心に海を持つ人へ。

9月9日に、82歳で他界された舘石 昭氏のご葬儀に
参列した。(13日11時 東京都芝/増上寺)

わがダイビング人生にもっとも影響を受けた人物である。
水中写真家として、
海関係のフォトライブラリーのオーナーとして、
海関係の出版社の創設者として活躍され、
日本文化に多大の足跡を残した。

ちなみに、舘石さんは千葉大学の工学部工業意匠学科卒で、
のちに画家としてスタートし、
海の中にモチーフを求めているうちに
水中写真に転向した。

私がダイビングを始めた1969年ころは、
これといった情報もなく、自己流で海への旅を楽しんでいた。
そこへ1971年、『マリンダイビング』という雑誌が登場してきた。

のちに、その雑誌の編集を手伝うことになる。
そのときの舘石さんのコトバが忘れられない。
「出版物として世に出す以上、
国語的におかしいところがあってはよくない。
やはりプロの目を通したものにしたい」
見事な殺し文句である。

以後、30年あまり、書籍出版、雑誌の創刊、
写真展の開催などイベントのお手伝い、
ときには人事についても意見を述べたりさせていただいた。
『海と島の旅』『マリンフォト』の創刊には
とくに大きくかかわった。

『海と島の旅』のキャッチコピーとして
私は「心に海を持つ人へ」を提案した。
ダイビングや海への旅を好む人は、
海辺に住んでいない人、つまり都会の人であることを
想定してのコピーだった。
女子栄養大学の仕事が終わってから、
2つ先の駅にあった水中造形センターに行き、
編集会議を行ない、そのあと飲んで、
帰りは舘石さんが運転する車で自宅まで送っていただいた。
そこでまた話が始まって、車中で朝まで
語り合ったことも何度かある。

警察官に安否を確かめられたり、
豆腐屋さんの笛の音で、もう朝が来たのだ、
と気づいたりすることもあった。
舘石さんから受けた影響の最たるものは、
水中写真についての作品評だろう。
毎年行われる「水中写真コンテスト」では、
作品発表会とパーティが開かれる。
入賞作品は、著名な審査員と舘石さんが講評をする。

もちろん、舘石さんの講評がダントツ勉強になった。
「ムリだとは思うけれど、この魚は、コンマ何秒か早く
シャッターを切ったら、もっとよくなったでしょう」
今日のわが写真評には、少なからずの「舘石流」が入っている。
海の中で撮影中の舘石さんを観察したことがある。
クエスチョンマークのような形をした
つる状のサンゴの中を魚が通り抜けるのを
じっと待っている姿を見て、
プロの集中度の高い仕事ぶりを知った。

いま、魚のアップ写真は珍しくなくなったが、
舘石さんの水中写真は、構図をつくって撮るものだった。
透明度数十メートルといった海中に魚の群れ、
そこにスノーケラーが潜ってくる。
そういう構図が得意だった。
こんな写真はチームで動かないと撮れない。
潜ってくるスノーケラーの泳力、
その周囲に魚群を留めさせる複数のアシスタント。
それはプロらしい仕事であり、
リーダーシップが問われる仕事である。

陸上のカメラマンは、
ジャンルによってはアシスタントを使って撮るのが普通。
が、いまは、水中カメラがよくなって、
アマチュアでもそこそこの写真が撮れるようになったので、
わざわざ手間暇かけて舘石流の写真を撮る人が途絶えた。

見方によっては、
「舘石さんが、ほとんど撮りつくした」
と、いえなくもないが、
「それをいっちゃ、創作はおしまいよ」である。
創作に終点はなく、水中のチーム写真にも終点はない。
アマチュアの私でさえ、
チームで撮る水中写真のアイディアはある。

パイオニアとしての舘石さんから見たとき、
後輩たちが小物に見えたことだろう。
「チャレンジ精神が足りない」
そんなコトバを引き出してみたかった。
「伝記を書いては?」「評伝を書いてもらっては?」と
何回か提言したこともあるが、
シャイな人だから、「ぜひ」とはいわなかった。
書き手は、何人もいたし、その準備のある人もいた。

これから書く人が出ないとは言い切れないが、
「やっぱり、出しておくべきでしたね」と、
最期のご対面のときに、
急に、そうつぶやきたくなった。
訃報を聞いたときから、
頭に浮かんで離れない感慨だった。

★写真の切手は、水中写真を使った世界初の20円切手
by rocky-road | 2012-09-14 00:15

