バッグは「生きざま」を運ぶ?

春は花の季節、花粉症や黄砂の季節、
衣替えの季節、そしてバッグの季節……、
ということに、いまさらながら気がついた。
街を歩いていて、バッグ屋さんに活気を感じたからである。
「そうか、コートなどを脱いで身軽になると、
歩行範囲が広がるし、バッグが目立つようにもなるし、
買い物衝動も強くなるし……」

こんなこと、バッグ関係者にとっては
イロハの「イ」ほどの常識なのだと思うが、
門外漢の無知は、悲しいかな、そんなことにも気づかず、
長年、のほほんと生きてきて、
いま深くそれを感じているしだいである。

とはいえ、ダイビング雑誌に連載をしていた頃は、
ダイビングバッグ論やサブバッグ論を何回か書いた。
忘れ物を防ぐための詰め方、宅送の方法、
海外旅行のときの機材の収納の仕方など。

では、陸上の、いや一般社会人のバッグ論は
どうなっているのだろう。
部外者の印象からすると、
真にユーザー向けの情報は少ないように思える。

その理由は、モノ専門誌も含めて、
マスメディアがモノの供給側を取材するからである。
この図式では、モノ供給者側の情報が圧倒的に多くなる。
「素材の生地にこだわった」
「余計な装飾を排除した」
「120年の伝統がある」
「イタリア職人の技術が最大限に活かされている」などと、
ユーザーが本当に知りたいこととは少しズレたところで
記事がまとめられてゆく。

本当は、消費者代表のような人に取材をすればよいのだが、
そういう人を見つけ出すことはできない。
社会人のほとんどはバッグ歴を持っているから、
それなりの意見は持っているはず……
と思うのはシロウトの浅はかさ。

普段、無意識に使っているあれやこれやについて、
有効な意見を述べられる人など、
10万人に1人いればいいくらい。
そんな人に出会う確率はあまりにも低い。

こういう場合の穴を埋めるのが評論家である。
が、日本人は評論が好きではないから、評論家が育たない。
そもそもニーズがないのである。
「映画評論家」や「服飾評論家」などの肩書は聞くが、
おもな仕事は解説者であり、ガイドである。

「解説者」さえも、ちゃんと仕事をしているのだろうか、
と思うことがしばしばある。
スポーツの国際試合の解説者などは、
解説そっちのけで「いですよ、いいですよ」式の
歯切れの悪い応援団になってしまうのである。

そういうわけで、
「日本アカデミー賞評論家」も「バッグ評論家」もいない。
(日本アカデミー賞評論家は、受賞者のヘタクソな
ド素人コメントや、食事のマナーなどについて評論する人)

バッグを買う人は、
メディアのバッグ論を見るとき、10分の1程度参考にすればいい。
少なくとも機能性については、自分で考えることである。
「機能性」とは、使い勝手。それは人それぞれに違う。

右利きか左利きか、体型は太めか細めか、
いま求めているバッグは仕事用か、街歩き用か、旅行用か。
バッグの材質は、入れたものを保護し得るだけの厚みがあるか、
書類や本のサイズと分量は? ケイタイ機器のサイズは?
そのときに着る服のバリエーションは?
コートを着ているときに合わせたバッグ、
コートを脱いだときの服装ともコーディネートできているか。

外ポーケットはついているか、その大きさは、
財布は入れやすいか、肩掛けのベルトは必要か不要か、
ファスナーの開閉はスムースか、ボタンの場合、磁石式か、
ポリエステルの衣服にキズをつける可能性のある
マジックテープが使われていないか、
などなどを本物の「バッグ評論家」となってチェックする必要がある。

機能性とブランドステータスとはまつたく関係ない。
その点は妥協はしないこと。
(使いにくいけどブランド……も〝あり〟だが)
イギリス諜報機関所属の007氏のバッグは、
ときに拳銃が隠されていたり、
催涙スプレーが装填されていたりする。

バッグがおしゃれグッズであることはいうまでもないが、
人生を歩くための、
それ相当のモチベーションを入れて歩くものであることを
忘れてはいけないし、
バッグの数だけ、自分の「場」があることも軽くは考えたくはない。

こういう視点は、モノ専門誌やおしゃれ雑誌、
バッグメーカーにはない。

もっとも、いくらバッグを周到に用意しても、
外出から始まる、あれやこれやのストーリーを想定できない人には
宝の持ち腐れになることは、覚悟する必要があるだろう。

by rocky-road | 2013-03-09 22:53