「論理」は空気なんですよ。

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2018年9月2日に、

≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫開催の

定期セミナーで行なった

『栄養士として「論理性」をどう強化するか。』

という講義を受講していただいた何人かから

「むずかしかった」という感想をいただいた。

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「むずかしさ」の意味は未確認だが、

講義内容がむずかしかったとすれば、

講師の説明能力の問題として自省の要がある。

講義では、

論理とは

「なぜそうなのかを解釈すること、人に説明すること」

であることを伝えたから、

それが「わからない」と言われてしまうと、

講師としてはお手あげである。

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「食べ過ぎると太るよ」というのも論理、

「雨が降りそうだから、早めに洗濯物を取り込んでおこう」

というのも論理。

つまりは理屈であり、

神羅万象の因果関係などを

自分や他者に説明すること。

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空気と同じで、

この世には論理があふれているので、

かえってとらえようのないものになっている。

みなさんが「むずかしい感」を抱くのは、

「論理」というのは哲学的テーマである

という先入観を持ったり、

男性が女性に対して「論理的でない」と

高飛車に突っ込んだりするときのアレだと

思い込んでいるためではなかろうか。

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先日、『極上の孤独』という本の何回目かの新聞広告を見たが、

それには「37万部突破!」とあった(826日)。

この著者は、

「友達や知人は少ない方がいい」という論理を持っており、

「孤独を噛みしめながら自分のホンネに向き合い、

あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる」

という論理を持っている。

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こういう、私的な思い込み論理でも

37万人もの人が関心を持つ、というところがおもしろい。

そう、むずかしいのは「論理というコトバの意味」ではなく、

論理の内容を吟味したり評価したりすることである。

「孤独を噛みしめながら自分のホンネと向き合い、

あれこれ考えるからこそ、人間は成長できる」

と著者はいう。

実際にそのようにして成長してきたのか。

そうではなく、義務教育を受け、さらに高校、大学で学んだのち、

日本を代表する放送局のアナウンサーになり、

その能力と知名度によって、

講演やら執筆やらで、多くのファンを得てきて、

いまもそれは続いている。

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このようにして得た現在の地位を、

孤独を噛みしめて成長した結果であると言うのにはムリがある。

「偽善」ではなく「偽独」だろう。

100にも届かんとする著書があるが(あるいは超えているか)、

それを執筆する能力は、

友達や知人を意識的に少なくして得たものでもない。

仕事を通して知り合った人々、

少なからずの書物などを読んで、

多種多様な刺激を受けているはずで、

それなりの勉強もしてきたことだろう。

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もっとも、発想の幼さ、論理の未熟さは、

確かに孤独ぎみの上に、

よい読書の仕方を知らず、

友人からも有効なアドバイスを受けなかったか、

または自分から受けつけなかった、

という可能性もゼロではなさそうだ。

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広告には、内容の一部として、

「集団の中でほんとうの自分でいることはむずかしい」

などというフレーズを掲げているが、

当たり前だろう。

人間の社会というものは、それで数十万年もやってきている。

そんな当たり前のことを小学校を卒業した人が言うかね?

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さらに言う。

「素敵な人はみな孤独」

ここでは、飲みかけのお茶を吹き出さないこと。

本人の顔写真が出ているが、

それを見ていると5分間は笑える。

どこが「素敵」なの?

意地が悪く、独りよがりの人間にしか見えないけれど。

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「年をとると品性が顔に出る」では、「一同爆笑」でしょう。

たれ目のこの顔に「品性」を感じる人がいたら、

2人に並んでもらって2ショットの写真を撮らせてもらう。

「人間の顔は生き方の履歴書」--おっしゃるとおり。

1カットで2点の履歴書を得ることができる。

動物行動学研究のよい標本になる。

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世の中には、

これくらいハチャメチャな論理を展開する高齢者がいることを

健康支援者としては銘記しておく必要がある。

ある作家は「健康という病」だと説き、

「孤独のすすめ」だという。

一方、「極上の……」ほうの、たれ目孤独は、

「一人好きは自分のペースを崩さないから健康になる」
とのたまう。


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ここにはトリックがあることを見落としてはいけない。

37万部ものベストセラー作家が孤独だなんて、

それは論理の破綻でしょう。

それだけの人たちから数千万円の印税をいただいて、

「他人に合わせるくらいなら孤独を選ぶ」だと。

稼いだ金を施設に寄付でもしたら、

ますます孤独が保てなくなる。

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もし、お宅および隣家の郵便受けに

10万円入りの封筒が入れられていたら、

ひょっとして、孤独で、たれ目で、素敵な人が、

夜陰に紛れて、印税収入を捨てて歩いているのかもしれない。

うっかり出会っても、声をかけたりするのは野暮というもの。

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かくのごとく、

論理は、正しいか正しくないかではなく、

まずは、いかに相手を説得するかである。

騙されないためには、

相手の論理の粗さや欠落を見抜くこと。

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振り込み詐欺は論理の商売。

政治家も論理の商売。

新聞も雑誌も、テレビもラジオも、

つまるところは論理を売り物にしている。

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健康支援者は「論理はむずかしい」と

言っている場合ではない。

健康は食卓の上に置いてあるものではなく、

不健康や孤独を売りにする作家の周辺にもある。

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完璧な健康などというものはないように、

完璧な論理などというものもない。

だから人生はおもしろい。

「考えしろ」(余地)は、生きている限り、

なくならない、そんな論理、

受け入れてもらえるかしら?

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# by rocky-road | 2018-09-12 23:37  

栄養学を終わらせない論理。

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫主催の
定期セミナーのために、

広島県三原市にある会場で終日、講義をした。(9月2日)

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講義は2つ、

1つめは

『栄養士にとっての「コーディネート力」と「編集力」。』

前回のテキストの後半部分。

2つめは『栄養士として「論理性」をどう強化するか。』

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いずれも、従来の考え方からすれば、

「栄養士向け」のテーマではないと思われるだろう。

実際、こういうテーマのセミナーは

これまでなかったはずである(国内、海外とも?)。

しかし、このテーマは、

今後はニーズが出てくると思う。

「栄養学」は、どこへ向かうのか、

という大きな問題にかかわっている。

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ヒトには、どんな栄養素が、どれくらい必要かは

今日までの研究によって、おおむね把握することができた。

必須栄養素の研究は、

ほぼ頂上にまで来た、といえるのではないか。

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ときどき、残り火のように、

微量成分の効用を見つけ出す研究者がいるが、

ビタミンやミネラルの発見に比べれば、

寿命を左右するほどの重要性はなさそうで、

今後、世紀の大発見はないだろう。

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食品に含まれる微量成分や、

一般性のない、特定の食品を見つけ出して、

(または外国の文献から見つけて出してきて)

