いま、「問いかけ維新」のスタートライン
今は亡き司馬遼太郎さんの講演を聞いた。
「文章、日本語の成立」という演題のこの講演は1983年3月のものというから、
26年も前になるが、きわめて示唆に富んだ話だった。
そのポイントはこうだ。
明治維新は政治的、社会的な革命だけでなく、
文化的革命でもあった。
江戸時代の多くのものが捨てられ、新しい文化が生まれた。
日常語までもが新しく作られた。
父母の呼び方も地域によっていろいろとあったが、
標準語としては「お父さん」「お母さん」に変えられた。
文章では、「です」「ます」という文体が生まれた。
国語教育というものがなかったので、
これも明治政府が作らなければならなかった。
文語体や漢文を見限り、現代文を作り出す必要に迫られた。
小説家は、自分の文章を生み出すために、
寄席に通ったりして文体作りを模索した。
こうして、現在、われわれが見る現代文ができあがった。
つまり小説を書く文章も週刊誌の記事も、基本的に同じ文体になった。
これは、大変に意義深いことである。
司馬氏は、このように新しい文章がみんなの共有財産になるのには
100年はかかる、と強調した。
具体的には、それは昭和30年代ではないか、というのである(厳密には80年くらい)。
昭和30年といえば、私の高校時代である。
日本の現代文は、そんな最近に成立したことになる。
この講演を聞いていて、ふと思った。
食コーチングが基本スキルとしている問いかけコミュニケーションは、
明治時代どころか、つい最近まで、日本にはなかった会話技術ではないか、と。
心理カウンセリング的手法としてのカウンセリングは、
もう数十年、専門家によって活用されているが、
それは、みんなが共有する技術にまではなっていない。
治療目的のカウンセリングは、治療室に閉じこもる必然性があるからだ。
これに対して、社会生活や人生を活性化することを目的とする
問いかけコミュニケーションは、ずっとオープンであり、
だれにも共有されるべきスキルといえる。
生き方を示唆するスキルである手相や風水、各種占いは、
とかく断定を中心に会話を進めるが、
食コーチングの問いかけは、自発性を刺激する。
この違いは大きい。
そう考えると、問いかけコミュニケーションは、
案外、類型の少ない会話技術であるように思う。
日本語会話には普通にあったコミュニケーションスキルではない。
現代日本には「維新」というほどの革命は起こっていないように見えるが、
もしかしたら「自分で自分の人生を決める」という自由さは、
過去の日本人の生き方からすれば、革命的な変革なのかもしれない。
それやこれや、なんらかの必要が、
こういうコミュニケーションスキルの誕生を促しているのだろう。
司馬説に従うと、
人のモチベーションアップを促す問いかけるコミュニケーションスキルが、
多くの人に共有されるのには100年かかるのかもしれない。
そうだとすると、
われわれはいま、「問いかけ維新」のスタートラインの上にいるのかもしれない。
*注
作家/司馬遼太郎(1923~1996年)
『龍馬がゆく』『坂の上の雲』『街道を行く』など。
写真は、大阪府東大阪市にある記念館を訪ねたときのもの。
by rocky-road | 2009-07-10 23:14