句読点が勝った。 !!!!

塾生Sさんの旦那さんが急逝した。
まだ若いし、結婚してわずか数年という死。
そのショックは測り知れない。
そんなパニック状況の中でも、
通夜や葬儀、諸届、住居のこと、
親戚縁者との話し合いなど、
いろいろの事後処理がある。
あれこれに忙殺される中の1つには、
小さなことだが避けられない会葬礼状の作成がある。
そんなことまで手が回らない遺族がほとんどなので、
葬儀関係のことは専門業者が
一手に引き受けることになる。

冠婚葬祭に関する文章もその1つだが、
所詮は文章表現に関しては素人。
そのためなのか、
どこかで怪しい玄人のアドバイスがあったためなのか、
句読点を打たない、という慣習が
業者主導で定着した。
インターネットで検索すると、
喪中のあいさつ、年賀状の文例、
印刷引き受けのサイトなどが次々に出てくる。
そのほとんどの文例には
句読点が打ってない。

塾生のSさんは、
会葬礼状を発注するとき、
「句読点は入れてください」と指示した。
が、悲しいかな、時代は変わっていて、
この種の文章の専門家は、
発注者ではなく、請負業者へと移っていた。
当然、「そういう例はない。入れないのが一般」
と異論を説かれた。

夫の死後の半パニック状態であったこともあって、
「とにかく入れてください」と
Sさんは、叫ぶように言った。
その剣幕に押されたのか、
「私たちはお客様のご意向に沿うのが当たり前」
と受け入れてくれた。

ほんの数年前、
結婚式の報告ハガキを注文するときには
「句読点を入れると縁が切れると言われています」
とかなんとか言われて、
引き下がるしかなかった。
ロッコム文章・編集塾に通っていて、
補助符号の元研究者から講義を受けてはいても、
句読点省きが一般化しきった現状では、
いかに注文主の意向を通すのが大変か、
そのことを、私は事あるごとに話題にした。

それを何回も聞かされてきたSさんは、
「今度ばかりは……!!!」と、
一歩も引き下がらなかった。
「強調の心理」「小説での補助符号」
「新体詩の補助符号」「広告の補助符号」など、
補助符号に関する研究をしてきた者からすると、
Sさんの一件は歴史的事件であり、
心情を加えれば、歴史的快挙である。
(補助符号=句読点、!、?、「」などの総称)

日本人は漢文輸入の時代はもちろん、
カタカナ、ひらがなを使い始めてからも、
およそ千年近くも、
文章表現に補助符号を使うことはなかった。
木版から西洋式の印刷機へと複製技術が発達し、
マスメディア化が進んでも、
句読点は使わなかった。

補助符号のうちでも傍点(ぼうてん)、
縦書きなら文字の脇に打つ○や●、△は、
明治時代から頻繁に使われてきた。
それに対して、
小説や一部の詩には句読点が意識的に使われた。

『金色夜叉』の文例を。
(尾崎紅葉 作。明治30年から5年間、読売新聞に連載)
「金剛石!」(原文は縦書き。「ダイヤモンド」とルビ)
「うむ、金剛石だ。」
「金剛石??」
「成程 金剛石!」
(別の部分で)
「貫一さん、貴方は私を見殺しになさるのですか。
奈何でも此女の手に掛けて殺すのですか!
私は命は惜しくはないが、此女に殺されるのは悔しい!
悔しい!! 私は悔しい!!!」

句読点そのものは、
漢文を読みやすくするために考案したものだが、
漢字まじりのひらがな文に使われ始めるのは
明治43年の国定教科書に使う基準として
「句読法」が定められてから。
しかし、一般人は、
手紙などにはほとんど句読点を使わず、
新聞も、一般的な記事は
ほとんど句読点なして文章を書いてきた。
終戦によって、
コミュニケーション活動をするときに
貧富や教養の差が出るのは好ましくない、
というアメリカ型の民主主義的発想から、
積極的に使われるようになった。

その第1の目的は、
読みやすさに配慮し、誤読の防止にあった。
「家にはいらない」は
「家に、はいらない」と
「家には、いらない」とでは意味が異なる。
大橋説ではさらに、
「人間が使ったコトバ」というニュアンスが増す、とする。
辞書にあるコトバには句読点はない。
が、人が書いた文章には、句読点が入る。
そうすると人間味が出る。
それを知ってか知らずか、
書名、グループ名などに
「。」を入れる例も少なくない。
『CLASSY.』『桜沢如一。一〇〇年の夢。』
「モーニング娘。」


最近は新聞・雑誌広告などに
半欠けの句点をよく見るようになった。
〇を半分隠すことによって、
かえって「。」を意識するようになる。
「月に雲」、満月とはまた違う風情、
余韻に訴える心理効果である。

句読点も進化している。
オカルトの世界ではあるまいし、
「縁が切れます」ではないだろう。

Sさんの結婚のご案内状の句読点を
「縁が切れる」と言って削除した業者よ、
いま言おう。
彼は急逝してしまった。
句読点を省いた意味はなんだったのか。
縁が切れたではないか。どうしてくれるの?」
国語教育を
普通程度にしか受けてこなかった印刷業者、
冠婚葬祭業者、パソコンの文例作成者、
手紙の書き方本の著者たちから
句読法を教えてもらう必要はない。
表現の自由はどこへ行ったのか。
句読点のない喪中のハガキ、
句読点のない年賀状、
句読点のない案内状、
句読点のない賞状などを見ると、
私には、
彼らの国語的センスの低さ、
教養の低さが、はっきりと見えてくる。
それが日本人の、日本語力の現状である
それにしても、
利口な人は、
バカから学ぶことは少ないはず。

by rocky-road | 2014-11-16 22:49