それが長寿や認知症予防に有効とする学者

(おもに医師)が現われるが、

残り火のような弱い火力だから、

放っておけば、やがては消える。

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医学知識や医学的論理はあっても、

栄養学の知識が不足している医師の場合、

食や栄養に関する論理的基盤がないので、

ヒトの食行動そのものが見えず、

いまだに微量成分によって

加齢を遅らせたり、

認知症を抑制したりすることができると、

本気で思ってしまう。

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彼らは、悪い人ではなく、

けっして人をだまそうなどとは思っていない。

しかし、昔から言われるように、

「病気を診て、人を見ない」職業だから、

食品やそれに含まれる微量成分の薬事的効果を

真剣に考えてしまう。

真剣だからなお困る。

職業的権威をバックにして、

マスメディアを通じて、自信満々に

フードファディズムを振りまいている。

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こういう現象を見ているうち、

ある図式が見えてきた。

これは、軽薄なドクターが、浮かれて踊り出したのではなく、

栄養士によるヘルスプロモーションが低調なゾーンに

やむなくドクターの一部が流れ込んできた、

というところである。

一種の浸透圧が働いて、

うすい部分に濃い要素がにじんできた可能性がある。

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ヒトの健康を保つ栄養素の研究が頂上に達したからと言って、

「栄養学は終わった」というわけではない。

確かに、「終わった学問」はゴマンとある。

哲学は諸科学に、心理学は脳科学に、

言語心理学は認知言語学に、

という具合に、

後発の研究にお株を奪われることはある。

それが進歩というものである。

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栄養学が停滞しているように見えるのは、

研究者、関係者のパワー不足、アイディア不足、

論理性不足、言語能力不足などなどによるものである。

栄養士、健康支援者に、

論理性があれば、この状況をいくぶんは改善できる。

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いま、多くの人は、

「栄養士から食品に含まれる栄養素について
 教えてもらいたい」

と思っているわけではない。

そういう状況は、〝多くの人〟と接すればわかるし、

「では、なにを求めているか」は、

論理的に推論すれば見えてくる。

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サン・テクジュペリのコトバとされるように、

「心で見なくちゃ、ものはよく見えない。

かんじんなことは目では見えないんだよ」である。

この場合の「心」とは、直観もあるが、

コトバであり、論理である。

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論理とは「理屈」であり、「説明の仕方」であり、

だからつまり「考え方」であり、

モノを見るときのフィルターである。

人との約束時刻に遅れた人が、

「人身事故で電車がストップしたから」と説明する場合は、

責任を鉄道会社に置く論理であり、

「私が時間ギリギリに出たのが悪かった」は、

自分に責任があるとする論理である。

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広島のセミナーでは、

「論理」や「理論」とは何か、

どうすれば論理性を強化できるかについて、

いろいろの事例を使って説明した。

その目的は、

1にも2にも「栄養学を終わらせない」ためであり、

栄養士の個々人が、

魅力ある栄養士であり続けるためである。

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「論理」の話はここまでにして、

このブログに使ったアウトドアの写真の多くは、

尾道市瀬戸田町にある
「耕三寺博物館」(こうさんじ)に属する

寺と博物館と「未来心の丘」(みらいしん)で撮ったもの。

「未来心の丘」は、

イタリア在住の彫刻家・杭谷一東という人が設計し、

制作したものだという。5,000平方メートルの敷地に

3,000トンの大理石を敷き詰めたもの。

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この不思議な空間に魅せられて、

再度、リクエストして、連れて行っていただいた。

傘は、コミュニケーション研究会 ひろしまの
リーダー、
長谷 泉さんが用意してくださった。

雨のためというよりも、撮影の小道具として。

この演出力はさすが。

こういうパフォーマンスも、

もちろん論理的演出である。

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# by rocky-road | 2018-09-04 20:24  

わが8月15日。

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写真は、学童疎開先の宮城県の鳴子温泉で撮られたもの。

昭和19年か20年の撮影と思われる。

撮られた記憶もないから撮影者(当時はプロの仕事)も不明。

昭和193月の東京大空襲後、

いよいよ東京も危ないというので、

小学3年生になるのを待たずに、

まずは宮城県松島に疎開し、

そこも軍隊が駐屯していて狙われるというので、

山間の温泉地にある旅館に学校単位で転居した。

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「疎開」(そかい)とは、

「空襲・火災などの被害を少なくするため、

集中している人口や建造物を分散すること」(広辞苑)

