東京ラプソディ
軍事上の秘密に属するが、
はたちのころ、シャンソン歌手にあこがれたことがある。
銀座の銀巴里のほか、いくつかのいうシャンソン喫茶に通い、
日本語訳の歌詞に耳を傾けた。
マダムが、若い男をベッドに誘ったものの、
途中で夫が帰宅したために、あわてて窓から逃がし、
2階からズボンを放り投げてやるという歌とか、
裏ぶれた娼婦が客引きを続けるけれど、
だれも振り向いてくれない情景とか、
人生の裏舞台を唄うシャンソンに、
大人の雰囲気を感じ、人生の深みをのぞき込んだ。
あんな歌をステージで唄ってみたいと思って、
ひいきの歌手に歌詞を教えてもらったりしたのだが、
いま考えてみると、本気の歌手志望ではなく、
「ときどき歌手」くらいを考えていたようだ。
それを思い出話として人に話すと、
一度でも私の歌を聞いた人は、
憐れみを隠して無表情になるのがわかる。
ときに、「よかったね、ならなくて!!」
遅ればせながら、そういう温かい声をかけてくれる友人に
恵まれていることを感謝して、一曲唄いたい気持ちになる。
が、歌手志望は、軍事上の秘密扱いにして、
わが人生の歴史から抹消しつつある。
(シャンソンは「歌う」でなく「唄う」と表記したい)
シャンソンが好きなのは、
気のきいたメロディーによって運ばれる
言語メッセージに共感するところが多いからである。
したがって、かならずしも声のよさは第一条件にはならない。
どちらかといえば、喉ではなく口蓋と唇で唄うのである。
「語る」といってもいいかもしれない。
そのことを思い返すきっかけがあった。
数日前、真正面から喉で唄う歌手のライブに行ってきた。
里アンナという、奄美大島出身、33歳の歌手である。
この歌手の歌声を聴いたのはいまから4年前。
晩夏の新宿、都庁前を歩いていたら、
小中学生くらいの女子が、ディスコサウンドにのって
ストリートダンスを踊っているのに出会った。
「大江戸舞祭」(おおえどまいまつり)というイベントだという。
曲は、明治、大正、昭和のヒット曲メドレー。
「鉄道唱歌」「お江戸日本橋」「花」(春のうららの……)、
「丘を越えて」「東京ラプソディ」などである。
保護者らしき人たちが都庁広場でCDを売っていたので、
思わず買って帰った。以来、週に数回、
仕事中や眠りにつく前に聞く曲のメインになった。
オクターブの高い、
まさに中学生の絶叫のようにも聞こえる歌声にしびれた。
それに、どの曲も昔なじんだものばかりである。
何回も聞くうちに、そのメドレー曲の構成のうまさに
関心が向くようになった。
洋楽器のあいだに和太鼓、三味線がうまく重なる。
歌と楽器とをからませる。
さらに、ドボルザーグやベートベンのメロディが入る。
時代・和洋混交のごった煮的エネルギー。
こういうプロデュースは、
だれが、どういうきっかけで行なうのか、
それは、極上のおもしろさだと思った。
先日、気にしていたその歌手が
デビュー8周年のライブをする、という情報を
インターネットで知った。
島唄を歌うライブなので、
間違っても「東京ラプソディ」はないだろう。
迷ったが、けっきょくは行ってみることにした。
原宿にあるライブハウスでビールを飲みながら
開始を待っていたら、
前の席に着席した男性のTシャツに
「OH!E-DO DANCE」のロゴがあるのに気がついた。
持っていった、4年前に買ったCDを示して、
「このCDにご関係のある方ですか」と声をかけた。
「はい、私が企画しました」とその男性。
名刺交換をしたら、なんとその祭の実行委員長とのこと。
「大江戸舞祭」は年に1度のイベントとして定着し、
さらに地方遠征もするという。
そのイベントの発起人で実行委員長の
長谷川記一氏は、里アンナさんを
北海道のソーラン祭で見つけ、
「大江戸舞祭」のボーカルを依頼したという。
細かいことを聞きたかったが、
ライブ前のこと、込み入った話はできない。
「よくこんな楽しい企画を思いつきましたね」といったら、
「私が音楽のことをなにも知らないからできたのでしょ」と
こともなげに説明してくれだ。
翌々日には、その後に行なわれたイベント曲の
CDとDVDを送ってくださった。
思いもかけない東京ラブソディである。
