「スポーツ栄養」はどこへ向かって走るのか。
恒例の「東京箱根間往復大学駅伝競走」のテレビ中継は、
年賀状書きをしながら観戦をする視聴者のニーズにぴったりと合っている。
レースがゆっくの展開するので、手元の作業のじゃまにもならず、
ややオーバーなアナウンスが、年賀状書きを励ましてくれているようにも思えてくる。
「光の中、穏やかな表情を保ちながら、黙々と自分の仕事をしています!!」
「無念のリタイヤを心に秘め、その屈辱からはい上がる旅を続けます!!」
「そうだ、きょうの分は絶対に書いてしまおう。
去年は出し遅れが多かったし、あの屈辱からはい上がらねば!!」
などと、自分の長期戦に置き換えて、黙々とひた走るのであります。
スポーツには、もともと情緒性が伴う。ドラマチックは「演劇的」とも訳せる。
たすきを渡したあと、へたり込むのが伝統的な演技ともなっている。
20キロも走ってきたら、しばらくは「余走」(?)が必要なのに、
毛布を持った介護者が、走者に急ブレーキをかけるように抱え込む。
仕方なしにランナーは、その毛布の中に身を預けるという段取りが定着した。
これも一種の様式美といものだろう。
42.195キロのフルマラソンを走ったランナーが笑顔で手を振ったりしているのに、
その半分ほどのランニングでへたり込むのは、
「駅伝」という、日本文化の象徴的なパフォーマンスだろう。
「自分がヘマをやったら仲間に申しわけない」という責任感が、
選手をひしひしと追い込んでゆく。
この悲壮感が日本人のメンタリティにぴったりと合ってシビレさせる。
上位チームのランナーは、穏やかな表情で、
ときには笑顔で自分の区間を走り終える。
この較差も演劇性を高めてくれる。
たぶん、少なからずの選手は糖質を充分にとり、
ビタミンやミネラル剤で栄養強化する程度の対策はしているだろう。
しかし、補助食品やサプリメントの質や量が勝敗を分けるというものではない。
ときにはエネルギー不足で迷走するアクシデントもあるが、これは例外。
選手の資質、トレーニングの方法と量、コーチとの相性、
その日の体調、心理状態……などなど、計量化できない要素がからみ合って、
選手のその日のパフォーマンスを決定する。
「スポーツ栄養士」がついているチームが勝った!!!という時代が来るとしても、
それはずっと先のことだろう。
「スポーツ栄養」とは困ったコトバだ、と『エンパル』7号に書かせていただいた。
(パルマローザ発行のオピニオン紙、2010年1月10日発行)
選手の身体条件を左右するのは栄養ではなく、食事ではないか、と書いた。
くわしくはそこに譲るが、要は「スポーツ栄養」とは
「スポーツマンの食事」「運動する人の食事」のことだということ。
理屈を先行させると食事はまずくなる。それは、これまでの栄養士が冒した誤りである。
「スポーツ栄養」がまた、同じ道を歩こうとしている。
「スポーツ栄養」を仕事にしたいと思う栄養士は、
「スポーツ」にも競技指向と健康指向とがあること、
どちらにも「選手時代」と「非選手時代」があり、非選手時代は圧倒的に長いこと、
ときには「勝つ食事」を求められるとしても、
その食事、そのサポートには、常に選手の人生におけるモチベーションアップという
「精神的栄養素」が付加されていなければならないこと……
などなどを頭にしっかり叩き込んでおくとよい。
選手を支えるということは、その人の人生を支えることだから、
栄養素をいじっていても、決め手にはならない。
人生の節々で、すぐにバテて、へたり込むような人づくりをしていては、
「スポーツ栄養」に将来はない。
by rocky-road | 2010-01-04 19:46