あなたって、クレオパトラに似てる!!!!

前々回、このブログに
「責任と誇りのある文章を書こう」というタイトルで
一文を書いたところ、
知人から感想を伝える手紙をいただいた。
前々回の私のブログの内容とは、
ある栄養士のリーダーが、
二言目には栄養士の「専門性」を口にするが、
栄養士の専門性ってなんだろう、という趣旨のものである。

知人は、感想に加えて、
このブログと似ている文章を見つけたと、
食の専門誌に載っている記事のコピーを
同封してくれた。
「栄養士に問う」と題するその文章を読んで
あまりの内容の粗雑さに絶句した。

元大学教授という人のその文章は2ページ分。
内容は2つに分類できる。
前半は、「社会と文化が正常なら食育はいらない」と
ある講演会で話したという内容を補足するもの。
社会のほうを直さずに、食育という絆創膏を貼って
社会の乱れを繕おうとした似非(えせ)栄養学者が
乱立している……云々。
後半は、こんなふうに結んでいる。
「栄養学は食を通して社会の営みに関わる学問であり、
単なる生化学的知識の集合ではない。
食料の生産から摂取、排泄、汚物処理に関し、
人と社会との関わりを総括的に見るものである。
そう考えれば、栄養学を学んだ皆様には
現在の壊れかかった社会の立て直しに関与できる場面が
ごまんとある。自分にできることで良く、背伸びしてまで
やる必要はない。名誉を求めず自分らの社会を
少しでも良くしようと思うだけで、食育につながるのである」
この人は、社会がよほど壊れていると見ているらしいが、
この文章からは、どこがどう壊れているかがわからない。
壊れていない社会とは、いつ、どんな状態で存在したのか、
その例示もない、よくある嘆き節の論調。
さらにわからないのが、
社会の「壊れ」と、食育とがどうつながるのか、
一部の栄養学者は食育によって
社会を繕おうとした「似非(えせ)栄養学者が乱立している」
という話へと持っていく展開。

自分のイメージをコトバで説明できない。
なにか憤りのようなものが内在しているらしいが、
それをコトバで表現することができない。
自分の中では、食育、栄養学者、社会の乱れとが
つながっているらしいが、3つの関係の説明がない。
結びの文章はいよいよもう分裂的で、
栄養士には「壊れかかった社会」の立て直しに
関与できる場面があるといい、
しかし、背伸びまでしてやることはないといい、
社会を少しでもよくしようと思うだけで、
食育につながる、と。
酔っぱらいの文章みたいで、
ていねいに読もうとすると、かえってめまいが起こる。
ここで文章教室や文章心理学をやっているヒマはないから
話を先に進めたいが、それにしても伝統ある専門誌が
よくもこんなひどい文章を載せるものだと、
編集者の質の低下を嘆かずにはいられない。
私のブログの文章に似ていると思われたのは、
栄養士を指導する人へのクレームである、
というところなのだろうか。

さて、上記の文章を送っていただのと同じタイミングで、
こんなことがあった、と聞いた。
パルマローザの会員講師が「食育」に関する
セミナーを担当したところ、受講した1人から、
講師が論じた内容が、
『文藝春秋』の11月号に載っている
料理研究家の辰巳芳子さんの発言と
「ほとんど同じ」との感想を聞いたそうである。
さっそくその講師は、雑誌を買って読んでみたところ、
内容に重なる部分がほとんどなかった。
そこで講師は、感想を伝えてくれた人に質した。
「どの部分が同じなのですか」
いろいろのやりとりがあったが、
「食をたいせつにしたいという心が同じ」
というところに落ちついた。
「食をたいせつにしなくていい」という論調は皆無だから、
世の食事論は、全部似ている、ということになる。

似ていないのに、同じように感じられる、
これは少なからずの人に共通する感覚なのかもしれない。
講演会の講師を経験した人(おもに女性)は、
受講者から「先生のお話、私の考えていたことと同じなので
自分の考え方でいいのだ、と思いました」と
感想を述べられることがときどきあるという。
言われたほうは、気分が穏やかではない。
独創的な考え方やスキルを講じたのに、
それが自分の考えていたことと似ている
などといわれたら、
プライドがおおいに傷つく。
著述家にとって、人の論説を転用することは、
資格を問われるほどの大罪である。
雑誌や新聞記事にも、
人の記述を丸写ししたものがあり、
それが露見して、大きなトラブルになったことは何度もある。
大手の新聞社などは、剽窃をした者を即クビにする。
(ひょうせつ=人の文章や詩歌を
自分のものとして利用すること)
それが社会通念だから、
「似ている」とか「同じ」と言われたほうは、
緊張するし、まさか、とも思う。
そんな悩みを植えつけるほうは、
あっけらかんとしている。悪気はない。
その原因は、本人の「浅読み」、理解不足にあるが、
それでも本人にしてみれば、
接した文章や講話に共感した、
という好意的な表現のようである。

だから著述家よ、
「似ている」「そっくり」と言われてもがまんをしよう、
彼らにとっては最高の賛辞のつもりなのだから……
というのが結論だとしたら、救いがなさすぎる。
やはり、面倒でも、
「どこが、どんなふうに似ているのですか、
私にはわからないので、説明していただけますか」と
問いかけることだろう。
詰問ではなく、穏やかに、穏やかに……。
もちろん、浅読み人間には説明はできないだろう。
それでも腹を立てずに、できる範囲の説明を聞こう。
コトバに窮して、自分の不用意な直感が、
相手を傷つけたことに気がつく可能性は低いが、
それでも、説明を求めることによって、
相手の読解力、話を正確に聞く能力、
説明する能力を、
数ミリにしろ前進させるほうに賭けてみようではないか。
by rocky-road | 2011-10-29 00:31