See you again!!
沖縄の座間味島で潜ってきた。
あいかわらず、水中は世界一のロケーションを保っているが、
それでも魚はだいぶ減った。
かつては自動車くらいの岩を完全に覆っていた魚群(キンメモドキやネンブツダイ)を
見つけることはできなかった。
そういうロケーションのエリアは、ダイバーが訪れ、
魚群の中を横断したりするので、魚たちは、そんなところを避けるようになった。
その一方で、古座間味(ふるざまみ)という海水浴場のような海には
魚が寄っていて、むしろ年々ふえている。
おととし、ここで撮ったハマフエフキの写真が富士フイルムのコンテストで入賞したが、
ことし、彼は(かどうかは不明)、仲間数匹を連れてあいさつにやってきた。
水面に浮かぶ人間に近づくはずのない
コトヒキやツマグロモンガラという魚までもが、親愛の表情で寄ってきた。
第49回富士フィルムフォトコンテスト ネイチャーフォト部門 優秀賞
そう思うのは人間の勝手で、つまりここの魚たちは
完全に餌づいているのである。
人が来ると、なにかくれると思うので、寄ってくるだけのこと。
以前は、このビーチの売店で、魚肉ソーセージを売っていた。
が、食品添加物の入った人間向けの食品を野生の魚にやっていいのか、
という問題が起こり、いまは完全に販売を控えている。
ソーセージの包装材が海面に浮いていて、それを魚が食べることも心配だった。
いまは、一部の人が、パンや菓子などを持っていって与えている。
少なからずの人がそうするので、あいかわらず魚たちは寄ってくる。
中には手を噛まれて出血する人も少なくない。
魚種によっては、人の指の一部を食いちぎることもある。
餌づけがなぜ問題になるのか。あらゆる動物に共通することとして、
第1に、摂食量が増えると、繁殖が活性し、そのエリアではまかないきれないほど個
体数が増える。
その結果、自然の生態系が崩れる。
さらに、どこかで限界に達し、相当数の餌不足死が起こる。
海や川の場合は、餌づいた魚はすぐに釣られ、結局は食用にされる。
第2に、野生動物が「野性」を失う。
食べ物は人がくれるもの、という習性が刷り込まれることになる。
クマやサルなどの場合、人間の住む地域に平気で出没するようになり、
畑を荒らしたり家を荒らしたり、人を襲ったりする。
結果として、人が彼らを駆除することになる。
「動物がかわいい」という思いが裏目に出る。
ことほど左様に、餌づけは、動物、人間双方にとって「百害あって一利なし」。
それが専門家間の常識だが、私はやや異なる意見を持つ。
餌づけを禁ずることには賛成だが、その不徹底は好ましくない。
動物には、畑と、野生の植物との区別はできない。
ゴミ捨て場のゴミと、自然が与えてくれる恵みとの区別はできない。
動物の接近を完全に防げない畑やゴミ捨て場は、
なんだかんだといっても、餌づけにほかならない。
餌づけに反対なら、畑の周囲には、数メートルのネットを張らねばならない。
ゴミ箱には、ちょっとやそっとでは開かないフタをしなければならない。
ずいぶん金はかかるが、田畑を荒らされる被害額よりは少ないはず。
それができないのなら、自然の中へ中へと進出していく人間側が、
動物たちに一種の通行料を支払う必要があるだろう。
自然界に明らかに餌が不足したときには、一定量の「給餌」(きゅうじ)をする。
「餌づけ」も「給餌」も、国語的には大差はないが、
「給餌」は管理された餌づけ、「餌づけ」は情緒的な、無制限の餌やりである。
古座間味の例でいえば、餌づけは1人1パック(容器も食材製に)、
もちろん低エネルギーで、添加物のないもの、そして、海を汚さないもの。
意識の改善を待つのではなく、ルールの徹底を図る。
規格の餌以外のものを与えることは厳禁する。
もちろん、餌づけの数は1日何㌔と決めておき、場合によっては一時休止もする。
場所は変わるが、去年、モルディブのファンアイランドで、
夜になるとサギがレストランの厨房の裏手にやってきて、
従業員が廃棄物を持ち出してくるのをじっと待っているのを見た。
ビーチでは10メートルまで寄るのもむずかしいが、
ここで30センチまで寄れるのだった。
これも共生のカタチなのかと思った。
徹底しない餌づけ禁止を唱えているよりも、
ルール化し、管理された餌づけ容認のほうが、結果はよいように思う。
精神論や机上論よりも、前向きで、人々の思考力を深めることになると思う。
古座間味の魚たちの、妙にフレンドリーな表情を見ていて、
彼らの健康を強く願った。
エラのあたりに茶色いコケのようなものがついてハマフエフキをよく見ると、
釣り針が突き出しているのだった。
今回も、動物と人間との共生のむずかしさを強く感じた。
by rocky-road | 2011-09-05 00:13