戦後は終わっていない!

経済に限らず、いつも「右肩上がり」というわけにはいかない、
ということを、何回も何回も経験してきた。
つまり、物事はつねに前進や進歩、上昇をするものではない、
という意味である。
たとえば、8ミリのムービーフィルムで水中シーンを撮り、
5分間の作品にまとめる、という活動を1974年ころから始め、
全国のダイバーに呼びかけて「水中8ミリフェスティバル」を
年1回のペースで10年あまり続けてきた。

1980年代に入ると、ビデオカメラが出てきて、
撮影条件は一変した。
フィルムは1本の撮影時間が3分。
フィルムが終われば、いったん海からあがってフィルムチェンジ。
それがビデオになったのだ。
1時間も撮影が可能になったのである(電池は1時間もたなかったが)。
こうしたハードウエアの進歩によって、作品が飛躍的に伸びたか、
つまり右肩上がりに拍車がかかったか、というと、
まったくそういうことはなく、むしろ、質は低下した。
というより、振り出しに戻ってしまった。
フィルムからビデオに移行した人もいるが、
多くは、初めてビデオカメラを持って海に入るビギナーだった。
初めての体験者だから、いきなり高度の作品など作れるはずもない。

このとき、文化にしろ、文明にしろ、技術にしろ、
右肩上がりどころか、逆行することがある、ということを痛感した。
「いままでの活動は、なんだったのか」と力が抜けた。
同じことは、自分がかかわってきた食生活雑誌にもいえる。
自分が担当しているときには、専門的な医学や栄養学の
トピックスを取り上げるとともに、ウエートコントロールや摂食障害などの問題、
行動療法やカウンセリング技法の問題も取り上げた。
読者のライフスタイルを頭に置きながら企画を具体化してきた。

ところが、近年の後輩編集者たち(私のスタッフだったことがない人たちだが)は、
花粉症は食事で治る、うつ病は食事で予防できるなどと、
おかしなことを特集記事でアピールし始めた。
何度か、そのムリを指摘したが、編集部よりも上の位置にいる幹部も同意しているらしく、
ますます世俗的な切り口を選び、文章もヘナヘナ腰の、踏ん張りのない文体になってきた。
栄養学に限らず、どんな学問も、全方向に研究への好奇心を向けていくべきである。
関係者すべてが、「世のため、人のため」を念じて研究をする必要などない。
そうではあるが、学問総体としては、「世のため人のため」に資するものでなければならない。

栄養士をはじめ、少なからずの専門家の中には、専門バカ的な二流学者に倣って、
アメリカではやっている学説や理論を鵜呑みにして、それを武器にする人もいる。
アメリカと日本の文化、生活環境など、シチュエーションの違いを考慮せず、
「いま、アメリカでは……」などという。
銀座四丁目の交差点で、アメリカ進駐軍の兵隊が
交通整理を手伝っていたころの風景が目に浮かぶ。
アメリカ依存は続く。「戦後は終わっていない」
シチュエーションの違いがわからないということは、
周囲の人を見ていないということてある。
その本性は明らかで、自分しか見ていないのである。
何か、自分なりの「売り」がほしいと思う者は、
因果関係が定かでないものに助けを求める傾向がある。
それには、人がめったに見ることのない微量成分なんかがぴったり。
しばらくは反論者が現われないから。

その結果として、微量栄養素の効果が明らかになってきた時代、
50年、100年、200年前に逆戻りして、この成分にはアンチエージング効果がある、
花粉症は食事で防げる、うつ病予防には〇〇を、となっていく。
困るのは、今も昔も、食事のクスリ的効果に依拠する人間をアカデミックと見る文化が
この国にはある点である。
時代の針を逆戻りさせている人間は、けっして悪人ではなく、
むしろマジメすぎるくらいだが、
本質的に人間には興味がうすいか、苦手であるから、
もともとは人間のために生まれた栄養学や医学の中途半端な知識によって、
人々に根拠のない夢や希望を与え、結果として迷惑をかけるのである。

食品の中に世紀の大発見の微量成分があるかのようにいう人間に出会ったら、
そういう人間は、100年、200年前の人間の生き残りと見ても、
そう大きな間違いはないだろう。
大発明者には奇人、変人のように見える人もいると聞くから、
とんでもない天才との出会いを棒に振る可能性もないとはいえないが、
そんなチャンスは、このプログを読んでいる人が100年生きても、
ひょっとして1人に出会えるかどうかという程度の確率だから、
そう心配をしなくてよい。
むしろ、そういう人や雑誌や報道に出会ったら、
「そうとうに病んでるな!」「そうとうに思考力が落ちているな」と
少し離れて見ておくことである。
by rocky-road | 2011-07-20 23:51