ちなみに、藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」は
1936年の作とか。私と同い年である。
長谷川氏は、ソーラン節やよさこい節など、
地方のおとり歌が東京を含め、
各地を席巻するのに悔しさを感じ、
東京らしい曲を踊り歌にしようと思ったらしい。
この話はいずれまたとして、
歌手論を少し。
奄美大島出身の女性歌手は、
自作の島唄を何曲か歌った。
方言で歌うものは、島外の者にはまったく意味がわからない。
ところが、共通語で歌うものも
歌詞がよく聴きとれない。
なんとか聴こえるのは、海、空、砂、光など、
自然言語中心で、のどかではあるが類型的で鮮度がない。
昔、複数のプロカメラマンから
ビーチ写真の売り込みを受けたことがあるが、
ヤシの木、穏やかな波打ち際など、
まさに「絵はがき的」でおもしろくない。
海をよく知らない人は、ユニークなビーチ写真は撮れない、
というのが実感だった。
アンナさんは島出身というが、
自分の島をうまく説明できてはいない。
空や海、砂や光は、どこの島にもあること。
内側から見た島がアピールされていない。
トークのとき、島でライブ中にスコールが来たが、
島の人は大雨の中でライブを楽しんでいた。
花火も雨の中で開いた。
……そういう話がオリジナリティのある視点である。
アンナさんは、「MC」が苦手としきりにいう。
しゃべりが苦手を話題にしてはいけない。
プロは「緊張している」「しゃべりが苦手」などと
軽々しくいってはいけない。
(「MC」=司会者、進行係。転じて
曲と曲のあいだにはさむおしゃべり)
しゃべりが苦手をアピールする歌手が、
果たして作詞ができるのか。
日本語がダメな日本人が、
英語になると能弁になることがないことと同じ。
ここは真剣に考え直さなければいけない点だろう。
もう1つ、喉で唄うか、唇で唄うかという問題もある。
声に自信がある歌手は、喉を中心に歌うから、
コトバメッセージは不鮮明になる。
オペラがそうであるように、細かな言語表現はできない。
シャンソンは、言語メッセージを語るように唄う。
野球では、スピードボールに自信のるピッチャーは
変化球が生きてくる、といわれる。
カーブやスライダーを投げておいて、
最後に直球で討ち取る。
が、アンナさんは声に自信のあるから、
めいっぱい絶叫する。
終始一貫、スピードボールで攻めてくる。
歌詞はほとんどわからない。
曲の傾向も似ていて、曲が変わったのもわからないくらい。
ここは彼女にとって正念場だと思う。
しゃべりがダメだということは、
万物の情報化が苦手ということ、
それは作詞も苦手ということにもなる。
もし作詞はスラスラできるとしても、
それは〝作詞もどき〟である。
言語メッセージ不足を大音量の美声でごまかしてはいけない。
「島」を売りにするのなら、
だれもが歌うような定番的な島唄から脱皮する必要がある。
栄養士が栄養素の話をしているだけでは、
ドングリの背比べで、なんらユニークな存在とはなれない。
みんな同じである。
アンナさんは、まさか、島の歌手としてローカルな道を
選ぼうとしているわけではなかろう。
だとしたら、ときにシャンソンのように語り、
ときにオーロラのように大空に美声を響かせ、
言語メッセージにも音声メッセージにも強い歌手を目指してほしい。
もちろんチームで仕事をしているのだろうが、
この際、作詞は人に任せて、基本から学び直したほうがよい。
その間、各地にある古い歌を掘り起こすことも一法だろう。
すでに島に土着している島歌を歌っている。
民謡だろうが歌謡曲だろうが軍歌だろうが、
ストリートダンスバージョンで自分の歌にしてしまえばよい。
プロデュースを長谷川記一さんにでも依頼したら、
もっとスピーディにメジャー化するだろう。
「音楽がわからない」という人のほうが、
聞く人のニーズがわかっていることだろう。
アンナさんにとっても、
彼女のファンにとっても、
これは大きな問題である。
ライブステージに出かけたばかりに、
またしてもやっかいな難題を持ち帰ってしまった。
by rocky-road | 2012-06-23 22:51