「縁故疎開」と「集団(または学童)疎開」とがあって、

親戚などに預けられるのが「縁故疎開」。

私は最初は新潟の親戚に兄と2人で預けられたが、

先方が嫌がったか、こちらが居づらかったのか

いったん東京に戻り、

すぐに学童疎開に替えた。

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疎開経験のある学童の多くが体験し、

それを文集などに収める、

ということがはやった時期もあったが、

わが小学校ではそういうことをやらなかった。

疎開体験で語られるのは、

食事が1日2食の日もあったという飢餓体験や、

夏はノミ、冬はシラミに苦しめられたこと、

地元の子どもたちには疎外されたことなどだった。

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「東京っ子」は、疎開先でしばしばいじめられた。

私の場合は、地元の子たちにウルシの木の枝を

顔や全身に押しつけられ、

翌日には顔や手がアレルギーで真っ赤になり、

目があけられないくらいになった。

しかし、こういういじめに耐えられなくなったことはなく、

むしろ、その仕返しとして

一派の1人の顔に馬糞を押しつけたことが

縁故疎開をやめる一因になった可能性がある。

叔母には「こんな子は家には置けない」と、

すごい剣幕で叱責されたことを覚えている。

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あるいは、

食事は、先方の家族とはお膳が別で、

寄宿している兄と私とは向き合って2人で食べた。

ナイーブな兄は、

そういう冷たい生活が辛くて、

それを親に訴えた可能性がある。

疎開の変更の理由を

なぜ親には確かめておかなかったのか、

いま思えば不覚である。

終戦は、鳴子温泉で迎えた。

815日の玉音放送を感度の悪いラジオで聞いたが、

内容は理解できなかった。

しかし、大人たちの反応などから、

戦争が終わったことを知った。

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どういう順番だったか覚えていないが、

その日の午後、上級生たちと山に入り、

竹を切って竹やりを作った。

その理由は、

「アメリカ人は地球上から日本人を消し去る」

と言っているから、

それを待つことなく、戦って死のう、ということだった。

そこへ先生がやってきて、

そんなことは絶対にないから、

竹やりを捨てなさい、と武装解除を言い渡された。

気分が高揚していたことは覚えているが、

その場面や心境などは、まったく覚えていない。

小学3年生に決死の覚悟など、あったとは思えず、

おそらく、上級生に従っただけだったのだろう。

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進駐軍のアメリカ兵を最初に見たのは、

鳴子温泉の街であった。

ジープに乗って通り過ぎた。

フレンドリーな表情で私たちを見た。

竹槍の相手になるような「鬼畜米英」ではなかったことに

強い安堵感を持った。

8月15日に終戦になったが、

東京へ戻る輸送列車のやりくりがつかず、

2か月後の10月に、

焼け野原の多い東京に戻った。

そんな経験から27年後、

30歳を過ぎてから、

学童疎開先の松島ホテルと、

鳴子の高友旅館を訪ねた。

それぞれのオーナーに会い、

話を聞き、資料などをもらった。

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また、役場にも行き、「町史」をたどって

戦時中の記録なども調べた。

「指ケ谷小学校生徒を学童疎開受け入れ」

という程度の記録しかなかった。

最初に掲げた写真は、

以下の経過から見つかった。

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旅館の女将に会って、戦時中の話を聞いたが、

いろいろの地域の学童を受け入れたり、

傷痍軍人(前線で負傷したり病気になったりした兵隊)を

受け入れたりしたので、

小学校の名称など、まったく覚えていないとのこと。

そのとき、女将は思いついて、

棚から越中富山の薬箱を下ろしてきて

中にぎっしり詰まっているプリント写真を

1枚1枚畳の上に置いてくれた。

10枚目にも行かないうちに、

1枚の写真に目が留まった。

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最前列に座っている自分の姿がすぐにわかった。

撮られたことも覚えていないし、

生徒に写真をくれるなどという習慣も

なかった時代だから、

写真を見たことはない。

なのに、100枚以上はある写真の中から

ほんの10分もかからないうちに、

自分の写っている写真を見つけ出すとは、

人間の記憶力の不思議さを感じた。

「この写真、コピーを取りたいので

貸していただけませんか」と頼んだら、

「いいですよ、差しあげますから、どうぞ」と女将。

100人以上いた疎開組のうち、

このプリント写真を手にしたのはいないか、

いても、ほんのわずかと思う。

こういう経過があって、

学童疎開中の写真が手に入った。

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この写真には、

もう1人、気になる人が写っていた。

うしろの列ににいる寮母さんたちの中に

忘れられない顔があった。

「この人はどういう人ですか」と女将に聞いた。

「その子はNちゃん、

いま、町のボウリング場で働いていますよ」

彼女は、当時18歳くらい、

空腹の私に、焼きおにぎりを手渡してくれて、

「人に見つからないように食べなさい」と

支えてくれたり、やさしく声をかけたりしてくれた。

おにぎりは、深夜、ふとんの中で食べた。

この人には会わないわけにはいかない。

女将は電話をかけてくれて

アポをとってくれた。

その後の経緯は、

交通公社発行の『旅』という雑誌の

紀行文学賞の応募作品に書いた。

候補作として掲載されたので、

いまも活字として残してある。

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わが戦争体験は、この程度のものである。

8月15日の終戦記念日(異説に「敗戦記念日」)には

メディアがそれにちなんで特集を組む。

近年は、100歳を越えて「語り継ぐ」人も

珍しくなくなった。

凄惨な負け戦から生還しただけでも奇跡なのに、

その体験を、百寿者となっていま語ることができる、

そういう日が来たことに驚く。

もっとも、戦禍や戦争の悲惨さだけを

語り継ぐことにどれほどの意味があるのか。

「だから戦争はいけない」「平和がいちばん」

で終わるコメントの反復では、

その意味は半減する。

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大事なのは、

「では、その戦争を防ぐには、どうすればよいのか」である。

そこまで言ってもらわないと、

この語り継ぎは「祈り」で終わってしまう。

もし祈りで戦争が防げるなら、

人類は、とっくの昔に「平和教」を生み出していたはず。

信仰で戦争が防げるのなら、

どこの国でも、ムダな軍事予算など組む必要はない。

いま考えられる戦争の防ぎ方について、

もっと議論をしておく必要があるが、

メディアは「いい子」でいたいから、

「だから平和がいちばん」でまとめる。

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仕方がないから、

いくつかの選択肢を想定するしかない。

①世界一の国力、軍事力を持って、

 他国の干渉を受けないようにする。

②自分ではそうしないで、

 そういう国にぴったり寄りそって、

 太鼓持ち同様に「あなたさまのおっしゃるとおりでげす」

 と追従に徹する(え? いまやっている?)

③どんな国が、どんな要求をしたり、

 キツイことを言ったりしてきても、

 「おっしゃるとおり」と同調する。

④議論では絶対に負けない言語能力を高め、

 すべて交渉によって有利な条件を引き出す。

⑤世界に向けて「平和教」を「国教」と定めたことを伝え、

 永世中立国を宣言する。

 (え? いまがそれでしょ?)

 ぶりっこは嫌われるから、商売に支障が出ることもあるが、

 平和教徒として赤貧に耐える。

⑥どこかの国が攻めてきたり、

 どこかの国を攻める気配が出てきたら

 (たとえば徴兵制が制度化されたりしたら)

 難民となって強い国になだれ込むか、

 信仰に殉じて潔く自決する。(平和のためなら死んでもいい)

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などなど、語り継ぐときの「オチ」として、

「だから平和が大事」を実現するための対策案をつけることにする。

「オチ」のない話は却下。

いまは現実味がないものもあるが、

73年間も考えずにきたのだから、

数年も考えれば、1001000のアイディアは出るはず。

ここでも頭を使えば、

思考力も認知能力も強化され、

少しは論理性のある国民だと、

評価される日がくるかもしれない。


# by rocky-road | 2018-08-16 21:55  

メリケン粉か粉ミルクか。

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女性誌からの依頼で、

近藤正二先生(18931977年、当時・東北大学名誉教授)の

以前撮ったポートレートを貸し出すことになった。

20138月に、このブログに書いた記事をたどって

私にたどりついたらしい。

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ブログにも写真を使っていたので、

元データ(プリント写真からデジタル化)は手元にある。

振り返れば、

昭和46年(1971)か47年かに、

先生をインタビューするために

仙台にある東北大学医学部の研究室を訪ね、

2日間にわたってお話を伺った。

それを基にして『長寿村ニッポン紀行』という本にまとめた。

いま、この本を開いてみて、

自分がまとめた本でありながら

貴重なエピソードにあふれていることに驚く。

敗戦の翌年の昭和21年の秋に

東北大学医学部に

近藤先生を訪ねてアメリカ人将校が現われる。

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日本の学童の栄養不足を緩和するには

どうすればよいか、相談に来たという。

文部省に行ったところ、

「ここには資料がないが、仙台の近藤教授を訪ねれば

しかるべき資料が得られるはず」と言われた、と。

先生は、昭和の初期に、

学童の体格は遺伝ではなく、

家庭の経済状態と関係があることを推測し、

一部のクラスには、各自の弁当のおかずとは別に

魚または納豆など、良質たんぱく質源を与えてみた。

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当時は、仙台では学校給食はなく、弁当持参だった。

それらの弁当には肉は論外として、

魚や卵などのおかずを入れることはなかった。

生きるのが精いっぱいの低栄養時代に、

特定のクラスに魚や納豆を与える(提供業者がいた)

