戦争体験の伝え方。
8月に入ると、
日本では太平洋戦争関連のメディア情報が多くなる。
戦争体験を語り継ぐことの意味が説かれ、
実際、多くの体験者が登場し、
戦争の悲惨さを涙にむせびながら語る。
10年前も、20年前も、30年前も、
語るのは80歳前後の人たちで、
そのことに変化はないが、
ふと気がつくと、
戦争体験を語る人と自分との年齢の差が
かなり縮まってきている、という現実である。
いつの間にか、
自分も戦争体験を語る人たちの
年齢になってきたのである。
では、自分に戦争を語るほどの経験があるのか、
と考えてみると、
1945年3月9日から10日にかけての東京大空襲を、
東京府小石川区(現・文京区)で体験した私だが、
自宅の火災は免れたので、悲惨な体験はしていない。
何日後だったか、
墨田区本所緑町で被災した叔母一家の行方を求めて
兄2人について焼け跡に行った。
火の手はあがっていなかったが、
焼け跡からは煙があがっており、
真っ黒に焦げた遺体が、
仰向け、うつ伏せの状態で見られた。
上向きの遺体の歯の白さが
小学2年生の子どもの記憶に残っている。
叔母一家を見つけることはできなかった。
国技館の脇の隅田川には、
遺体が次々と流れてきて、
それを警防団の人たちが「鳶口」(とびぐち)で
引っかけて、岸に寄せ、回収していた。
記憶の中では静かな光景である。
が、全身の毛が焼かれた犬が、
まつ毛まで焼けているために目があけられず、
蛇行するように歩いている姿は、
少年の目には悲惨に映った。
私に語り継ぐことがあるとすれば、
そういう体験ではない。
戦後、復員してきた
「特攻崩れ」(元・特攻隊飛行士)やら、
素性のわからない大人たちが、
戦争体験を子どもたちにおもしろおかしく
伝えることが多かった、という事実は
案外伝えられていないように思う。
ある男いわく、戦争中、
さんざん自分をいじめた上官を
戦場で後ろから銃撃してやった。
別の男いわく、
やはり自分たちをいじめた上官を
復員してから仲間と一緒に見つけ出して、
袋叩きにしてやった。
ある特攻崩れいわく、
修理済みのゼロ戦を移送中、
敵の戦闘機に遭遇した。
わが機には銃弾は備えていない。
やむをえず、銃撃する態勢をとって
敵機の上背後から急降下。
そのたびに敵は逃げるために高度を下げる。
それを何回も繰り返していたら、
「ついに敵さん、山にぶつかりやがった」
子どもたちは、ヤンヤヤンヤ。
「ホントかいない?」と疑ったのは、
中学生か高校生かになってからだったと思う。
が、私の記憶庫には、
こんなヨタ話がしっかり記憶されている。
先日、朝日新聞が32年間、
報道を続けてきた「従軍慰安婦」問題について、
済州島(チェジュド)で
現地女性を強制連行したという話の裏づけは
得られなかった、という記事を大きく載せた。
これも、吉田清治とかいう人物(故人)の
ヨタ話を真に受けた記者の誤報から始まった。
戦争関連の話に「ヨタ」がいかに多いか、
改めて実感した出来事だった。
戦争体験は、ときにリアリティよりも
ドラマチックを指向することがある。
しかし、そこは大新聞、
「ウソを見抜けなかった、ごめんなさい」
とは間違ってもいわない。
「ほかの新聞だって、少しは真に受けていた」
という論法で、自分の失敗の軽減を図っている。
古典的な悪者の言い逃れに、
窃盗犯が「オレは自転車1台盗んだだけ。
世の中には、車を盗む奴がいるし、
オレなんか、人を殺してないからね」というのがある。
そういったからといって、
減刑の根拠にはしてくれない。
新聞やテレビのニュースも、
まるまる真実を伝えているものではない。
人間は、真実を伝えることはできない。
どうしたって主観的判断が入る。
いや、そうではなく。
主観的創作力でニュースを捏ね上げる。
ニュースも「商品」なのである。
甘口のカレー、辛口のカレー、
隠し味のカレー、香辛料重視のカレーがあるように、
ニュースにも、辛口、甘口、マイルドなど、
ニュースの数だけ味つけの違う「真実」がある。
自ら「ニュースの職人」をうたい、
独自の味つけニュースを商っている職人もいる。
順序からいうと、
読者や視聴者にも、
甘口、辛口、いろいろな味のニュースを好む人がいる。
その人たちの口に合うニュースを作り、
それを商品にする、という順になる。
もっとも、世の中には、
ニュースが商品だということを知らず、
ニュース配信者が、
「正義」や「真実」「誠実」「不偏不党」を動機として
仕事をしていると思っている人が圧倒的に多い。
こういう人は、人の作ったニュースという商品に
洗脳され、それに気がつかない。
愛用とは、そういうことだ。
ナイキ、キャノン、パナソニック、JAL……。
人は好き好きである。
ニュースも、
A社、B社、C社が製造販売する
商品にほかならない。
「ねつ造」はないことを願うが
「商品化」はしている。
情報商品は、
理性的より情緒性、
肯定的より否定的、
楽観的より悲観的のほうが売れ行きがよいことは
従業員は「イロハ」の「イ」として知っている。
さて、「ヨタ話」に戻ろう。
戦争体験者のコメントのまとめは、
たいてい「……だから戦争は絶対にしてはいけない」
となる。これも場合によると
ニュース販売店(公共もあるが)の
商品アイテムなのかもしれない。
太平洋戦争経験者は、
自分たちが仕掛けた戦争によって悲惨な体験をした。
その反省があるから、戦争は仕掛けるもの、
という先入観がある。
日本は、確かに何回か仕掛けた。
幸か不幸か「元寇」(弘安の役、蒙古襲来)を
「風化させないように」と
語り継ぐ人はいなくなったから、
「戦争とは仕掛けるもの」が
日本人の潜在的常識になった。
「従軍慰安婦」というニュース商品は、
そういう常識を持つ読者層に
受けるアイテムなのである。
「平和」を唱えていれば、戦争は起こらない、
という信仰は、「仕掛けた自責の念」から生まれた。
「パワハラ」というコトバは知っていても、
地球上にもパワハラがあることを意識する人は少ない。
「平和」信仰が有効なら、
学校や職場で、弱い立場の子や人に
「平和」を1日10回は唱えなさい、と教えてやれば、
イジメはなくなることだろう。
戦争は、
仕掛ける者と、
仕掛けられる者との間に起こる、
そう単純な図式で生じるものではないことは、
地球上の現状を見れば明らかである。
戦争体験を語るだけの、
経験も知恵もある体験者は、
「戦争はいけない」というとき、
では、どうすれば「いけないこと」を
回避できるのか、
そこまで考えて発言すべきだろう。
でないと、なんのために、
あんなに辛い体験をしたのか、
その意味が失われる。
新聞からヒントをもらっているようでは、
戦争体験者失格である。
連日、ウソの戦果絶大ニュースに騙された経験だって、
立派な(?)戦争体験ではないか。
それを忘れてもらっては困る。
「よく話し合って……」
おっしゃるとおり。
が、話し合いを拒否する国もある。
話し合いの場である国連にも、
常任理事国の「拒否権」という
話し合わないためのルールがある。
これは政治の問題ではない。
自分がどうすれば生存できるかという、
生物的テーマでもある。
ゾウの天敵は何か、
ザトウクジラの天敵は何か、
トラの天敵は何か、
ヒトの天敵は何か
そこから考え始めることも
自分の答えを見つけるプロセスの1つである。
by rocky-road | 2014-08-09 23:23