社会環境を汚染するコトバ。

NHKテレビのクイズ番組に
「バカリズム」という人が
レギュラー出演しているのに驚いた。
クイズへの適応性もよく、
なかなか頭のキレそうなタレントなのだが、
自身のネーミング力という点では、
自称するように、少しはおバカなのかもしれない。

いまはどうか知らないが、
昔は家の中で「バカ」というと叱られた。
兄弟ゲンカで取っ組み合いになっても、
「バカ」とは言えなかった。
言うと親に殴られるからである。
上流家庭だったわけではない。
中流よりも少し下かな、
という程度の家庭でも、そうだった。

表(おもて)や学校でケンカをするとき
「バ~カ」
「お前がバカだろォ」などと
「バカ」だけを繰り返している子は、
軟弱だったり、弱虫だったりして、
どちらにしても仲間内の順位は低い子に多かった。

時代は変わった。
歌詞の中の「真っ赤なポルシェ」を
禁句にしたNHKも、「バカ」は容認し、
「ポルノ」や「コブクロ」も
音楽番組の中では上座のほうに据えている。

固有名詞だから、
その部分だけ「ピピピ」と
別の音をかぶせるわけにはいかない。
冬季オリンピック放送のテーマ曲まで歌わせたのだから、
十二分に社会的に認知されたことになる。
つまり、「ポルノグラフティ」は
社会環境の一部になった。

辞書で「ポルノグラフティ」を検索すると
「(もともとギリシャ語で娼婦の意)
(フランス語で)性的興味をそそるような描写を
主とした文学・写真・映画の類」とある。
ついでに「こぶくろ」(子袋)は、
「子の宿る器官。子宮。こつぼ」とある。

日本の音楽番組では、
このように低劣なネーミングが
なんの抵抗も受けずに茶の間に入ってくるのが現状である。

それにしても、男性ミュージシャンの
著しい言語センスの低さにはあきれる。
昔、自分の子に「悪魔」とネーミングし、
役所に届けようとした親がいたが、
受理されなかった。
子が大きくなったときのことを考えると
不適当というのが理由だった。

「悪魔」に反対した人たちの心の底には、
そういう節度のない、ふざけたネーミングによって
社会の空気が濁るのを防ぎたい、
というメンタリティもあっただろうと想像できる。
各々のネーミングに、
どういう事情や動機があるかは問題ではない。
何か、もっともな理由があるとしても、
社会の空気を汚染する、それが問題となる。
そういう風潮を、
問題にしないことが問題、という図式になる。

「表現の自由」だの「ネーミングの自由」だのというが、
公害の原因になる以上、
笑ってすますわけにはいかない。
最近は、むやみに「殺すぞ」「死ね」などというと
警察沙汰になる。
昔、子どもがチャンバラや戦争ごっこ、
プロレスごっこに興ずるときには
「ぶっ殺してやる」「死ね」「地獄に送ってやる」
などと叫び続けたものである。

そんな場面にも、親や警察は介入してこなかった。
が、いまは多様なメディアが普及し、
情報環境が、町内会よりももっと狭くなった。
そんな狭い環境の中で、
いい大人が、恥ずかしげもなく、
不適切ネーミングや不適切発言をするようになった。
仲間内の発言も、つぶやきも、
即、社会環境になってしまう。
平均寿命が延びるということは、
大人および社会を若年化、幼児化する側面を持つ。
人生のタイムスケジュールがゆったりしてくると、
大人になること、老成することを急がなくなる。
肉体的にも精神的にも、若い時代が続く。
そういう環境の中では、
精神的に大人になれない者の比率も高くなる。

普通、二十歳にでもなれば、
自分のことを「バカリズムだ」「ポルノだ」「コブクロだ」
などと、卑下して、かつ、それを社会に発信するなどは、
恥ずかしくてできない。

ちょっと考えればわかるが、
彼らが60歳、70歳になって、
孫の仲間たちに
「私がポルノです」「僕たち、コブクロ」
「何を隠そう、私がバカリズム」と
いえるのだろうか。
そういう状況が想像できないというのは、
また精神年齢は、いいとこ13歳未満。

とはいえ、現実には、それが普通の社会環境になった。
終戦後、子どもたちは、英語を真似て
「ワタシハ ニュッポンジンディエスヨ」などと、
ふざけたものである。
が、それが若いポップス系のミュージシャンに移って、
「クワゼニ サマヨウ クォノハノヨウニ♪」
などという発音法が継承された。
その若者も、すでに60歳を過ぎている。
が、いまも、あの発音で歌う。
耳にするたびに、「戦後は終わっていない」と実感する。
小学生が中高年になった。
が、いまさら自分の声では歌えない。
カタコト日本語がブランドになったから。

作曲家の小林亜星氏は、
ジャズと英語とは相性がバツグンによい、といった。
ドイツ語のジャズも、フランスのジャズも、
確かにしっくりこない。
日本語も、もちろんダメ。
だから、あの発音にならざるをえない。
研究に値する言語現象である。
「シンガーソングライターにおける巻き舌発音の法則性」
話を戻して、
品格のないコトバが、なぜ社会環境を悪くするのか、
分析しておこう。

話は簡単で、
①リズムやテンポ、メロディに支えられたコトバは、
その意味への関心を弱め、
多くの人に受け入れられやすい。
それを演ずる者への抵抗性も弱める。
②センスの悪いコトバが繰り返されていると、
それへの抵抗性を弱めるだけでなく、
それを自分から使うようになったりする。
「見れる」「寝れる」「食べれる」のごとく。
差別語などは、それを押さえることで、
社会の汚染度は抑制されている。
やはり「悪貨は良貨を駆逐する」

最後に、ここでもしばしば指摘している
汚染度の高めのコトバをあげておこう。

「いわゆる」の連発や、誤用。
この場合の汚染性は、
一言でいえば、「知的ぶりっこ」による偽善性。
「いわゆる」といってから、
「……なんていったらいいのか」などとつなげる大人は、
食品の偽装表示に近い「まともな人偽装」である。

「安全・安心」
安全と安心とは次元の違うコトバ。
これを連発することで、
安全に対する社会の注意力を弛緩または麻痺させる。

by rocky-road | 2014-03-12 17:29