定番感想「この新年、楽しかった!!!!」

1月8日(日)は食コーチング第9期修了者へのはなむけ講義。
翌9日(月/成人の日)は、
パルマローザ主催「新春ブラッシュアップセミナー
「クリエイティブな取材力、インタビュー力をつける。」

1月14日(土)は、身だしなみセミナー、
「赤羽でのショッピングツアー」
(カジュアルウエアを選ぶ)
翌15日(日)はロッコム文章・編集塾
遠距離クラスの講義日。

それぞれ、内容は異なるが、
これを社会性のある立ち位置の決め方、という観点から振り返ってみよう。
これらのセミナーで感じたことの1つは、
社会人としての軸足をどう支えるか、という問題。

取材の講義では、演習として、
「きょう、会場に来るまでに見聞したことを書きなさい」
(あと取材、思い出し取材)を出題した。
数行の文章だが、描写と感想とが混濁する文章が少なくない。
車内での乗客の様子を「取材」するとき、
描写しながら、自分の感想を述べる。

全体の文章をジャンル分けすると「感想文」。
ふと思った。学童期に読書感想文などを書かされた人が多かろうが、
この「感想文」という学習には困ったところがある。

というのは、読書感想文では、
「素直な感想でよろしい」という評価になりがちだからである。
「素直」は、基本的には美徳だが、熟考しないという側面を持つ。
そこで「よかった」「感動的だった」「偉い人だと思いました」
「……のところで涙をこらえきれませんでした」となりがち。
つまり、生徒は、素直に、言い換えれば反射的に出た表現で
感想を伝える技術を身につける。
「主人公の名前を間違えている」
「筆者は、そうは言っていないはずだよ」などと、
正確な読み解きができていないことを指摘する教員は少なかろう。
「そんな平凡な感想では読んだ意味はないじゃないか」とまで
ダメ出しをする教員はさらに少なかろう。

こういう学習法は、
文章には「感想」が入らないといけないかのような文章スタイルを生み出す。
若いときに刷り込まれた文章法は、
大人になり、社会人になっても、滅多なことでは消えることはない……。
そういうことなのではないか、と思った。

手紙などは別として、
公的な場面に、あることへの評価を伴う文章を書くときは、
原則として、まずは、より客観的、詳細、正確に事実を描写すること。
それから、感想または評価を行なう。
描写の部分と感想または評価の部分とは分ける。
塾生にはしばしば伝えているが、ひとくちに「文章」といっても、
そのアイテムは大別しても100は超える。
(エッセイ、小説、ルポルタージュ、報告書、手紙、ビジネスレターなどなど)

「評論」は、「感想」の発展型といえないこともないが、
この場合の感想は、自分の感想ではなく、
自分の意見に共感または同意できる
不特定複数の人々を想定したものであることが求められる。

つまり軸足を社会のほうに移す。
社会の側に立って論ずること、それが社会人である。
社会現象を論ずるのに個人的な感想や素直さはいらない。
求められるのは、少しユニークな視点、
社会の財産になりうる論理である。

遠距離クラスでは、
社会性のある文章を書くトレーニングに時間をかけた。
「感想型文章」から脱却するには、
もうしばらくは、反復する必要がある。

軸足を社会に置く必要は、文章に限らない。
赤羽でのウエアのショッピングツアーに参加するに当たって、
「職場に着ていけるような服があるのなら行きたい」
というような意味の問い合わせがあったと聞いたが、
職場環境を知らない者には判断ができない。

社会にはいろいろの環境がある。
自分もその社会環境の一員であり、
したがって、自分にも環境をつくる権利と義務とがある。
とすれば、社会環境にピッタリカンカンの服などありえない、
環境はつねに変貌を続けているのだから……。
社会人としての軸足がしっかりしていれば、
どんな店に入っても、自分なりの環境提案はできるだろう。
このときの選択基準は、
社会または職場、または同業者にとって適度に提案的であること。

自分の好き嫌いの中には、
自分の社会環境は「かくあるべし」という提案が含まれなければならない。
衣服に「無難」や「一生もの」を基準にするのは、
文章における個人的感想、読書感想文に当たる。
社会は言う。「そんなこと、知ったことか!!」
では、こんな場合はどうだろう。
「〝ら〟抜きコトバ」(「寝れる」「見れる」)や
「〝で〟抜きコトバ」(「あした、早いんすよ」)が不快だという。
中高年女性に多い「アメリカの? ニューヨークの?
ハンバーガーショップの?」という、
尻上がりの問いかけ調にはうんざりだという。
「いわゆる」を乱発するバカがいる……。

これを大新聞や部内報に書く場合にも、
感想文的な書き方では、意味のある文章にはならない。
快・不快、好き・嫌いを表出するだけでは、社会は1ミリも反応しない。
もし、そんなに不愉快であれば、
そういうコミュニケーションの不都合を、
いくつかの例をあげて、それに同意した人には、
それを改善する方法を何項目かあげて、
実効性のレベルをあげる。

一種のマニュアルである。
楽器の教則本も、パソコンの「取説」も、禁煙プログラムも、
社会の財産となっているからこそ意味を持つ。
マニュアルは、反射的には書けない。
じっくり考え、何度もシミュレーションをする必要がある。
というところまで読んできて、
この文章を読んだ感想が思い浮かぶかもしれない。
その感想の評価基準の1つは、
「このブログは、社会にどの程度有効なのだろうか」
ということかもしれない。
by rocky-road | 2012-01-17 01:22