自分らしく、「しだら」あり!?

車内で横になって眠る男、
短パン姿で爆睡する中年男、
そんな姿を見ることが多くなった。
その無防備なサマを見て、
日本男子も地に落ちたな、と思う。
玄関を出たら7人の敵がある……だって?

「だらしがない」の「だらし」は
「しだら」をひっくり返したものだという(倒語)。
「しだら」とは、引き締まること。

「しだら」ではない状態のことを
「だらし」とひっくり返すことによって、
引き締まっていることの反対、
つまり、しまりのなさ、節度のなさ、体力のなさを
表現したかったのだろう。
やがてそれが、現代日本語として定着した。

「しだら」を「節度」とした場合、
それを支えるのは個々人の価値観だが、
生物は環境に反応するようにできているから、
内的な支えも、外界の乱雑ぶりに出会うと、
あえなくそちらに適応してしまう。

車内での化粧は日常的な風景になり、
歩きながら、または自転車に乗ったままのケイタイもOK、
テレビやラジオ番組への匿名のつぶやきも、
局側が求めることで成立している。
公共メディアに匿名で意見をいうなどは、
便所の落書き並みで、ここにも節度はない。

また、ある週刊誌は、
しばしば「好き嫌い記事」を載せる。
8月29日号では、
「本誌恒例メルマガ読者1500人が選んだ
好きな女優 嫌いな女優 2013年夏」とくる。

好き嫌いは、論評以前。
大人の公的メディアがやることではない。
それを聞いてどうする? なんと生産性がないことを!!
が、「公共の場」「世間の目」という概念を失った、
民度急落中の、下衆っぽい日本国民は、
こういうテーマでもひっかかる。
「迎合」というのは、自分の意向を押さえて、
相手に調子を合わせることだが、
この編集長の場合は、さほどのアイディアもないから、
そんな安っぽい企画で勝負に出ざるを得ないのである。

老舗(しにせ)中の老舗である某出版社に席を置いても、
品性という点では、電車の中で横になる男と
さほどの違いはない。
社内でも、眉をひそめている社員がいるはずだが、
編集長に任せた以上、そこそこの売れ行きを出している以上……
などといって、しばらくは静観するしかないのだろう。

黄金時代を経験したOB編集者の多くは、
「あの会社、どうなっちゃってるの?」と
嘆いていることだろう。
そのOBの1人に、名著となるに違いない
『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』の
筆者がおられるのは皮肉と言えば皮肉である。

ところで、
「人様に迷惑をかけないように」は、
いまも日本人の行動規範として効力をもっているが、
その場合の「迷惑」は、行列に割り込んだり、
人に水をかけたり、人のものを盗んだりといった、
多分に物理的なところにポイントが置かれる。

この規範は、自分の行動が社会環境の一部となる、
などという社会性とは無縁の価値観である。
人の悪口には、案外寛大。
だから女優さんが嫌がるであろう悪口を
公器を使って平気で展開する。
きわめて消極的で受け身、
最低限度の、小さな小さな規範だから
「自分らしく」「自分に正直に」
「身の丈に合った」などの言い様とも相性がいい。

「男らしく」「女らしく」「大人らしく」
「人間らしく」「父親らしく」などの規範は、
その昔、自然発生的に「らしく排斥風潮」に追いやられ、
結局は「自分らしく」にたどり着いたようだ。
これならば、なんら手かせ足かせにはならず、
プレッシャーはゼロ。
それはつまり、「ゴキブリはゴキブリらしく」
「クモはクモらしく」「ダイオウイカはダイオウイカらしく」
ということであって、進化の拒絶のようなものである。
ヒトはヒトらしくないことを求めた結果として人間になった。

ゴキブリだって、ダイオウイカだって、
いかに「らしくなく生きるか」に懸命である。
環境の変化にいかに適応するか、
そのことに死にもの狂いだから、
現状にあぐらをかいた「自分らしく」ではすまされない。
ゴキブリは永遠にゴキブリではないのである。
身の丈に合った、自分らしい生き方は、
向上はもちろん、変化さえも好まない。

そういう社会が、日本では当分続く。
「安心・安全♪」と念仏を唱えることで
安心・安全が保障されると思う信仰を持てば、
地震は来ないし、放射能汚染の地下水は
海水にもまれて浄化されるかもしれないし、
尖閣列島も竹島も、自然にみんなが忘れるかもしれないし……。
いやいや、そんな大きな話ではなくて、
「車内の座席のクッションが、もう少し柔らかいと、
チッタァ寝心地がいいのになァ……」
そういうレベルの退化人間の健康度は、
果たして上げることができるのだろうか。

健康支援者のビジネススキルは、
すでにそういう現実に迫られているのではないか。
平和ボケで、ストレスを感じなくなった人間に
一定のストレスを与えるには、
そうとうのシタタカさが求められる。
まだ品格を保っている
月刊誌のほうの『文藝春秋』の8月号で、
塩野七生氏が「悪質さのすすめ」という
あいかわらず、切っ先鋭いエッセイを書いている。
昔、ある人から聞いたというアメリカのジョークを紹介して、
「世界に4つ、絶対にないものがある、
アメリカ人の哲学者、イギリス人の作曲家(クラシック)、
ドイツ人のコメディアン、日本人のプレーボーイ」と。
塩野氏のプレーボーイの定義は、
「少なく与えて多くを取る能力に長じた人」である。
これを健康支援者に当てはめたらどうなるか。
あれやこれや、栄養学の知識を押しつけて、
相手の行動を1ミリも変えることもできないようなのは、
プレーボーイでもプレーガールでもなく、
ただのお人よし、ただのド素人以外の何物でもない。

クライアントの中には、
電車の中で寝転んだり、
「自分らしく生きる」ことに
精いっぱいだったりする連中も多いから、
ここは低俗週刊誌に倣って、
「ご飯とパンとどちらが好きですか」
「車内でカップラーメンを食べる人を見た人がいますが、
どのようにお考えですか」
「地球最後の日に、最後に何を食べたいですか」
時間がないのに、遊んでなんかいられない、
などといってはダメ。
問いかけは、答えを引き出し、
その答えは、自分を縛るものである。
食事相談における問いかけは、
女優の好き嫌いを聞くよりも
はるかに生産的である。
by rocky-road | 2013-08-26 01:51