という実験、いまだったら差別や人権問題に

なること必至の研究である。

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このような調査によって、

動物性のたんぱく質は身長の伸びに深く関与すること、

植物性たんぱく質は、さほど関与しない、

などのデータを得ていた。

また、身長が伸びるとは、足が伸びることを意味し、

座高にはあまり個人差は現われない、

などという考察もされていた。

そんな研究が文部省にも伝わっていたため、

戦後、進駐軍が日本の子どもたちの栄養改善に

どう対処すべきかを考えるのに役立つのである。

東北大学まで訪ねてきた軍人、ハウ大佐は

もともとは医師であったので

近藤先生の研究を認め、

学校給食に小麦粉を提供するか

スキムミルクにするかで話し合ったという。

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ハウ大佐は言う。

「実は、今まではメリケン粉を与えることを

おもに考えていたんだけれども、あなたの説明を聞いてみると、

どうやら動物性タンパク質(ママ)を与えたほうが

発育の低下を救うには効果がありそうだ。

メリケン粉はやめにしましょう。来年の春から、

日本全国の都市の小学校に、

粉ミルクの給食をすることになるだろう」

近藤先生の述懐……。

「彼はこう言ってから、同行した役人に

仙台に来てよかったと何回も話していました」

こうして始まったスキムミルク給食を

私は小学校5年から受けることになった。

日本の子どもの健康向上に大いに貢献した近藤先生と、

その給食の恩恵を被った小学生とが、

1971年に、仙台で出会うのである。

当時の近藤先生は78歳、私は35歳。

倍以上の年齢差である。

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この本の序章で、先生はこんなことをおっしゃっている。

「私は100歳まで生きたいと言う人に、

『おやめなさい』と言うつもりはありませんが、

まあ、そこまでむりをしなくてもいいのではないか

と思います。そのかわり、

少なくとも70歳を越えるくらいまでは、

健康に過ごしていただきたい。

百何十歳まで生きる努力をするよりも、

70歳以前に若死にする人をへらすほうが

意義のあることだと思います」

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わずか50年で、

日本人の寿命はずいぶん延び、

したがって健康観もずいぶん変わった。

昭和も40年くらいまでは、

若死にする人が多かった。

だから、近藤先生のいう「長寿70歳」を越えるには

確かに「努力」が必要だった。

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近藤先生ご自身は1977年に他界された。

84歳だった。

ご旅行のときには、

にんじんなどを擦り下ろすために

おろし器をリュックにぶら下げていた。

食事には気をつかっておられたようだが、

いまにして思えば、

先生の健康を支えた一番は

研究へのモチベーションであろう。

先生を迎えたり見送ったりするために

上野駅~駒込間を何度かご一緒したが、

歩く速さ、階段の昇り降りの速さには驚いた。

先生を追いかけるようにして歩いたことを覚えている。
(香川 綾先生と交流があり、
 女子栄養大学にはご縁があった)

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女性誌からのお声かけのおかげで、

『長寿村ニッポン紀行』を再読することになり、

近藤先生を偲びつつ、

「健康の6大要素」を改めて確認することにもなった。

(健康の6大要素--①栄養、②運動、③休養、

④ストレスコントロール、⑤よい人間関係、⑥生きがい)

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# by rocky-road | 2018-08-07 22:38  

「編集力」を人生に生かす。

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2018年7月22日、

第39回めの遠距離クラスの講義は

『「編集力」を日々の生活にどう生かすか』であった。

(横浜市技能文化会館 11時~18時)

