モノもコトもヒトも、捨てた翌日に必要になる。

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4月2日の読売新聞「論壇 スペシャル」欄に、
「断捨離」(だんしゃり)で知られる
やました ひでこ氏(クラター・コンサルタント)と
野口悠紀雄氏(のぐち ゆきお 一橋大学名誉教授)
との対論が載った。

やました氏は、冒頭で、「『断捨離』とは、
何もかも捨てればいいと言っているわけではない。
身体に新陳代謝の出口(排せつ)と入り口が必要なように、
家についても出口と入り口を考え、
過剰にモノを詰め込んでいるなら
外に出しましょう、と提案しているのだ」といい、
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さらに、「『断捨離』とは、徹底してモノと向き合い、
自分とモノとの『関係』を問い直し、他人に頼らず
捨てるか残すか選択・決断しながら、自分を確立していく
営みといえる。自分自身のカウンセリング、コーチング、
コンサルティングなのだ」

至極ごもっともなことをいっているのだが、
ニュアンスとしては、やはり捨てることが念頭にある。
新陳代謝や家の出入り口をいうのに、
排せつや出口から例示するところがおもしろい。
(もっとも、日本語では「出入口」とはいうけれど、
 「入出口」とはいわない)
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「断捨離」とは、ヨガ道場の修行の1つのようで、
心の執着を手放すために、断行、捨業、離行という
行法を実践するという。
仏教などでいう「解脱」や「悟り」と同根の概念だろう。

そこで「待った!!」をかけたくなる。
だれかまわず、悟りを開くことをすすめるのは、
果たしてエネルギッシュな生き方のすすめになるのか、
ということである。
モノに執着しない、というのはカッコいいが、
どうかするとシラケた、草食系的生き方を
誘発または助長する可能性が高くなる。
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アメリカでは、太平洋戦争を戦った元兵士らのあいだに、
日本軍の武器や、捕虜や戦死者の遺品を集める
コレクションファンがいるようで、
それらのオークションが開かれるという。

80歳過ぎの元アメリカ兵士が、
集めてきた日章旗を遺族に返したいと話していた(NHKテレビ)。
彼はいう。「これらのものは、私が死ねば1週間以内に
息子たちが捨てるだろうから、いまのうちに処分したい」
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こんなのは「断捨離」といってもいいかもしれない。

(日章旗とは、この場合、日本の出世兵士が
最期まで身につけていた国旗。
 家族や近隣の人の寄せ書きがあり、「武運長久」などと
 墨書してある。多くは、からだに巻きつけたり、
 鉄兜=ヘルメットの下にあてがったりしていた)

さて、新聞での対論役の野口氏は、こう説く。
「人類は、情報を『捨てない』ことによって進歩してきた。
情報を蓄積してきた文明は発展し、情報を残さない文明は滅んだ。
だから、情報について『捨てろ』というべきではない。
マーフィーの法則に
『書籍は捨てた翌日に必要になる』というのがある。
我々は単に捨てれば能率があがるような単純な仕事を
しているわけではないのだ」
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同感なのだが、この場合の「情報」の意味に異議がある。
野口氏はいう。
「『捨てる』といっても、
衣服などの『モノ』と『情報』は全く違う」

これは困った。
書籍には情報があり、衣服には情報がない……、
この単純明快な「断捨離」には面食らう。
モノに情報がないだって?!?!?!

宇宙だって、太陽だって、空だって、
海だって山だって、モノだぜ。
人類は、それらのモノから情報を読み取って、
科学し、考え、同時に、過酷な自然環境に
適応してきたのではないのか。
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「いや、太陽と衣服とは違うだろう」
そうかしら?
本情報だって、パソコン情報だって、
紙や鉱物、合成物質というモノによって運ばれているではないか。
服にしたって
「その服、似合っているね」
「その上下、ミスマッチじゃない?」
「あなたらしさが浮き出るようなファッションだね」
という情報を運ぶではないか。

「思想とおしゃれとは次元が違う」だって?
では聞こう。
「食事と思想とどちらが大事か」

世界は、二者択一の論理では割り切れない。
あれもこれも欠かせないものである。
あるのは、その人、そのときどきの優先順位である。
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やました氏はこうもいう。
「女性はよく、季節の変わり目に『着る服がない』と言う。
しかし、実際にはタンスの中に服がいっぱい詰まっている。
ならばなぜ『着る服がない』と思うのだろうか。
実は『着たい服がない』のではないか。では、
なぜ『着たくない服』を取ったままにしているのか。
着たくないのに取っておかせる価値観がその人を
支配しているからではないか……」

この意図的にシンプルな論法に驚く。
そのとき「着たくはない服」は、即無用なものなのか。
危ない論法である。
そんなことをいったら、衣服は使い捨てるしかない。

やました氏と野口氏、
横綱相撲をがっぷり取っていて見ごたえがあるが、
モノについての認識は深いとはいえず、やや心配。
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オリンピックの金メダルの価値は、
売るといくらになる、ということではないし、
海辺で拾った貝殻の価値も、
他人の評価とは関係ないところにある。
物質は情報を持つばかりではなく、
その物質を手にするまでのプロセスをも情報化する。

言語情報は、モノ情報の上位にある、
とする見方は一面的である。
思想が現象であるように、心も現象である。
そうした現象の大半は、
環境というモノからの刺激によって起こる。
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生物にモチベーションを与えるのは、
ときにモノであり、ときに刺激であり、
動物においては生理現象であり、
ときに心であり、人間においては、ときに思想である。

私は「幸福」について、こう定義した。
「日々の生活、健康状態、人間関係、
将来性などに関して個人がそのときどきに感ずる
高いレベルの充足感」

いま「いらない」と思ったものが、
この先も不要である、という保証はない。
ヒトは、今後を予知することが、いまだに苦手である。
環境が変わると(朝か夕か、なども含む)、
感じることも考えることも変わる。
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登山中の人が、ときに1片のビスケット、
1枚のビニール、もう1足のくつ下によって
命を支えることがある。
人生の坂を登っている人に、
あれもこれも捨てること強くすすめることは、
人生を軽く考えろ、といっているようにも感じられる。

日本人の伝統的な思想に
「モノには神が宿る」というのがある。

断捨離は、間違えると人生のモチベーションを
捨てる生き方のように受け取られる。
どう補おうとしても、
「断行、捨業、離行」を指すコトバであることに変わりはない。

「『捨てるな』ということは、ゴミ屋敷みたいになっても
仕方がないということか」
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スリム志向が摂食障害の前兆ではないように、
モノを大事にすることと、
心の病としての「ゴミ屋敷化」とは違う。

結論としていいたいのは、
モノ〝にも〟モチベーションを与える情報があるということ、
そして、人間にとってのモチベーションは、
死ぬ瞬間まで不可欠だということ。

モノなり思想なり、動物なり人なりを捨てるときは、
情報という現象――たとえば思い出、生きたアカシなどの
一部またはすべてを捨てることになる、
……そういうことを認識しておきたい、
ということをいっておきたい。

by rocky-road | 2012-04-02 22:58  

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