やっぱり、郵便でしょう。
先日の「東京スティ2泊3日」の参加者から、
手紙やら写真やら、ハガキやらメールやらをいただいている。
それぞれに、体験を熱く復唱していてすがすがしい。
和紙に筆でしたためる人もいて、
当分は余韻を楽しむことができる。
自分の写真をポストカードにして送ってくれる人もふえた。
建設中のスカイツリーを通勤途中で撮って、
絵ハガキにして、シリーズ化して送ってくれる人もいる。
私が属していたスノーケリングクラブの《東京潜泳会》でも、
現在の《スノーケリングピープル》にしろ、
出かけた海から絵ハガキを書くのが半ば習慣化していたから、
わが絵ハガキ歴は40年あまり、ということになる。
もちろん、仲間にも絵ハガキ派が生まれ、行く先々から絵ハガキをくれる。
個人別に作ったファイルが何冊かあるし、
水中写真の年賀状は、1年ごとにファイルする習慣もできた。
こういう環境に長く生存していると、
ある人と一定のやりとりがあったあと、
その人から手紙や絵ハガキはもちろん、メールでさえも
あいさつや連絡がないと、妙な残存感が残る。
余韻とはまったく反対の、落ち着かない感覚である。
先々月、数年前に卒業した大学での教え子2人が、
たまたま私の話が出たのをきっかけに、
「会いたい」といって訪ねてきてくれた。
一緒に食事をして、楽しいひとときを過ごしたが、
1人は名刺を持っていなかったので、
後日、送るといっていた。
が、それから1か月以上もたったが、いまだに連絡がない。
近県から、おみやげまで持って出てきてくれたので、
いただいたくだものをモチーフに絵手紙を書いて、
住所がわかりしだい出そうと待機中である。
もう1人も、こちらから連絡したのに応じて、
お礼のハガキをくれた。
大学当時「コミュニケーション論」の受講者なのだが、
これが卒業後7年目の現実である。
一般には、こういう問題をマナー論として扱う。
時間をとってもらって、食事をごちそうになったり、
相談に乗ってもらったり、今後の生き方について
わずかとはいえアドバイスをもらったりしたのだから、
礼状の1つも出すもんだ、と。
が、この発想は、あまり実効性がない。
世間の枠にはめようとすると、
たいていの若輩は潜在意識で反発するからである。
行動科学的に見ると、
これは、その個体の脳内地図のサイズの問題であって、
これから進む人生の地図が、はじめから小さいのである。
たとえていえば、《なでしこジャパン》の佐々木則夫監督もいっていたように、
かつての《なでしこ》は、分相応に、3位、4位を目指していた。
が、アジアのチームは、みんな世界1を目指している。
「そうか、1位を狙わずに、最初から2位や4位狙いでは勝てるわけがない」
同様に、人生のスケールを考えていない人は、
あるいは考えられない人は、
1つの小さな物語(出会い)の始まりを意識できず、
世界が広がるかもしれない可能性をイメージできないのである。
それは「この人は利用できる」といった世俗的な発想を指すのではない。
それ以前の問題として、きょうの体験を整理し、
感想や解釈を記すという生活習慣があるかどうか、ということがある。
これは基本的に脳内の作業である。
つまり脳内環境がどうなっているか、という問題である。
もちろん、コトバを使う能力、文字を書く能力、
日記を書く経験や能力、人との話し合いをフィードバックしたくなる動機の強弱、
もしくはそうする習慣の有無などが問題になる。
そうした準備性のない人間に、
外的な刺激、それも社会に軸足を置いた刺激を与えても、
そう簡単には受け入れられない。
最悪なのは、マナー論である。
「常識のある大人っていうものは、そういうもんじゃない!」
これがいちばんいけない。
ではどうするか。
それは個々人の器(うつわ)というものだから、
放っておくしかない。
そうなのだが、「それをいっちゃあ、おしまいよ!」
だから、こちらの習慣を淡々と、政治家的にいうと粛々と
続けるしかない。結果を期待せずに。
ここが我慢のしどころ。
スポーツ界では「我慢のゴルフ」「我慢のピッチング」などという。
日本の「カワイイファッション」が、世界中に伝播したように、
文化は、伝わるときは伝わる、
伝わらないときは伝わらない。
ときあたかも、アメリカでは郵政省にあたる政府機関が
郵便物の減少から存続の危機に見舞われているという。
世界の郵便物の半分近くはアメリカ人によるもの、
といわれるほどの郵便王国にして、これである。世界から、郵便物はなくなるのか。
そんなことを予想するヒマがあったら、
きょういただいたハガキの返事を書こう。
より広い世界に住みたいから、
より刺激の多い人生を送りたいから……。
by rocky-road | 2011-10-02 01:10