記号の現実、私の現実。

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『読売新聞』は、11月5日付朝刊で
「論点スペシャル 食材虚偽表示」を特集した。

ここでは3人の論者のコメントを紹介している。
伝承料理研究家の奥村彪生(おくむら あやお)氏、
全国消費者団体連絡会事務局長の河野康子(こうの やすこ)氏、
国立民族学博物館名誉教授の石毛直道(いしげ なおみち)氏。
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石毛先生のコメントを興味深く読んだ。
いわく、
日本の食は持ち味主義だ。持ち味を大切にする。
料理名人ほど「料理のし過ぎはだめだ」という。
食材を吟味し、それを生かす。
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フランス料理は、「ブルゴーニュ風エスカルゴ」とか
「アルザス風牛タン」とかと、料理のスタイルを示す。
また、「ニンニク風味ソース」などと、ソースの内容まで書く。

中国では、食材以前に、「炒」(チャオ/いためる)、
「炸」(ヂャ/揚げる)、「紅焼」(ホンシャオ/醤油煮)などと、
火の使い方にこだわる。

英語では、エビは大きければオマールかロブスター、
車エビ程度なら「プローン」、小さいのは「シュリンプ」

さすがは食文化の権威、
広い視野でこの問題の本質を指摘している。
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先生の著書で、英語の「クッキング」には
刺身などは入りにくい、と書いてあった。
過熱しないものは料理とは扱わない、との定義だという。

しかしいまは、世界の食のデパートとしての日本の食文化は、
知らず知らずに世界の食文化の中に
とっぷりと漬かっていたのだ。
ダブルスタンダードどころか、
地域ごとの、ワールドスタンダードの上に立っていたというわけ。
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食材ごとに、料理ごとに、店ごとに、
調理人ごとに、それなりの基準を設け、
それに従って料理を提供していたということだろう。
それが日本国の「常識」とズレているかどうかは、
現場では考えたこともないテーマだった。
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各関係者の謝罪会見を見ていて、
あまりにも罪の意識が感じられないのは、
自分の文化を疑わないからであろう。
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以前は、「きょうは茶色の服だから、
赤い靴を出しておいて」などと言った。
この場合の「赤」は、もちろん「茶」である。
5月という季節を形容するとき、
「青々とした緑の季節」などという。
「青」なのか「緑」なのか、はっきりして……。
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そもそも、日本語には「茶色」という色の単独名称はない。
「茶色」は、「お茶」の色のこと。
でも、茶の抽出液は緑に近いのでは?
「空色」も「だいだい色」も「こげ茶色」も、
借り物の名称である。日本語には、それらの単独名はない。
虹が7色ではなく、3色や5色である国があり、
そういう言語世界もある。
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昔、「イセエビ」を「伊勢エビ」と表記するか、
カタカナで表記するかで論じ合ったことがある。
「関サバ」はどうするか、「三浦大根」をどう書くか……。
それらは、かならずしも産地を指すものではなくなっていた。

魚の和名には、タイでないタイがあまりにも多い。
「スズメダイ」「ニザダイ」「イシダイ」「イシガキダイ」
「タカノハダイ」「ネンブツダイ」……。
みんな疑似名称である。
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「谷中銀座」や「霜降り銀座」など、
各地に銀座があるのと同じで、
魚の王座を占める「真鯛」にあやかって、
類似のネーミングをする。それが日本人の、
いや多くの人間の心理である。
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英語の魚の名称はもっと大胆で、
クラゲを「ゼリーフィッシュ」とし、
「ミノカサゴを「ライオンフィッシュ」だという。

「一般意味論」や「認知言語学」では、
コトバと実体との間には隙間がある、
それを前提として研究や論を深める。
食材と名称、産地と食材の関係など、
昔から問題が絶えない。
牛乳の定義、アイスクリームの定義など、
その都度、定義をし直してきた。
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コトバは、事物や現象の地図だから、
道ができてから地図に記載される。
いつも後追いになる。
今後もこの種の問題は起こるし、起こることで、
定義力が高まってゆく。

少なくともプロは、そのズレにいち早く気づき、
それを指摘する義務と責任を負う。
食関係者、とくに外食産業に知識を持つ専門家は、
いまになって「道義的に許されない」なんて、
後知恵で言ってほしくはない。
「あんたが早く気がつけよ!!」
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少し話が変わるが、
知人の林 公義(はやし まさよし)氏は、
自然博物館学芸員時代、
展示物についての解説ボードをつけておくと、
見学にやってきた小学生たちは、
しきりにその記述をノートに写す。
それに集中し、実物を見ない、と指摘していた。

実物よりも記号に反応するという習性が生まれるのである。
大学生も同じで、講師が何日もかけてテキストを作っていくと、
講師の話は聞かなくなり、私語が多くなる。
そこで、文章を音読し、それを書き取らせると
真剣に取り組む。「スリリングでよかった!」などという。
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11月3日の食ジムの帰り、
車内に、足を少し引きずる女性が乗ってきた。
場所は優先席のある車内の端のコーナー。
そこは優先席ではなかった。

椅子に座っていたのは私を含めて6人。
私は、その女性に席を譲った。
ご本人は、すぐ降りるから、と言ったが、
私の降りる駅の1つ手前。
荷物の多い私に気をつかいながらも座ってくれた。
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私を除く5人は、若者で、全員、デジタル機器に熱中。
不親切という以前に、周囲で起こっていることに無関心。
小さな機器の中に展開する記号に釘づけになっている。
「視野狭窄」という症状があるが、
自分の環境に注意を払う、動物としての感覚が薄れ、
人間の作った記号にぐいぐいと引きつけられる。

信号を渡りながら、ケイタイに集中する。
左折する車が待っていても、われ関せず。
「安心・安全」という記号を信じているから、
わが身は安心・安全。
横断を待っているバスなどの存在は意識にない。
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こういう記号優先行動と、
食品の疑似表示とはセットになっているのだろう。
「シバエビ」と書いてあるから、シバエビであり、
「絞りたてジュース」と書いてあるから、生ジュースなのだ。

いま、日本人にとって、
記号と実物との間には、常に隙間ができる
ということを認識する機会になったとすれば、
認知行動学的な進歩である。
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レストランで、「このステーキには、何か注入なさっていますか」
「このカワハギ、ウマヅラハギに似ていますね、
調理前のものを見せていただくこと、できるかしら?」

安心・安全は、
最終的には自分の「動物的勘」によって維持される。
「日本人よ、もっと動物であれ!」かな?
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もっとも、いまや「勘」は
野性的な生活から蘇るのではなく、
皮肉なことに、知的作業によって……
つまり、読書や人との直接的なコミュニケーションによって
回復されるのであろう。

by rocky-road | 2013-11-07 17:16  

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