1ページの中の人生。
わがロッコム文章・編集塾では、
10~11月の授業で
「私的な記録の形式と記述方法。」
という講義を行なった。
メモ、日記、メディアノート、読書ノート、
ログブック(旅行記録)、受講ノート、
ライフスタイルノート、アイディアノートなどの
私的な記録の意味と、記述法について講じた。
一般に、記録は、
「あとで役に立つ」と思って書いている人が多いが、
それは目的の一面でしかない。
そう考えるのではなく、書くこと自体に意味がある、
と考えるべきことについて説明している。
長い間、ほとんどの人が、
記録の二次的目的(意義)のほうに意識が行ってしまい、
書くという習慣が、取材モードの人生を歩くことになる、
つまり一次的目的が大きい、という点を見落としてきた。
その理由を「メディアノート」を例に考えてみよう。
こんなノートを用意すると、
テレビやラジオ番組への集中度が違ってくる。
情報の「垂れ流し」に思えるマスメディア情報も、
必要なことをキャッチするシステムができていると、
どの情報も「宝物に思えてくる」とまではいわないが、
好奇心を刺激するものがいかに多いかがわかる。
「鮎汲み漁」(アユくみりょう)という、
ちょっとアンフェアな、残酷な漁がある(漁はほとんどアンフェアだが)。
産卵のために遡上するアユが滝をジャンプして上るところに
竹で編んだ網を仕掛けておいて、
晴れてジャンプに成功した瞬間、
アユはそこに着地してしまう。
それをごっそりいただくという漁法。
たとえが、きれいではないが、
メディアノートは、
目の前、耳の前を通過してゆく情報を
鮎汲み用の網のように、キャッチするシステムである。
一部に「テレビ番組はくだらないものが多い」と
感じている人がいるが、
「くだらない」のは、
ノーシステムでテレビと向き合う人間のほうである。
念のためにいっておくが、
テレビを見るたびにメディアノートを開いて待機する、
などという、お勉強スタイルで生活することのすすめではない。
新聞の折り込みチラシなどで作ったメモ用紙を常設しておいて、
おもしろい話を聞いたら、メモをする。
テーブルの上の湯呑みを倒したら、
さっと台ふきんのあるほうにからだが反応する、
あれと同じような反応である。
メモは、あとでメディアノートに移す。
それだけのことである。
11月のある授業日、
「当用日記の記述ができない日があって悩む」
と、日記経験を語った人がいる。
そう、1日の終わりになにを書くか、
それで苦しむ人はいるし、苦しむ日もある。
小学生時代なら「きのうと同じ」で逃げる。
が、大人になってそれをやったら、
自分の1日を捨てることになる、そう思ってがんばる。
辛いが、頭を使うとは、そういうことである。
1日の活動の中から、話題をピックアップして、
数行の欄内に収める。
この作業は、雑多な言語・非言語情報を
数行に集約する思考と表現のトレーニングである。
あとで役に立つかどうかは問題ではなく、
そうした知的労作自体が目的なのである。
もちろん、話題づくり、テーマ発見のスキルは強化される。
1食の献立が、日々の楽しみとなり、
結果として心身の健康を支えるのと同じように、
日々、記録することは、話題を作る能力、世の中を見る目、
あれやこれやを総合し、分析する能力を養い、
結果として、社会への適応力を強め、
人生を豊かなものにする。
それは、なにかの準備なのではなく、
それ自体が人生そのものなのである。
ちょうどその日の夜、
NHKテレビの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に
売れっ子のデザイナー、佐藤イサオ氏が出演した。
氏のプロフェッショナル論の1つは、
大事なのはセンスとか才能とかではなく、
1つのことを考えて考えて考えること、
その情熱がないと、どうにもならない、
という意味のことを言っていた。
そうなのだろう、
考えることは発見であり、創造であり、
ボキャブラリーの獲得であり、
そのボキャブラリーが、意外な概念を引き出してくる。
苦しくても、きょう1日、なにがあったか、
考えて考えて、考え抜くことである。
その集中力、想念のスクランブルは、
単に1日の成果ではなく、
これまでの人生の成果にほかならない。
by rocky-road | 2013-11-28 20:16