番組で、
「やせ信仰」をとりあげていた。
大学教授などのゲストを迎えて論じ合っていたが、
「やせ信仰」は、かつては女優、
いまは、モデルやタレント、
そして女性雑誌などマスメディアのせい、
というのが結論だった。
「やせ信仰」というのも、いやなコトバだ。
もし「やせ」が宗教なら、
人の信ずる宗教にケチをつけるのは失礼である。
かつて西洋人などからは
「日本人は無宗教」といわれたが、
少なくとも一部の女性は、
「いいえ、私はやせ神様を信仰しています」と、
胸を張って言えるのである。
それは冗談だが、
この50年間、女性のスリム志向は変わっていない。
これを専門家が「信仰」と理解することも
50年は続いている。
50年も続けば、とても「流行」とはいえない。
が、専門家の見解のほうは、
「流行」または「マンネリ学説」といえる。
ほとんどの「識者」(かね?)は、
原因と結果を読み間違えている。
やせ願望は、メディアの影響ではなく、
先進国が到達する「文化」である。
その文化に呼応して、
言い換えればニーズに沿って
スリムなモデルを使ったり、
ダイエット記事を組んだりしているのである。
なぜ、そういう文化が生まれたか。
それは、地域の都市化に伴う、
女性の社会進出によるものである。
途上国には、とくに専業主婦などには、
ふっくら型を好む文化がある。
事実、アフリカのある集落を取材した番組があったが
(これもNHK!)、10代の女の子の世界にも
ヨーロッパのファッション雑誌などが入ってきて、
ダイエットを意識する子が増えているという。
それを太った母親や姉が、
「もっと太らなくちゃ」と、
寝転んで間食をしながら言っていた。
「ほら、ダイエット記事の影響じゃないか!」
と思ってはいけない。
少女たちは、ブッシュや森、砂漠の生活ではなく、
都会の生活に憧れているのである。
スリムな体型は、都会化への準備の1つに過ぎない。
もう1つの大きな柱は、
「子どもはいらないか、1人か2人でいい」である。
こうした都市文化は、元に戻ることはまずない。
途上国の女性も、
近代化、都市化とともに、
スリム志向になっていく。
家庭を守るには、ふっくらとした体形に意味があった。
夫や子が帰ってきたとき、
大きなからだで受け止めてあげる、
それが都市化以前の女性の「体型文化」だった。
体型も、もちろん「記号化」される。
オフィスで、ピシッとしまった服を着て、
かかとの高い靴を履き、
オフィスや街をスタスタと歩く姿は、
近代化した女性のカタチである。
それは、家に縛られていた
旧来の女性の生き方からの離脱である。
「やせ」が「信仰」だなんて、
女性の学者までもがよく言うよ。
どこを見ているのか。
リテラシーの低い状態とは、こういうのを指す。
目の前に見えるものだけで理解しようとすると、
どうしてもこうなる。
「ニュース深読み」では、
20~30歳代の働く女性には、
摂取エネルギーが終戦直後よりも低い人がいるという。
そこまでも「文化だ」とまでは言わない。
これはリテラシーによって分析はできる。
1.かつての男の「仕事人間」の再現。
「男に追いつけ、追い越せ」のおもしろさが、
ますます仕事好きに。
その結果としての食事の軽視。
仕事の達成感の結果として、
仕事時間の延伸や友だちつき合いの減少。
2.オフィス仕事がパソコン中心となり、
消費エネルギーが終戦直後に比べれてはるかに減少した。
3.低エネルギー食品にも多様な品種があり、
食欲満足度はさほと低下していない。
(それがマイナスに働いているのか)
4.やせていても栄養的に不備はない食生活の
普及度が低い。
「やせ信仰」などのブッソーな指摘のお陰で、
健康なスリム体型への正しい知識が不足している。
栄養士やその他の健康支援者にしても、
BMIをかざすばかりで、
「アクティブ スリム」へのニーズに応えようとせず、
「それ以上やせる必要はない」などと、
相手のニーズを無視して門前払いをする傾向がある。
対策はいろいろあろうが、
今回は深入りしない。
が、栄養士の社会的役割はまた1つ増えてきた。
「メタボ検診」から「オフィス ボディ」
「フットワーク ボディ」へ。
「リテラシー」の話に戻ると、
以上のように、現象の読解力不足のために、
世の中を半世紀も見誤っていることは少なくない。
サン・テクジュベリのコトバ。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。
肝心なことは目には見えないんだよ」
さて、もう1つの、遠距離クラスでの講義内容、
「スピーチのスキルアップ」は、
社会的発言の機会が
多くなってきた健康支援者のために、
自己紹介や法事のあいさつまで、
その基本を整理して述べた。
by rocky-road | 2015-07-07 00:26