栄養士にとっての知的財産とは?
栄養士組織が発行する機関誌の最近号のいくつかに
目を通す機会があった。
それらは、労力的にも経済的にも充実しているが、
質的にはかなり貧弱で、これを発行する意味が、
どれくらいあるのか、疑った。
悲しいのは、そのことを問うことなく、
半ば惰性で発行が続けられているらしい点である。
そもそも、読んでもらおう、という意欲が
最初から感じられない。
これを開いた栄養士の大半は、
ロクに目を通さないのではないか。
字詰めが長すぎる、ページ中に小見出しがない、
文章が硬直していて読み手との対話が成立し得ないなど、
基本中の基本が守られていない。
これをしっかり読もうと思ったら、
乗っていた船が遭難して、
たった1人、これを持って孤島に流れ着く、
というシチュエーションが必要だろう。
いちばんいけないのは、
学術専門誌を下敷きにしているらしく、
読者の知的好奇心やメンタリティとの接点がない点。
いくらカッコつけても、親近感を感じない雑誌では、
森に向けて矢を射るがごとく、獲物に当たる可能性は低い。
背伸びは、人間の生き方としてけっしてカッコよくない。
「箱もの」の企画と同様、入れ物を作っても、
中に入れるものがないと、その箱は「死に体」である。
雑誌の存在理由の大きな1つは、
その読者間のコミュニティづくりをすることであり、
それによって培われるアイデンティティを支えることである。
それは知的であること以前に
情緒的であり、温かいということである。
といっても、各職場の紹介ページを設定すれば
温度があがるというものではない。
特集で「ストレス」をとりあげるなら、
栄養士だからこそのストレスの視点を見つけたい。
それは医師のストレス観でもないし、
心理学者のストレス観でもない。
畑にあるストレス野菜を収穫してきただけでは、
「私たちのストレス知識」にはならない。
編集とは、別の世界にある情報を
カスタマイズ(最適化)することであり、
受益者に対して翻訳することである。
編集されていない情報は、
洗浄も選別もされていない
食材以前の農作物止まりである。
こういう砂漠のような雑誌を作って、
それで日本の栄養士のレベルの高さを
誇示しようとしているのだとすれば、大きな料簡違い。
そういうポーズこそが、栄養士の社会的地位を低くするのである。
地に足がついていないことが見え見えだからである。
それどころか、
「こんな知的財産しか持っていないの」と、
宣伝しているようなものである。
編集のような緻密な作業は、
それに慣れていない栄養士だけで作るのはムリかもしれない。
「外注」が慣例になっているかもしれないが、
そうだとしても、発注する人間がしっかりしていないと、
軸足の定まらない、無国籍雑誌ができてしまう。
コンセプトもないままに雑誌を作るなんて、
世の中、そんな甘いもんと、ちゃう。
ムダにしてはいけないのは電気や水ばかりではない。
紙という資源、人材という資源、
労力という資源……などである。
もっと、読者と対話が成立する雑誌を作らないと、
多くの栄養士の可能性さえムダにすることになる。
社会活動を活発化させる栄養士にとって、
編集力は「専門性」の一部となることは、
このブログでも何回か書いた。
そんなことを部外者から言われていてはいけない。
食事相談で、クライアントに気づきを促している栄養士には
自分の編集力の貧弱さにも気づいてほしい。
とくに栄養士組織のリーダーたちに、
それを言いたい。
編集は、紙面やディスプレーを通して行なう
双方向コミュニケーションであるから、
食事相談ができる人なら
できないはずはない。
by rocky-road | 2012-10-17 21:35