「用字用語」磨きに、ご用事ありませんか。

新春セミナーでの演題、
「『用字用語』から考える
健康・食情報の鮮度と信頼性」を
受講していただいた方からは、
刺激を受けたというお声をいただいた。
健康支援者にとって、
かならずしも退屈な話ではなかったとすれば、
少しは安堵できる。

いくつかの感想をうかがって、
少し補足をしておく必要があることを感じた。
「用字用語」という熟語は
一般的には、
原稿執筆やビジネス文書作成にかかわるもので、
書きコトバに伴う問題と思われている。

確かに、「用字」については、
ほとんど書きコトバの世界のものである。
が、それでも、
「カイセキ料理の料理人です」などというとき、
「『ふところ石』(懐石料理)ではなくて、
『会う席』(会席料理)のほうですが……」
などと会話をすることがある。

あるいは、
「ヒロミさんは、どんな字を書くのですか」と
聞いておくと、名を忘れにくくなる。
「博士が美しい(博美)ね」と。
(スマホ時代のこと、
こういう言い方が通じにくくはなってはいるが)

スピーチや講義、講演のときなども、
使うコトバの用字を口で示すか、
板書するほうが、わかりやすくなるし、
誤解を防ぐことにもなる。

「きょう、お話するのは用字用語についてですが、
デジタル機器で入力すると『幼児用語』と
変換される場合がありますので、
気をつけてください」などと。

ついでにいえば、
わがロッコム文章・編集塾の宿題の課題で、
全部カタカナ表記されている
「用字用語」に関する文章を
「漢字まじりのひらがな文(通常の文章)に
リライト(書き直す)しなさい」
という問題を出したら、
手書きであるにもかかわらず、
「用事用語」と誤記する人がおり、
なかには、タイトルを含め、
何回か出てくる「用字用語」を
すべて「用事用語」とした人がいたのには驚いた。
発話表現に戻るが、
電話で聞き取りにくいコトバを伝えるときなど、
「エジプトの『エ』、キューバの『キ』
ユダヤの『ユ』の小文字、
次は音引き、そしてトルコの『ト』、
『エキュート』、わかった?」

かくのごとしで、
用字は、発話表現のときにも、
まったく無縁のものとまではいえない。
というより、用字に言及したほうが、
言語センスがいい、聞き手にやさしい、
という評価を受けることにもなる。
「用語」のほうは、
もっと、人と一体化している。
知的生物にとっての用語は
からだの一部といってもよいくらいである。
コトバを持たなければ
社会参加はできないし、
参加した場合でも、
使うコトバ、つまり用語の仕方で、
その人の社会的ポジションが決まったりする。

健康や病気、幸福や理念、
ライフスタイルや人生、
「おいしい(「美味しい」ではない)や
「かわいい」というコトバを知らない人とは
人間的なつき合いはしにくい。
新春セミナーでは、
「用語は自己認識にかかわる」
と話したが、
食べ物や料理がおいしいのは、
「おいしい」というコトバを知っているからである。
おいしい料理が先にあるのではなく、
「おいしい」というコトバが先、
味は、そのコトバのあとについてくる。

外食は好ましくない、と思っている栄養士は、
100人中、99人が「おいしい」という
外食料理にも首をかしげる。
「おいしい」という用語法を知らないから、
おいしさを感じられないのである。
おいしさは、生理的には舌で感知するが、
心理的には、コトバによって感じる。
用語は自己認識にかかわるとは、
このことである。
政治家の発言を聞いていると、
「しっかり」というコトバが連発される。
これは、いわばタコの墨、煙幕である。
具体策がまとまっていない状態のとき、
「しっかりやる」といって、
その場を繕うのである。
これが、自己認識のあいまいな状態である。

そのコトバの頻度が
野党側に圧倒的に高いのは、
政権を持っていないがゆえに、
具体策を発案し、政策化し、
提示することができないから、
「しっかり」を連発して、
やる気だけをアピールするのである。
どんなによいコトバでも、
1つを飽きずに使っていると
バカに見えてくるのは、
実はほんとうにバカだからである。

ここでいうバカとは、
それを口にすることによって
自分を偉そうに見せたり、
世の中の動きに
ピタリとついているるかのように
装っていることが
相手に見透かされている、
そのことに気がつかないほどに
鈍感だからである。
「しっかり」を連発する政治家、
「安心・安全」を口にする食関係者や組織人、
「アンチエージング」や「遺伝子」を
健康法として口にする医師は、
ほぼバカと思っていいだろう。

リアリティのないコトバを使う者は、
一種のウソつきで、
そのウソに自分自身がひっかかって、
モノの見方、考え方にウソが多くなる。
NHKがよく使う「注目を集める」や
「警察は慎重に捜査を進めている」
「ウクライナ情勢はますます不透明感を
深めている」などの文学的用語も、
ニュースなどで頻発すると
ウソっぽくなってくる。
海外のどこかの海岸では
ペンギンが道路や街の中を横切る。
これをニュースにするとき、
「注目を集めている」といったら
ウソである。

「集める」は他動詞、文法的には
「ペンギンが人の視線を集めている」のように使うが、
ペンギンには、人の視線を集める意図はない。
正確には「集まっている」のように
自動詞で表現すべきである。
「集めている」は誤表現か、
虚報である。
それに、
「注目」は視線を注ぐことだから、
「注目される」で充分。
「注目を集める」は二重表現で、
軽薄さにおバカが加わる。

放送局は誇張表現をして
注意を引こうとするから、
「注目を集め」たくなるのである。
ニュースなどでは、
警察は、いつも「慎重に」捜査を進めているが、
「慎重」に進めないこともあるのか。
サツ回りの記者が警察関係者に取材するとき、
警察側は、そのつど「慎重に進めています」
などというはずはない。
だれも発言していないのに、
「慎重に捜査を進めている」というのは
推測または創作を含む虚報ということになる。

「慎重に」は、
いつのまにか、
「捜査」や「検討」にかかる枕詞となった。
枕詞は、文学作品としては認められているが、
ニュース報道で使うと創作的になり、
小さな(?)ウソになる。
「ニュースも一種の商品だから、
誇張や装飾もある」
という大人の対応もあるかもしれないが、
公共放送でよく使うコトバは、
いつの間にか国語としての権利を得て、
それが一般化してしまう。
くれぐれも、
こういう用語に感染しないように
注意したい。

「ウクライナ情勢の不透明」も、
見通せない状態の比喩表現である。
先行きを見通せない、
またはその状態を表現できない
プロフェッショナルの怠慢、
またはボキャ貧、
さらにはニュースの文学表現化である。
注意すべきことのもう1つは、
新春セミナーの副作用として、
「これからは用語に気をつけて話したり
書いたりしたい」という発言者がふえたこと。
心がけとしてはよいが、
うっかりすると「しっかり型」になる。

それはそうだ。
人との話し合いのとき、
連続して発話される
コトバの1つ1つに
留意するなんていうことは
実際には、できるわけはない。
できるはずのないことを心に誓うのは、
用字用語論が身についていない可能性があり、
思考がおバカ化している証拠である。
ではどうすればよいのか。

楽屋裏でトレーニングをすることである。
楽屋とは、
この場合、日記である。
気になるコトバ、気に入ったコトバ、
新しく覚えたコトバを
使ってみることである。
数回使っているうちに、
次第に身についてくる。
つまり、日記は、
言語生活のトレーニンググラウンドである。

ロッコム文章・編集塾の塾生は、
もう1つ、
「宿題」というトレーニンググラウンドがある。
この場合には、
用語の適・不適の評価を
そのつど受けることができる。
by rocky-road | 2015-01-28 16:50