歌える歌、歌いたくない歌。
わがロッコム文章・編集塾で、最近、宿題としたのは、
「好みの楽曲の歌詞を文章論として論評しなさい」というもの。
この課題の目的は、量産される歌謡曲(に限らないが)歌詞を
文章論として論ずること。「論評」だから、全面受け入れではなく、
評論精神を発揮しなければならない。
作詞家養成の塾でもないのに、こんな課題をして気の毒だと思うが、
言語感覚を養うこと、批判精神を研ぐことは、
プロがプロとして、専門性を深めるために避けては通れないハードルである。
歌は、耳になじみやすいが、その一部は言語メッセージである。
そこには思想があり、感性があり、世界観があり、教養がある。
ヒットした曲は、詞が優れているとは限らず、
むしろ、とても歌詞とはいえないような「つぶやき」がまかり通っている。
Jポップス系は、リズム優先のアップテンポだから、
とかく言語メッセージはあと回しになる。
勢いと視覚的魅力と、ノリで、とりあえずは商品化してしまう。
シンガーソングライターの中には、
作詞どころか、国語も未熟な者が多く、粗悪な国語を日本中の
若年者に蔓延させ、言語感覚を狂わせてしまう。
「側にいるだけで 愛しいなんて思わない
ただ必要なだけ 淋しいからじゃない
I just need you (oh yeah)」
(ウタダ ヒカル 「Automatic」)
「風鈴の音でウトウトしながら 夢見ごこちでヨダレをたらしている」
(ゆず 「夏色」)
「僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が百年続きますように」(一青窈 「ハナミズキ」)
などの歌詞には、一貫性や論理性が希薄で、もちろん詩情もなく、
何をいっているのかわからず、
まともな大人なら、とても人様の目や耳に伝えることはできない
恥ずかしいほど未熟な文章である。
とても「詩」や「詞」と呼べるシロモノではない。
作詞に関しては、ど素人、こんな稚拙な歌詞でもショウバイなるところに、
音楽市場のイージーさがある。
こんな現象を、阿久 悠氏は「ミュージュックはあるがソングはない」と嘆いた。
さらに「ヘッドホンで聴く歌は聴くにあらず、点滴である」とまでいったが、
国語を基準にいえば、カタコト日本語と巻き舌歌唱法は、凶器に近い。
メロディでだけで聞く歌謡曲の危うさは、
栄養士にも縁がある「安心・安全」という歌(?!)にも通じる。
熱中症で亡くなったり、海や川で溺れたり、ヘリコプターが電線にけっつまずいたり、
世の中、いまも昔も危険がいっぱいである。なにが「安心・安全」か。
「安心・安全」を標語として歌ってしまうと、リズムばかりが頭に残って、意味が薄れる。
ヘリコプターが電線に脚をひっかけるなんて、操縦士は鼻歌でも歌っていたのか。
しかし、提出された宿題への回答を見ると、思っていた以上に
こういう幼児的作詞に反応しなくなっていることがわかる。
そもそも論評すべき曲が見つけられない。
このネット社会の中からターゲットとなる曲が見つからないのは、
不慣れということもあるが、審美眼が麻痺しているからだろう。
ようやく楽曲を見つけても、論評基準がわからない。
用語はどうか、文体はどうか、歌われている世界はどうか、
シチュエーションはどうか、感性はどうか、何をいわんとしているのか……など
論点はいくらでもある。
評論精神を性悪(しょうわる)行為のように思う人がいるかもしれないが、
その精神は、街の景観を損ねている廃墟を見つけて、
それを建て直す作業にほかならない。
それは、次の世界を創造する第一歩である。
現状に甘んじている人には、
次の時代を切り拓くための着眼もないしエネルギーもない。
それでよいのか。
たかが、歌謡曲というなかれ。改善の端緒は生活圏の中にいくらでもある。
「栄養指導」「行動変容」「地産地消」「食の欧米化」「安心・安全」
などなど、流行歌(はやりうた)には、未熟な歌詞が多い。
念のためにいうと、いじわると批判精神とは違う。
悪口と警告とは違う。
あら探しと問題点への着眼とは違う。
改善のための提言と寛容さとは違う。
by rocky-road | 2010-08-24 12:07