食事相談にも編集力が必要?

先日、第31回「水中映像祭」に参加した。
31年前、数人の仲間に呼びかけて発足した
アマチュア水中カメラマンによる作品発表会である。
毎月1回例会を行ない、
毎年4月には発表会である「水中映像祭」を開く。
私は第20回まで運営にかかわった。

発表作品は、スライドショー、動画ショー、
またはその混合映像、作品は5分以内。
タイトル、エンドマークをつけ、
BGMやナレーションを入れてショーアップする。
発表者は、海への旅のときどきに撮った写真を
一定の順序で配列し、
ストーリー性を持たせて作品とする。
1回の旅をレポートする作品、
1種または数種の生物の生態を紹介するもの、
ある地域の特徴を継続的に撮ったもの、
接写レンズで海洋生物の表情をとらえたものなどなど。

私がかかわってきた20年間のうち、
後半の10年間は、
ストーリー性やテーマ性を求めた。
30~100枚のスチール写真を
羅列的に並べるのではなく、
一定の流れを保って作品化してほしい、と。
たとえば、
ボートでダイビングスポットへ向かう写真を映す。
次の1枚は水中写真で、魚群のカット。
これでは流れができない。
「いま、ボートから見た風景が
映ったばかりじゃないか!
いきなり水中かよ!」

では、どうするか。
海に入る直前のダイバー、
または着水したダイバー、
潜っていゆくダイバーの後ろ姿などを1カット入れる。
これによって、ボート、エントリーするダイバー、
魚の群れ、という具合に「点」が「線」でつながる。

A(ボートで海へ)のカットと
C(魚群)のカットをつなげるために
挿入するBのカット(エントリーするダイバー)のことを
「インサートカット」という。
さらにいえば、
ボートに代表される陸上のシーンに数カット、
エントリーするダイバーに数カット、
水中の魚群に数カットというように、
複数のカットで小グループを作る場合、
その小グループを「シークエンス」という。
「小エピソード」というような意味である。

トランプでは、ハートの2、3、4、
スペードの7、8、9のように、
同じマークで連続して3枚がそろった状態を
「シークエンス」という。
映像(あるいは風景)は、
文字や文章が生まれる以前から存在するが、
それが人間(そして動物)に認知されると、
時間軸に沿って記憶され、配列される。
そこで、好むと好まざるとにかかわらず、
文法が生まれる。
映像にも文法がある、
というより「文法」という引き出しを作って
それに目にしたものを順次収めてゆく。

久々に水中映像祭に参加して、
あれから10年たっても、
後輩たちが、編集力を自分のものにしていないことを
実感することになった。
キャリアのある人は編集力をつけているが、
新しい人にそのスキルが伝承されていない。

水中映像サークルは、
映像の編集技術向上のためのサークルではない。
そして、水中映像祭は、
アマチュア個々人の、
海への旅の楽しみの報告会である。
「だから、むずかしいことをいわず、
楽しむだけでいい」という人もいる。
が、毎年、数百人の人に集まってもらい、
2時間を拘束し、
自分たちの旅の映像を鑑賞してもらおう、
と思う以上、レベルアップを目指すのは当然である。
でなければ、20年、30年は足踏みでしかない。

確かに、映像の編集は(も)むずかしい。
NHKテレビに「探検バクモン」
というシリーズがある。
《爆笑問題》の2人が国立公文書館や
地下鉄の深部など、
部外者が入れないところを探検する。
番組中、
インタビュアーとして登場する太田氏は
いつも私用のコンパクトカメラをぶらさげている。
その映像が気になった。
カメラマンのモラルとして、
仕事中には自分の写真を撮らない、
という不文律がある。

知人のプロカメラマンは、
依頼されて出張したとき、
取材地では原則として自分のカメラは持たない、という。
「アゴ・アシつき」の取材旅行先で
自分の写真を撮るのはいかにもセコイ。
が、番組では、
太田氏がカメラを構えている場面は皆無。
「聴く」のか「撮る」のか、どちらかに絞れ。
撮る気配のないカメラをぶら下げて、
右手をいつもふさいでいる番組の意図がわからない。

そう、担当セクションに問い合わせたら、
カメラは私用だと言う。
そうだろう、漫才師にカメラを任せるほど、
NHKはカメラも、
カメラマン不足してはいないはず。
そのはずなのに、
写真は番組の中で使っている、と言う。

いままで見てきた中では、
太田氏が撮った写真を番組中で使っている、
という映像表現はなかった。
映像の文法がわかっていない。

「使っている」ことを示すには、
太田氏がカメラを構えているシーンがあって、
次に、そのアングルからのショットを出す。
「撮影/太田」との
スーパーインポーズが入ればなおいい。

いまになって、相方の田中氏のほうに
わざとらしく大きめのカメラを持たせているが、
太田氏のブラブラカメラは変わらない。
芸ではない、行儀の悪い演出が見苦しいので、
以来、視聴はやめたから、現状は知らない。

ことほど左様に、
文章表現から離れるほどに、
映像の「文法」や「編集」はむずかしい。
いや、映像にも、
それ以前の段階では、
シナリオやコンテがあるわけだから、
本当は、「文法離れ」や「手抜き編集」は
防げるはずなのである。

プロがその程度のことなのだから、
アマチュア水中カメラマンに
四の五の言わないほうがいいのかもしれない、
などと思ってはいけない。
アマチュアが、アマチュアであることに甘えたら、
モチベーションはあがらず、
仕事の向上は望めない。
時間的、予算的制約のないアマチュアの仕事が
つねにプロに劣る、などという発想は、
負け犬の自己弁護である。

忘れてならないのは、
シナリオを持たぬまま、
数十分の健康相談、食事相談を行なう
栄養士などの健康支援者は、
話しながら話題を編集しているということだ。

初めて会った人とコトバを交わす中で、
その時間に適した起承転結をつくり、
会話を編集し、その日のエンディングへと持ってゆく。
その作品作りのすごいところは、
主役はつねにクライアント自身であること。
クライアントには、健康意識を高めたのも、
モチベーションを上げたのも
この自分の聡明な判断によるものだ、
と思わせるようなストーリーに
仕上げてゆくところである。

「行動変容」などというイカツい用語を使わず、
自分で自分の健康ストーリーを作らせる、
そういう話し合いの構成力、編集力が
実は、健康支援者の特技なのである。
もう一度言おう、
食事相談や健康相談は、
打ち合わせのない「相方」と
アドリブ的に物語を作ってゆくスキルなのである。
一定の時間に収める以上、
省略も割愛も必要。
これを「編集」と言わずになんと言おう。

「インサートカット」「シークエンス」
健康支援者も遠からず
編集スキルを真剣に学ぶことになるだろう。
最後に、「編集」を定義しておこう。
「編集とは、ある目的のために情報を集めたり、
再構成したりして、別個の情報の創造体をつくること」

by rocky-road | 2014-05-09 00:41