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このクラスでは、

各地から人が集まるので、

最初に全員から近況報告をしてもらうことにしている。

各地の気候やローカルな話題などが聞けるので

貴重な情報源となる。

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今回は、広島のお2人から、

大雨による大水害の報告に耳を傾けた。

被害情報というよりも、

保健師や栄養士などに対して

行政から、どういう要請があったか、

などを聞くことができた。

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また、地域の被害だけでなく

知人の被災などの困難もあったものの、

横浜でのセミナーや遠距離クラスへの出席は

予定どおり行なうことにした、

それが日常性の持続であり、

心の平静を保つことにもなる、

という報告もあった。

災害への対処の方法として、

傾聴すべき報告である。

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このあとの講義では、

「編集」について講じたが、

スピーチも1つの情報体であり、

ここにも「編集力」が役立つことを指摘した。

パソコンの普及は、

万人に編集力強化を求めることを意味するが、

編集は、プロの仕事と思われているのが現状。

この点では、

遠距離クラスでの講義や発言は、

編集とは何かを学び、

実践する数少ない機会となっているはずである。

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編集がらみで、

話題を以下のように広げよう。

去る7月18日、午前0時10分、

トランプ大統領とプーチン大統領の対談を

報じるラジオニュースの中で

担当アナウンサーが「世界の注目が注がれている」と

発言した。

「目が注がれている」ではなく

「注目が注がれている」と言ったのである。

私にしてみれば、「やったぁ!!」「やっちまったぁ!!」

という思う瞬間である。

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NHKは、ここ10年あまり、

「注目」というコトバを

「集める」というコトバとセットで使い続けている。

「注目される」ですむところを

あえて「注目」というコトバを使うときは

ほぼ90%は「注目を集める」と表現する。

言うまでもなく、「二重表現」である。

「重言」(じゅうげん)とも「重複表現」ともいう。

「二重表現」とは

「今現在」や「挙式をあげる」「必ず必要」「永遠に不滅」

「いまだに未解決」「外国人の方々」など、

同じ意味のコトバを重ねるもの。

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「注目」は読んで字の如しで、

「目を注ぐ」「目をそこに集める」こと。

「目を注ぐ」ことを「集める」とは、

「注目する人を多数集める」という意味ではなく、

「注目」の重複に加えて、誇張表現でもある。

NHKには2度ほど指摘したが、

まったく聞く耳を持たない。

ときには「大きな注目を集める」のように、

文法を無視した、意味のわからない放送をする。

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どうやら、なにかの意図があって、

この不適切かつ誇大、かつ低教養な表現を

日本中に広めようとしているらしく、

1日に数十回、

アナウンサーや解説員などが口にする。

その効果があってか、

新聞や雑誌にも、

この表現が普通に見られるようになった。

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これについて補足しておくと、

「注目」は、日本語では名詞だが、

漢語的には動詞である。

だから「注目」といっただけで

「目を注ぐ」「視線を1点に集める」という

動作を表わす。

わざわざ集めなくても、すでに「目が集まって」いる。

こういう動詞的名詞には、

「する」をつければ完結する。

「勉強する」「研究する」「奉仕する」「キャッチする」

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「注目を集める」の場合、

「関心を集める」「関心を寄せる」「注目を浴びる」

などがすでにあるから、

「注目を集める」もセーフではないか、

という弁解の余地はあるが、

分別のある人は使わないほうがよい。

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さらにまた、

「大きな注目を集める」が不自然に感じるのはなぜか。

「大きな」という連体詞は名詞を修飾することになっている。

「大きな目」「大きな雲」「大きな事件」などと。

「注目」は名詞だから、

連体詞の「大きな」を冠しても文法的には誤りではない。

しかし、動詞的ニュアンスを残している「注目」とは

相性がよくない。

「あの注目」「あらゆる注目」「いわゆる注目」という

表現法がしっくりしないように、

「大きな注目を集める」も、日本語として定着しにくい。

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動詞のニュアンスが残る

「接客」「調達」「施錠」などの名詞には、

「大きな」や「あの」「いわゆる」(連体詞)が

ぴったりとくっつかないものが少なくない。

「大きな接客」「あの調達」「いわゆる施錠」などと

表現することはまずない。

したがって、

「大きな注目」と言われると、

目が大きいのか、集まった目のあるスペースが大きいのか、

なんだか気味が悪くなる。

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ここで「編集」の話に戻るが、

ニュースは、言うまでもなく「編集物」。

すでにある情報素材を集めて、

順序よくまとめ、発信する、そこまでが仕事。

編集は、創作ではないから、

あまりに私的な思想や用語はしにくいが、

それでも流行語には

編集作業の結果、流布されるものが多い。

「忖度」や「モリカケ」などが一例。

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しかし、

受信料を取る公共放送としては、

国語を無神経にたるませてほしくはない。

そんな権限はないし、

慎重に国語を使う使命があるはず。

たとえば、

出演者に対して「きょうはありがとうございました」

と、あいさつするのは、僭越。

謝意は、あしたも残るのだから、

「ありがとうございました」と、

過去形にしてはいけない。

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「先日は、ありがとうございます」と、

過去の好意に対するお礼も、

「ました」にしないのが、

日本語の美しい表現。

番組がそろそろ終わることを

出演者に伝えるための「ありがとうございました」は、

放送局内部の事情であって、

それを日本語として定着させようとされては困る。

「きょうは、ご出演、ありがとうございます」でも、

なんら不都合はないはずである。

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同様に、動物の「熊」を

目の下にできる「くま」と同じアクセントにするのも

現状に即していない。

NHKは、アクセント辞典に則っているというが、

日本人の、現在の「熊」のアクセントに対応しているのか。

話が戻るが、

去る7月18日、午前0時10分の

トランプ大統領とプーチン大統領対談を

伝えるニュース。

「注目が注がれる」は、

正真正銘の二重表現だが、

驚くのが、このときのアナウンサーが、

U氏であったこと。

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すでにNHKを定年退職しているが、

いまもNHKニュースを、

手堅く、さわやかに読んでいる。

現役時代は「ことばおじさん」の別名がある、

コトバに通じたアナウンサー。

関連の著書もいくつかある。

そういう名アナウンサーが、

「注目が注がれています」とやってしまったのは

まさにニュースである。

そのときの雰囲気から判断して、

原稿をそのまま読んだのではなく、

アドリブ的な語尾ではなかったかと思う。

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その部分は、いわば未編集の、個人的ミス。

だから原稿を正確に読まなくてはいけないが、

もともと「注目を集める」は

放送記者の原稿だろうから、

ミスを生み出すお膳立てをしたのは記者のほう。

たぶんUアナウンサーは、

その表現に違和感を感じていて、

なんとか言い換えようと反射的に思い、

結果として、

「注目が注がれる」と、

恥の上塗りをしたのかもしれない。

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成熟社会とは、

人間を穏やかにする側面があるようで、

日本人の言語表現にもパンチがなくなった。

「……ていうか」(一発で決めろよ)

「正直、ヤバいと思った」(いつもは正直じゃないのか?)

「感動っていうのじゃないけれど、

けっこう泣きました」(それ、感動だろうが!!)

などという、ボヤけたコトバを使っていると

ボヤけた人生を送ることになりますぞ。


# by rocky-road | 2018-07-25 00:10  

ここにも「創る旅」が……。

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みなさんからのプレゼントによって

楽しませていただいた、

ハウステンボス、深川製磁アウトレット

(チャイナ・オン・ザ・パーク)の旅の

ご報告が遅れてしまったが、

以下に記させていただこう。

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ハウステンボスは5回目になるが、

「もうたくさん」という気分にならないのは、

ディズニーシーと同じである。

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自然保護に関係する人の言として、

「日本人が自然観察会に支出する金額は

13,000円が限度。

しかし、ボートとかソリとか車とかの乗り物が加わると

10,000円くらいまでは出す」

というのを聞いたことがある。

10年以上も前の話だから、

相場は少しはあがっているかもしれない。

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自然の中を自分のペースで歩くから楽しいはずだが、

車やボートに押し込められて、

ほんの数十分を過ごすほうに高い金を払う。

自然観察のポイントを解説してくれる

ガイドの話さえじっとして聞けない。

すぐに先走った質問をしたり、私語をしたり。

残念だが、認知能力にも問題がありそうだ。

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遊園地をはじめ、

ディズランドやユニバーサルスタジオなどは、

そうしたニーズに応えるプランニングをしている。

つまり「遊んでくれるテーマパーク」である。

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それに比べるとハウステンボスは、

オランダの街が中心で、

ジェットコースターや落下系の乗り物など、

スリルを楽しむものはあまりない。

(遠くに観覧車は見えたが)

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初代の経営者が収益難で手放したのはわかる。

日本人には、

こういう施設を愛用するだけの好奇心や主体性はない。

そんなことは素人でもわかるが、

そこにあえて挑戦した発案者には頭が下がる。

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遊園地やテーマパークは別として、

旅行先というのは、

大自然であったり海底であったり、

名所旧跡であったり、美術館や博物館であったり、

人が暮らす村や街であったり。

いずれにしろ、

向こうからは遊んでくれないエリアで

自分なりの発見をする、

それが旅の味わい方であり、旅の創り方である。

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長崎にオランダの風景があるというのもヘンな話だが

(開国以前のことは別として)、

身近なところで、そういう異質な体験ができるのはありがたい。

京都の太秦(うずまさ)の映画村や日光江戸村も、

一種のタイムスリップの世界である。

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今回は、半分は遊んでくれる

「トリックアート」で楽しんだ。

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これも各地にできていて、いまや流行しているが、

被写体としてはおもしろい。

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ただし、美術館をイメージして、

額の中の名画がこちらに働きかけてくる、

というトリックは、

いまや時代に抜かれつつある。

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スマホによる「インスタ映え」の時代だから、

美術館イメージをやめて、

「トリック スタジオ」にしたほうが

よほどニーズに適合する。

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いかにリアルな写真が撮れるかに徹する。
その場合、額はまったく不要、というより邪魔。
額のない大きな背景を用意しておいて、
どこを、どう切り取るかは撮影者に任せればよい。

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リッチな旅を実感したのは、
ハウステンボス内にある《ホテル ヨーロッパ》から
佐賀県の有田町にある名店≪深川製磁≫の
アウトレットで買い物をして、
ふたたび、ホテルヨーロッパに戻るという経験である。

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このくらいA点、B点が離れていると、
宿泊場所を移動することになりがちだが、
「旅行コーディネーター」力をつけた
栄養士さんたちのおかげで、
上手に移動をして、有効な時間を過ごすことができた。

