わがプライベートメディア史
昨年の、わが「海と島の旅50周年」がきっかけで、
元「東京潜泳会」の会員の船水公一朗氏から
当時発行していた機関誌・紙のバックナンバーを
送ってもらった。
創刊号から240号まで、25年間の新聞である。
意外だったのは、
この雑誌(のちに新聞に)の創刊には
私は関わっていなかった。
そもそもタイトルもなく創刊するなどは、
私だったら考えも及ばない。
当時、副会長だった私は、
創刊号に「会報は最初の1号を出すことより
3号、・4号を出すのがむずかしいのです」
などと、当事者意識のうすい文章を寄せている。
第3号からは『MARINE MATES』と名がつき、
初期メンバーはこれの11号までを担当した。
(1968~1969年)
デュプロという感熱式の手書きコピーだった。
そのあと、私と何人かのスタッフが引き受け、
そこからはタイプ印刷になった。
このタイプ印刷を依頼した店は、
学生時代、クラス雑誌の印刷で
お世話になった印刷屋さんで、
以後、20年近くお世話になる。
当時、店先で三輪車などで遊んでいた
鼻たれ坊やは、
のちに女子栄養大学から
印刷物をお願いするときの営業担当となり、
いまは、ゴジラのミニュチュアや
戦時中の軍艦や戦闘機にくわしいライターとして、
あるいはいろいろのイベントのコーディネーターとして
活躍中である。
また、『マリンメイツ』の編集を担当してもらった
玉田圭永子さんは、この新聞がきっかけで
商業雑誌のレポーターとして声をかけられ、
やがて編集者としてプロの道を選ぶことになる。
私が『栄養と料理』の編集長になってからは、
「健康の最前線」など、いくつかのルポものの
専門ライターとして活躍してもらった。
遊びと仕事との間には、
思っているほど大きな隔たりはない、
というのが私の持論である。
「遊びは真剣に、仕事はおもしろく」
私のダイビング史は、同時に
プライベートメディア発行の歴史でもある。
その後、「スノーケリングピープル」という
「大学院型」(?)クラブを作り、
ここでも『ピープル』という機関紙を発行した。
小さなクラブではあったが、
ダイビング界の大御所やリーダーを取材し、
「量より質」の情報を提供した。
この時期とダブるが、
「水中8ミリフェスティバル」というサークルを作り、
ここでも新聞を発行した。
といっても、今度、船水氏から送ってもらうまで、
その新聞のことは忘れていた。
「8ミリフェスティバル」は、
ビデオ機器の登場で
「水中映像サークル」へと移行する。
もちろんここでも、新聞を創刊させた。
『シーメール』である。
いまは、
海のクラブやサークルからは少し離れたが、
パルマローザ発行の『エンパル』の編集を
お手伝いしている。
海から健康支援者の世界に移っても、
プライベートメディアの発行コンセプトは
さほど変わらない。
「ビッグバン」とまではいわないが、
小さくまとまろうとしないで、
外へ外へと膨張するエネルギーと
方向性とを失いたくない。
宇宙に壁がないように、
プライベートメディアにも壁はない。
「プロだから」「アマだから」と、
小さなサイズでまとまろうとするのは、
おそらく大宇宙の法則に反している。
ヒトはコトバを持っている。
イメージを持っている。
つまり、それらの「情報」には壁はないのである。
それは、
プライベートメディアに限らず、
人生の法則ではないのか。
大きな宇宙像を描くことから
ダイナミックで、
ハッピーな人生は始まるのである。
by rocky-road | 2014-07-28 18:49