テンで話にならない。

きわめて基本的なことで、ご案内書状の文章に
「句読点を打つべきかどうか」ということである。
以前、このブログで、
喪中を知らせるハガキの文章から句読点が消えた、という話を書いた。
それを読んだのだが、では披露宴の案内状はどうするか、という問題である。
答えは簡単で、日本の正書法では、ほとんどの場合、句読点は打つ。
例外は固有名詞、新聞や雑誌のタイトル、小見出し、慣用的な語句、詩歌などである。
それでも、「モーニング娘。」「句読点、記号・符合活用辞典。」のように
固有名詞や書名に句読点を打つ場合も珍しくなくなった。句読点を打つ俳句もあると聞く。
句読点の打ち方のルールのことを「句読法」という。

しかし、民間の案内状などでは、〝一部〟に句読点を使わない習慣がある。
いや、一部だったものが、いつのまにか、主流になった。
なぜなのか。
明治以降、国語教育は、文学、名文主義で、
著名な著述家の文章を鑑賞することが勉強の中心だった。
ここから「文才」という無意味なコトバが生まれた。
国語教育は、国民としての心を教える側面もあるから、
文学、名文主義は日本に限ったことではない。

一方、のちに「実用文」と呼ばれる諸案内状などは、
街の印刷屋さんに任されることになった。
名文中心の教育では当然そうなるが、
実用文や仕事文は、やや格の低いもの、として扱われるようになった。
結果として、街の印刷屋さんが、案内状の形式や表記の主導権をとるようになる。
ここから日本特有の「前例主義」「無難主義」が一人歩きするようになる。
知ったかぶりの知識を振り回し、
「句読点は教養のない人が打った」「途中で切れたり止まったりするのは縁起が悪い」
などという俗説が伝承されるようになる。

いまはその知識が結婚式場に受け継がれ、ますますもっともらしい言いようになった。
新婚さんが「文章・編集塾で、句読点は打ったほうがいいと学んだ」と提案でもしようものなら、
専門家ぶった式場担当者から「前例がありません」「こういうのは縁起物ですから」と
釘をさされて、ビビってしまうのはやむを得ない。
ここにも最近目に余る、三流レストランのシェフやウエーターと同じ「しゃしゃり出」が見られる。
個人が書く文章の表記法にまで口を出すとは、どういう了見だ。何が言論の自由か。
かの進駐軍でさえ、私文書の開封、検閲まではしたが、
書き直しまでは命令しなかったのである。
それがいまは、新婚さんの文章を、文章に素人の結婚式場が添削するのである。

ではどう対処すべきか。
「無難」が好きな日本人なら、迷わず「郷に入れば郷に従え」、
長いのものには巻かれるのがよろしい。
国語のあり方を考え、自分の教養と見識を信ずる人は、
式場側に宣言すればよい。
「これは表現の自由であり、国語の正当性を守る戦いである。
お主がどうしても拙者の文章を直すというのであれば、
この際、決闘をもって決着をばつけたい。
本日午後6時、すりこぎ棒を持って中庭に
おいでいただけまいか」と。

そう、国語の尊厳を守るには命をかけるのは当然である。
親戚縁者から四の五のいわれても、
君にはデンと構えている根性があるか。
君は、草食系で生きていくのか、それとも……。

by rocky-road | 2010-06-18 00:15