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小さな旅になりがちな日本人の旅は、
34日でも毎日、宿替えに迫られる。
が、今度の旅は全日、
高級ホテルで過ごすことができた。

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アウトレットでは、
毎月クラスの方から、
お中元として深川製磁の食器をいただいた。
製造元の食器を現地でいただくとは、
このうえないぜいたくなタイミングである。

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愛用している「ふくらすずめ」シリーズが
またまた充実することになった。
旅の余韻が
食卓の上にきょうも響き続けている。

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この旅のプレゼントしてくださった方々に
深く深く感謝をし、
心からのお礼を申しあげたい。

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# by rocky-road | 2018-07-12 23:45  

おもしろくないキミ、ひょっとして……。

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パルマローザ関係者からの

バースデープレゼントとして、

「ハウステンボス&有田焼二泊三日の旅」を

いただき、629日から72日まで、

長崎の旅を楽しんできた。

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これを優先して書くべきだが、

出かける前に書きかけていた文章を

まずアップして、

旅日記のほうは、

後日、ご報告をさせていただきたい。

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さて、出発前に書きかけていたブログ。

月刊『Hanada』の8月号に

「文藝春秋の『内紛』を憂う」という

一文が載っている。

筆者は同誌の発行人兼編集長の

花田紀凱(はなだかずよし)氏。

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氏は、文藝春秋社から編集者としてスタートし、

月刊『文藝春秋』や『週刊文春』の編集長、

その他の雑誌の編集長を歴任し、

それぞれに業績を残した。

その後、長い経過があって、

別の版元から月刊『WiLL』を創刊させたが、

2016年には、ここにも「内紛」があったようで、

別の版元に移って

上記の『Hanada』を創刊させた。

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そういう経歴の花田氏が、

古巣の文藝春秋社の内紛の概略を説明している。

要するに人望のない社長が、

社員からの批判に負けて退任した

という話である。

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そういう内部事情の話よりも、

かつて愛読した『文藝春秋』や『週刊文春』が

こうも平凡な雑誌になった理由の一端が

述べられていて参考になった。

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ところで、「雑誌がおもしろくなくなる」とは

どういうことなのか。

「記事が平凡になった」とか

「通俗的ななった」とかというとき、

「平凡」や「通俗的」の定義が必要になる。

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そこへ入り込むと話が固くなるので、

ここは、あまり客観性を求めず、

平凡や通俗的の事例として

浮気など芸能界のゴシップが多い、

首相やその夫人への誹謗・中傷をいつまでも続ける、

「嫌いなタレント」や

「長寿番組」など、持続的な芸や風習を

否定的に指摘するワーストランキングなどを

あげておこう。

文藝春秋社といえば、

看板の『文藝春秋』や、

のちに創刊された『諸君!』を通じて

日本の保守の言論をリードしていた。

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硬派の男向けの記事が多く、

話題も日本、世界規模のものが少なくなかった。

筆者も、会田雄次、阿川弘之、谷沢栄一、

山本夏彦、イザヤ・ベンダサン、山本七平、

渡部昇一、西部 邁といった、リアリティのある論客が

活躍していた。

忘れられないのは、

共産主義政権時代のソビエト市民の家に

いきなり電話をかけて、

暮らしの様子などを尋ねるという企画。

すぐに電話を切る人もいたようだが、

いくらかは応じる人もいた。

これぞ編集というものだと感服した。

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版元(出版社や大学出版部、その他の発行元の総称)は、

トップの意向に従って

出版物の企画を決めていると思う人が多いが、

雑誌などでは、ほとんど編集長の意向で

内容が決まる。

ときにはフライングもあって、

編集長が責任を取らされるケースもあるが、

「ノー」といわれない限り、

すべて「イエス」と考えて前進を続ける。

したがって、

Aという編集長の雑誌が通俗化しても、

Bという編集長の書籍部門が

硬派の出版を続けるということは珍しくない。

このデコボコ感も、

その版元の健康度のバロメーターになる。

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編集カラーは編集長によって決まる。

件の文藝春秋社の「内紛」事情を読むと、

優れた編集長が育っていないらしい。

ずいぶんお世話になったこの版元のものを

定期的に読まなくなってから

20年以上はたっていると思うが、

それなりの理由はあったようだ。

いまは『Hanada』を購読している。

同時に『WiLL』という雑誌も読み続けている。

「編集カラーは編集長によって決まる」といったが、

『WiLL』と『Hanada』との関係は

特異な例ではないかと思う。

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編集長が『Hanada』に移った以上、

『WiLL』はもぬけの殻になるのかと思いきや、

花田的編集を続けているので

購読をやめる理由が見つからない。

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内部事情は知らないが、

残留した『WILL』編集長はなかなかのやり手だ。

ここで休刊になったら「やっぱりね」と

いわれること必定。

その崖っぷち状態が、

彼のモチベーションを全開させているのだろう。

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その根性について、

いつか誰かが語るだろう。

AIの進歩が著しいが、

編集もまた、

コンピューターには任せられない分野である。

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私事ながら、小学生以来の投稿好きで、

中学、高校、大学と編集物の発行にかかわり、

結局は本業になり、

退職後も、なんらかの形で編集にかかわっている

自分の現状を振り返ると、

花田氏が80歳近くまで

商業出版のど真ん中にいるのは立派だと思う。

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編集は文学ではないし、

芸術にも区分されることもないが、

長期的に購読することになるので、

思われている以上に

人のライフスタイルやメンタリティに

影響を与える。

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雑誌(新聞も入れてもよいか)

定期購読しない人間は、

会ったこともない、見知らぬ編集長の

影響を受ける心配はないが、

同時に、そういう人間は、

ライフスタイルやセンスを持たない人間なので、

つき合っていておもしろくはない。

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そのおもしろ味のなさといったら、

来る日も来る日も

スマホをのぞき込んでいる人間に匹敵する。

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いや、そうではなく、

雑誌も読まないくらいおもしろくない奴は

スマホ依存になるくらいしか、

生き方を知らないということである。

世の中のダメ編集長も、

つまり売れない雑誌を作り続ける編集長も、

たぶん、

雑誌を長期的に購読した経験がない連中だろう。

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おもしろくない奴に、

おもしろい雑誌を創れ、

といっても、どだいムリな話である。

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More

# by rocky-road | 2018-07-04 00:46  

モチベーションのプラスとマイナス。

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恒例となったパルマローザ主催の

夏のブラッシュアップセミナーで、

ことしもお話をさせていただく機会を得た。

2018610日、終日。横浜市技能文化会館)

