「余暇」から「予暇」へ48年。
1964年にダイビングを始めたときからの仲間である
鷲尾絖一郎君が、『評伝 増田萬吉(潜水の祖)』という本を出した。
増田萬吉という人物のことは
私を含め、レクリエーションダイバーのほとんどが知らない。
天保7年(1836年)に生まれ、
西洋式のヘルメット潜水の技術を身につけ、
アワビの養殖や真珠貝の養殖、
沈船の調査や引き揚げなど、
日本の水産業、建設業、潜水医学などの分野で
大きな足跡を残したという。
レクリエーションダイバーとは
まったく接点のない人物である。
そういう人の評伝をなぜ書いたのか、
鷲尾君からは詳しい経緯を聞いてはいないが、
要は、隠れた歴史をたどるのが好きな
ルポライターとしての探究心によるものだろう。
商業ベースで考えた場合、
主たる読者をレクリエーションダイバーとするか、
プロダイバーとするかで、売れ行きに大きな差が出る。
増田萬吉という人物をとりあげた以上、
読者は当然プロダイバー、
つまりヘルメット潜水を業とすることになる。
プロのヘルメットダイバーが全国にどれくらいいるのか
想像するにも、まったく手がかりがないが、
少数であるがゆえに購買力がある可能性はある。
そうだとしても、
レクリエーションダイバーを相手にしたほうが、
リスクは少ないことは想像できる。
本や雑誌が売れたか売れなかったかだけで
評価され続けてきた人間には、
『評伝 増田萬吉』のような本は、
とても企画できるものではないが、
出版物の制作動機は1つだけではない。
自分史などは、自分のため、家族のため、子孫のために作る、
ということが動機になっている。
いまは自費出版を引き受けるの会社は少なくない。
フォトブックも一種の出版だとすれば、
出版文化もまた、アマチュアが担う部分が大きくなりつつある。
『評伝 増田萬吉』の中に、
私が続けているレクリエーションダイビングの歴史が
突然出てきたのには驚いた。
プロの歴史とアマチュアの歴史、それを対比する意味はあるが、
個人の評伝に、その人の100年後に生まれた人間がかかわる
レクリエーションダイビングの歴史が挿入されているのには
やはり驚く。自由意思で作る書物のおもしろさは、
こういうところにある。
本書の後半に、
私が発足にかかわった東京潜泳会のこと、
そして、日本では最初に用語した「フィッシュウオッチング」や
「スノーケリング」などの話が出てくる。
鷲尾君は、このあたりの歴史を
日本の「レクリエーションダイビング文化」と位置づけている。
その記述に少しつけ加えるとすれば、
そうした文化を日本中に伝播した舘石 昭さんを
忘れてはならないだろう。
舘石さんについては、前回のブログで訃報を書いた。
舘石さんは、発行していた『マリンダイビング』によって、
私たちのアクションや言説を多くのダイバーに届けてくれた。
鷲尾氏もこの編集部に属していた時期があり、
ほかにも数人の編集者が、私たちの提案や活動を支援してくれた。
人はだれでも「文化」に参画できるが、
それを広め、伝承してくれるのは印刷文化である。
パソコンは、まだそれを任せるメディアにはなっていない。
『評伝 増田萬吉』が出たおかげで、
1964年に、小学校以来の友人、畠山八朗(故人)と立ち上げた
東京潜泳会のことが思い出された。
そこで、当時の仲間と、この本を鑑賞しつつ、
「あのころ」から「このごろ」を語り合ってはどうかと考え、
連絡のとれる何人かに声をかけた。
「お互い、生前葬みたいなもの」と冗談にいったが、
冗談は20%くらいのものである。
東京潜泳会は1980年代後半に休会となるまで、
およそ20数年間活動を続けた。
私自身は、東京潜泳会を後輩に任せ、
1978年に「スノーケリングピープル」を発足させ、
こちらに移って今日に至っている。
自分のダイビング歴を数えるときは、
東京潜泳会発足の1964年から数えている。
現時点で48年となる。
海へ行く回数は減ったが、それでもダイバー現役である。
「生涯現役」は仕事だけを指すものではない。
舘石 昭さんはがんが発症してからも、
抗がん剤を使いながら海へ行き続けたという。
余暇活動が健康に及ぼすプラス効果は、
改めてエビデンスを示す必要がないほど自明なことだが、
かといって、健康や延命のためだけにする余暇は気味が悪い。
余暇活動の最中に事故で亡くなることがあっても、
それだけで余暇活動を否定的に見るのは好ましくない。
人生が長かろうが短かろうが、
余暇は、自分が主体となれる持続的なモチベーションである。
生きるとは、自分の居場所を多様に持つことであり、
その居場所を持続するように働くことである。
そういう人生に退屈はない。
by rocky-road | 2012-09-23 01:04