「波の手」

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海や川で遊んでいて、溺れて死ぬ人が多い。
いまに始まったことではなく、50年ほど前にも、
そのことがひどく気になっていたので、
夏が来る前に、もっと予防対策を示したほうがよいと、
新聞の投書欄に投書した。
以後20年間に4、5回は投書したが、
ただの一度も記事にはならなかった。

それから察したことは、新聞というのは、
「事前」を好まないメディアで、「事後」を騒ぐメディアだということだった。
新聞に限らず、「ニュース」というものは、そういうものである。
まだ起こっていないことのほうがずっと新しいと思うのだが、
ニュース屋さんにとっては、それは未熟の果実に等しく、
商品にはならない、ということなのだろう。
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少しひねくれて、「あ、そうか、事故を起こしてくれないと
ニュースのネタがなくなるからなのだな」と考えたりもした。

さて、どんなことを投書したかだが、
記憶に残っている範囲の何回分かを要約すれば、
おおむねこんなことだった。
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1.まず、「海や川は泳ぐところではない」ということを認識する。
  「海水浴」というように、水浴をする場所だということ。
  泳ぎたい人は、プールへいけばよろしい。

2.ということは、海は浮くか、潜るかするところ、ということになる。
  海や川に入る人は、泳げる・泳げないに関係なく、
  かならず浮き輪を用意し、ヒモで結んで引っぱって泳ぐか、
  そばに浮き輪を持った人がついてゆく。
  遠泳大会のようなときは、万全の安全対策を講ずる。
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3.とくに子どもは、浮き輪の中に入れて水に浮かせる。
  大人も浮き輪を持って30センチ以内のところに待機する。
  このとき、「子どもはかならず溺れる」という前提で対処する。

4.泳げると思っている大人が海や川で泳ぐ場合、
  準備体操後、まず5メートル以内を泳ぎ、
  いったん水からあがり、次は10メートルを泳ぐ、
  というように、からだの準備性を高めていく。
  平泳ぎにしろクロールにしろ、全身運動なので、
  その年、最初に泳ぐときは、かなりからだに負担がかかる。
  この急激な全身運動によって、水泳中に脱力感がくることがある。
  もちろんこの場合も浮き輪を引っぱることは常識。
  「カッコ悪い?」
  いいや、「海は浮くところ」と認識しているあなたは、
  海をわかっている「海大人」そのものである。
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5.もし、だれかが溺れたときは、絶対に泳いでは助けない。
  棒を差し出すか、浮き輪か、カラのペットボトル数個を投げて、
  それにつかまらせる。(投書の初期の段階ではペットボトルはなかった)
  溺れている人がそれにつかまらなかったときは、
  あきらめる。人命救助ができなかった自分を責めない。
  2人死ぬところを1人に食い止めたことで満足すべきである。
  警視総監賞はもらえないが、人の命は勲章よりも重い。

少し話は変わるが、
以前、江ノ島海岸の岩場で釣りをしている人がいた。
彼は、5~6歳の子を連れていた。
ときどき大きな波が来るので、「ここにはいないほうがよい」と警告した。
が、彼は無視して釣りを続けていた。
と、大きな波。
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「ほら見たことか!!」
男の子は、波にさらわれ、海に持っていかれた。
次の波がきたとき、なぜか男の子が岩場に打ち寄せられた。
私が手を出して、その子を拾いあげた。
一瞬のタイミングだった。

男は、自分の不注意を恥じ、涙で命の恩人に感謝した、
なんということはなく、「どうも」程度のあいさつさえせず、
子どもを叱り続けるのだった。
そいつを海に放り込んでやりたかったが、
大学生の私は、黙ってそこを立ち去った。

生と死のわずかな隙間を見た、何回目かの体験だった。 
この体験を、自分が編集していた学年誌に、小説として発表した。
「波の手」というタイトルだった。 

by rocky-road | 2010-07-20 22:23  

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