演題は「健康論として『モチベーション』を考える。」

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内容は、

1.「モチベーション」とは何か。

2.「行動」とはなにか。

3.健康度を高めるモチベーションとはどんなものか。

4.自身のモチベーションを高めるポイント。

5.他者のモチベーションを高めるアクション。

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栄養士は、栄養学をベースにして

人々の健康向上に寄与する職業だが、

対象者は、

食生活だけで生きているわけではないから、

そのバックグラウンドとなっている

ライフスタイルについても

ある程度は見る目、

考える頭を持っていないと、

職業的影響力は小さくなる。

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つまり、人生100年時代にあっては、

栄養士としても守備範囲を広げる必要がある。

ストレスコントロールとか、

人間関係づくりとか、

生きがいの発見や強化とかについても、

ある程度、話題にできるようなトレーニングが必要。

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モチベーションアップも、

新たに栄養士の支援メニューの1つに

加えておきたいテーマである。

健康を向上させるモチベーションとは

どんなものか、それを論じた。

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モチベーションそのものは、

必ずしも健康志向ではないし、

幸福志向でもない。

頻発する幼児殺しや無差別殺人も

なんらかのモチベーション(動因)によって

引き起こされている。

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健康相談などで、

「健康になりたいとは思わない」

「長生きなんかしたくはない」

「食事をするのが面倒でしょうがない」

などとマイナスのモチベーションを

振りかざすクライアントも珍しくはない。

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「マイナスのモチベーション」は、

私の、とりあえずの用語だが、

マイナスを一挙にプラスに転じるなどということは

とうていできない。

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このあたりのリアリティを知ったうえで、

厄介な相手と向き合い、

語り合わなければならない。

そこに要する思考力、話力、瞬発力を磨くことは、

結局は、自分の人間力強化にもなる。

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ここからは、講義の要約からは離れるが、

マイナスのモチベーションについては、

それを売って生きている人間が相当数いることを

健康支援者としては知っておいたほうがよい。

それは、たとえば野党の議員であったり、

大手マスメディアの記者やディレクターであったり。

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新聞や報道番組でいえば、

ユニークな着眼と緻密な取材力がないから、

国のリーダーのスキャンダルを創作して

それを商品にして売り続ける。

「反日的」といわれるほどに

モチベーションはマイナスへ、

マイナスへと向かい続ける。

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人の悪口が多くなったら、

自分に相当にストレスがたまっていると

思って間違いないが、

少数派の野党議員や、

一部メディアの、一部の担当者は、

人の悪口を商品にして暮らしを立てている。

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健康論としては、

こういう連中の晩年を追跡調査してみたい。

年齢寿命や健康寿命の平均値と比べて、

彼らは上回るのか、下回るのか。

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「国のトップと戦った」という自負が強く、

おそらく人との協調性は低いはずで、

周囲となじむ可能性は少ない。

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現在の仕事が自分の主義とは違うといって

転職するには、

現在の年収が高すぎるし、

年金が多すぎる。

そして勇気がなさすぎる。

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家族だって、

夫の会社(または政党)の知名度の恩恵を

享受して幸福に浸っているのだから、

いま、そこを辞める

なんていうことは、とてもできない。

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独立する気力も能力もないくせに、

酒を飲めば理屈っぽく(気力がないからこそだが)、

もともと自己中心的だから、

友人は少なく、

コミュニティなどの居場所が少ない。

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健康支援者には、高齢者施設で働く人も多い。

そこは、

マイナスのモチベーションの結末が確かめられる

絶好のフィールドではなかろうか。

複数人の事例がわかれば、

私の仮説が、

そう狂っていないことを実感することだろう。

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ただ、ここが問題なのだが、

そういうスキャンダルメディアの情報を

有料で買う読者がおり、

金を払うスポンサーがいる、

という現実である。

それはつまり、

日本国民は、いつからか、

いや、もともと

マイナスのモチベーションの強いタイプだ、

ということだろう。

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昔からいわれるように、

自律的というよりは他律的、

「凸文化系」というよりも「凹文化系」、

つまりは外的刺激によって、

仕方なく動く、という、

受け身の国民性は、

1万年、2万年という程度の期間では

とても変わる気配がない、ということ。

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なんていう、このプログ自体が

相当にマイナスのモチベーションにならないのか。

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「早まるなって!!!」

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リアリティは悲観や絶望とは違う。

現実をしっかりと見据えて、

そこから対策を、それもリアルに練る。

人のモチベーションを

プラス方向へと支援するのは、

だからやりがいがある、そうではなかったか。

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1人のプラスのモチベーションを

高めることは、

日本人のプラスのモチベーションを

高めることなのだ。

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突然ですが、

最後に、わがモチベーションがアップしたご報告。

セミナー途中のランチタイムでは、

各自が、きょうの服装についてプレゼンテーションをした。

あらかじめ予告をしておいたそうで、

課題は「私のモチベーションがアップする服装」

それもこれも、

私の誕生日を祝うサプライズであった。

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わが人生、
高いモチベーションはなおも持続する。

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# by rocky-road | 2018-06-13 23:52  

80代のモチベーション。


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6月4日の「読売新聞」人生案内に、

80歳代の男性からの

「気がつけば80代 死が不安」と題する

相談が載っていた。

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家族は妻と20代の娘。

週に3日ほどは仕事をし、

休日にはスマホやブログを楽しんでいる。

しかし、

「亡くなったことが報じられる人の年齢は、

80歳前後が多いようです。いつ死と向き合うのか、

すごく不安を感じます。

どういう心構えで過ごせばいいのでしょう」

これに対して、回答者の樋口恵子さんは

86歳女性の私は、お便りを拝見して、

うらやましさを感じ、あなたの気力、努力に

圧倒されて、声も出ません」と応じる。

樋口さんは、お父上が50歳のときの子だそうで、

年寄っぽい父に「少し引け目を感じて」いたとか。

しかし、「77歳で死ぬまで社会の中で生き、

働くことに全身で喜びを感じていた姿は、

今もって私が老いを生きる指標です。

あなたの生き方はきっと娘さんの

大きな精神的遺産になるでしよう」と結ぶ。

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6月5日に82歳の誕生日を迎えた私の

この人生案内についての感想は、

「今日の80歳代は、ずいぶん若くなった」である。

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少年時代ならともかく、

80歳代にもなって

死ぬことが不安だという人がいるとは、

信じられないくらいだが、

そういう幼さが残っている高齢者が現存することを知って、

なんだかムーミン村の住人のように感じた。

他人事ながら心温まる話である。

(人の不安で心温まっていけないが……)

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私より7つ年下の友人は現役時代、

勤め先のオーナーにずいぶんいじめられ、

結局はガマンできずに退職したのだが、

オーナーが82歳で亡くなったあと、

「オレは絶対にあの人の年齢以上は生きてやる」

と、恨みを込めて語っていた。

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人生案内に投書した人のモチベーションは「不安」、

いま75歳の友人のモチベーションは「恨み」、

私はこれらを「マイナスのモチベーション」と呼ぶ。

極上の孤独をすすめたり、

「健康という病」などという本を書いたりする作家は

そうしたマイナスのモチベーションを持つ人の

ニーズに応えつつ、

本の売れ行きだの、評判など、

ブラスのモチベーションを高揚させていることだろう。

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では、「お前のモチベーションは?」

と聞かれたらどうするか。

それを聞くわけ?

