ブログに書くもの、ブログでかくもの。
新しくカメラ(ニコノスという水中カメラ 写真)を買うに当たって、
レンズはどういうものがよいか、という問題。
このカメラには、ズームレンズがなく、
35ミリ、28ミリ、20ミリ、15ミリといったレンズを別個に買う必要があった。
レンズの「ミリ」の話は、ここでは数字が小さいほど視野が広く写る、
という程度の説明にとどめておこう。
要は、予算的にいくつも買えないので、どれか1つに絞るとしたら、
どれがよいか、という質問である。
「なにを撮りたいの?」と聞く。これは自発性の促しだ。
が、この問いかけは適当ではないことを、やがて知る。
なぜなら、ダイビング歴、写真歴の少ない人が、なにを撮りたいか、
なんてこと、わかるはずもない。
とりあえず、目にするものを片っ端から撮ってみる、というのが普通である。
やがてこちらも学習して、「よく行く海はどこ?」あるいは「今度行く海はどこ?」
と聞くようになる。アドバイザーとしては、ワンランクアップである。
日本列島の海へ行く人なら35ミリか28ミリ、サンゴ礁の海に行くなら20ミリか
15ミリ、などというふうに、とりあえずの方向が定まる。
時代は変わっても、歴史は繰り返す。
「ブログを始めたいんですけれど、コツはなんですか」
パソコン歴わずかに5年の私に、こんな質問をしてくる人が多い。
「で、どんな情報を発信したいんですか」とは、めったに聞かない。
(それをいっちゃったら、あんた、いったい、なにを教わってきたの、でしょう?)
現実は、そこにパソコンがあり、なにかをせねばならぬ、と
神が命じたのである。
「自己実現」を人間の高位の欲求としたアブラハム・マズローは言った、
「人は、したいと思ったことをせねばならぬ」と。
だから、パソコンが目の前にあって、なにかせねばと、神が促した以上、
「敵は幾万ありとても」、使命を持って、行かねばならぬ。
どこへ行こうが、そこんとこは、神に任せておけ。
精一杯の私の使命は、神に任せた段階で終わる。
「1回目のブログを拝見して、アドバイスをしましょう」などと
思っただけでも天罰が下る。
だって、水中カメラ入門者と一緒に、アンタは地球の果てまで、
一度でも行ったことある? でしょ? だったら、アンタの仕事はそこまで!!!」
ブログが編集だ、ということを知らない人に、なんかいっちゃダメ。
それは本当の親切っていうもんじゃない。
「編集」を、私はこう定義する。
「情報を集めたり、複合したり、添削したりして、別個の情報体を創造すること」
日記を書くこと、ファイルを作ること、好きな音楽メディアを作ること、
それが編集である。編集は、新しい価値を生み出すことでもある。
平凡な人の平凡な日常の記録にも編集作業がある。
24時間を数十行の文章にまとめる、それ自体が編集である。
それにいかほどの価値があるかは、本人が決めること。
売れる雑誌と、売れない雑誌とがあるように、
売れる日常と、売れない日常とがある。
読み手の心理、読み手のニーズをどの程度把握しているか、
それが編集力の出発点だ。そこから取材が始まる。
が、そもそもブログの目的は、すべて「情報発信」なのか。
それ以前に、自分とのコミュニケーションという段階がある。
耳のうぶ毛を気にする、目の縁のシミをいじる、独り言をいう、
肥満を気にして食べたものを吐き出す、下剤を使って下から出す、
それは生理的、心理的ストレス緩和法。
だったら、人が四の五のいうことではない。
もっとも、普通、そういうことは、1人でそっと行なうが、
パソコンが目の前にあると、内的な行為を公開してみたくなる。
従来の日記をつけている人は、私的な日記と、
公的なブログとの違いを学習し、情報発信先を見定めるだろう。
「ダイレクトブログ」の人の場合、
書けば書くほど、恥をかく危険も大きい。
が、幸い、恥のレベルは人それぞれ、
いま、このブログを恥ずかしく思わず書き進めるロッキーのように、
み~んな、面の皮が厚くなったのだ。
小心日本人の進化、と思うことにしておこうか。
by rocky-road | 2009-01-15 23:17