6月10日に

「『健康論として』 モチベーションを考える」

というセミナー講義を控えていて、

ようやく10ページのテキストを仕上げたところ。

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その関係で、

栄養、運動、休養以外の健康の要素を

さらにさらに考え続ける日々である。

ますます、

心の栄養素としてのモチベーションというものに

興味を感じている。

「生きがい」という抽象的なコトバを

「モチベーション」の概念を使って

分解してみた。

上記のセミナーでのメインテーマになるはずである。

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死の不安はまったくない。

戦争を経験し、

すぐ近くに爆弾を落とされたりしたし、

空襲直後の遺体の山も見てきたし、

親や3人の兄たちも

70歳以前に亡くなっているしで、

わが一族の中では充分に生きた。

ここで終わっても、まったく悔いは残らない。

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などといっている人間が、

夜景のきれいなホテルのホールで

若い女性たちに祝っていただいて、

ますますモチベーションは高まるばかり。

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これをマイナスのモチベーションに変えて、
樋口恵子さんに
「こんなにハッピーでいいんでしょうか、
とても不安になってしまうんです」と
人生相談をお願いしようかしら?
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# by rocky-road | 2018-06-07 22:54  

親愛なる ホールマーク御中

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ある人が、文房具店で「おもしろいもの見つけた」

といって、小型の横書き用便箋を持ってきてくれた。

「手書き文例たっぷりの便箋」と謳う商品である。

表紙にも文例が載っており、

表紙裏には便箋を使うときのレイアウトの「基本」、

次の1ページの表裏には手書きの文例が示してある。

ところが、

それぞれの文例とも、

すべて、相手の名が行末にきている。

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小さな会社の商品だろうと思って制作元を見たら、

グリーティングカードなどで知られるホールマークである。

しかも、監修者の名も経歴も表示してある。

自信を持って商品開発をしたのだろうが、

旧来の書式を踏襲していて、

新商品としての自負も輝きもない。

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念のためにメーカーに問い合わせたら、

何回かのやりとりののち、

こんな回答があった。

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「宛名を文末に置く形式は、

 監修者の過去の著作物においても、

 また過去に出版されたその他の著者による

 手紙の指導書・文例集の中でも、

 横書き手紙の書式として紹介されてきたもので、

 監修者・メーカーともに

 以前から存在する形式と認識しております。」

「よって、本商品は

 公文書の書式指導として意図されたものではなく、

 明確な形式の存在しない横書きの手紙において、

 敬意、感謝、親愛などがこもった誠意を

 どのような言葉に託すか、

 という点を重視して開発いたしました。」

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この回答の注目点は、

人はピンチに立つと論点をすり変えるという傾向。

国会での大臣の答弁と同じである。

こちらは、文例の適否を指摘したのではなく、

横書きの私信の形式(レイアウト)について

問い合わせたのである。

それに対して、

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「公文書の書式指導として意図されたものではなく」

とポイントをずらし始める。

「敬意、感謝、親愛などがこもった誠意を

どのような言葉に託すか」の文例を示したものだから、

言外にレイアウトにポイントを置いていないという。

さらに「公文書の書式指導」のつもりはない、

といもいう。

「文例」をいくつもあげておいて

指導の意図はないとは、どういうこと?

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マニュアルに指導の意味がないのだとすれば、

なんのためにそんなものをつけるのか。

「指導」「参考」「文例」「デザイン例」

いろいろの言い訳はできるが、

それに惹かれて購入した利用者の99%は、

その文例に従うだろう。

実際、それを「売り」にした商品ではないか。

相手の名を行末に持ってくる形式は

確かに「以前から」存在する。

そのルーツは、

日本古来の縦書きの手紙の書式を

そのまま横にした、という点にある。

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かつての手紙マナーの専門家には、

書道家や伝統作法家の割合が多く、

したがって、横書きの手紙形式については

疎い人が少なくなかった。

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今日では、

Eメールなどでも、公私にかかわらず、

「宛名」や「件名」は上にくる形式。

それでもなお、

本文の行頭に相手の氏名を書く若い人も少なくない。

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また、欧米在住の日本人、外国人と

横書きの手紙のやりとりするときには、

欧米の書式に従って、

行頭に「dear ICHIRO」

「ディア 三郎」なんて書くのが普通。

ここで日本式を踏襲する人はまずいないだろう。

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横書きの手紙では相手の名は行頭に置く。

そのほうが敬意が示せるだろう。

便箋が何枚にもなるとき、

相手の名が最後に来るのはいかにも敬意不足。

ここが日本の縦書き手紙と、

欧米式の横書き手紙との大きな違い。

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こんなことは、

横書き手紙を何回か書けばすぐにわかること。

ホールマークは、いつごろの本をチェックしたのか。

ホールマークが

「明確な形式の存在しない横書きの手紙」

というのは正確ではなく、

だれの説というのではなく、

時代の流れとして、

形式は存在しつつある。

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「監修者の過去の著作物においても、

また過去に出版されたその他の著者による

手紙の指導書・文例集の中でも、

横書き手紙の書式として紹介されてきたもの」

という認識は残念。

過去にタイムスリップしないで、

パソコン、欧米在住の人との文章コミュニケーションの

現状をなぜ見ないのかね?

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商品開発をするときには、

将来性を考えるのが普通だが、

グリーティングカードという、

日本人には身近ではなかった

新しいコミュニケーション文化を

一般化してくれた先進的な会社でも、

こと日本のコミュニケーション文化となると

手こずるところがあるらしい。

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その原因には

会社や監修者の将来展望の狭さもあるが、

それ以上に、

日本の文章表現形式の伝統の重さ、

日本人の改革への消極性の反映がある

と見るのが妥当だろう。

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しばしば指摘することだが、

パソコンという

最新のコミュニケーション機器の普及によって、

年賀状や冠婚葬祭のあいさつ状から

句読点を省くという書式が定着してしまった。

こういうチグハグもある。

言語現象は理屈どおりにはいかないものである。

機会があれば、

ホールマークのあいさつ状の形式はどうなっているか、

見てみたいものである。

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理想的には、

文部科学省や国立国語研究所などのリーダーシップで

一般人が使ういろいろの書式を

正書法として普及することである。

それをインターネット関係者、

メディア関係者、自治体、

教育機関などに伝えられればすばらしい。

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が、そんな日を待つことなく、

またしても、1メーカーによって、

旧式の横書き書式が「指導」のつもりがないまま、

ミスリードされることになった。

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こういう商品のサイクルは知らないが、

3年や5年は、

「相手の名は行末に」という

困った横書き手紙が行き交うことを

覚悟しなければならないのだろう。

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手紙活用者は、

こうした無責任なメーカーの商品に惑わされることなく、

インターネットの中から

「これは」と思える書式を見つけるか、

版元のしっかりした、

そして発行年月が新しい「手紙の書き方」本を見つけ

それを求めて座右の書の1冊にすることである。


# by rocky-road | 2018-05-30 20:06