パルマローザ フォトコンテスト 2019  入賞発表。

恒例の栄養士・健康支援者のための写真教室
終わった。

201953日 金/祝日)

フォトコンテストのエントリーが出そろったので拝見した。

横浜の山下公園からレンが倉庫まで、

ゆっくり撮影して歩いた。

写真撮影などのクリエーティブな仕事は、

「勝手を知ったいつものところ」には要注意。

「慣れ現象」によって、
風景を新鮮に見ようとしなくなる。

応募作品を見る限り、
意外なほどバリエーションが少ない。

カメラマンとしては(プロ、アマ関係なく)

砂漠のど真ん中に放り出されても、

なんらかのモチーフを見つけるアィディアが不可欠。

それは人生も同じで、

砂漠のような「平凡な日々」のど真ん中に放り出されても、

心の被写体(モチベーション)を見つけて

作品化していかないと(知的・感覚的刺激または認識)、

つまらない人生になってしまう。

今回も、「銅賞」を最高位とせざるを得なかった。

ハードルを下げたい誘惑に負けそうになるが、

歯を食いしばってでも、

それなりの尺度で選考を続けたい。

タイトルのネーミング力不足は、

この撮影会に限ったことではなく、

日本中のフォトコンテストの99%は幼稚園並み。

しかし、ここも妥協しないで、

よりよいネーミングを求めていきたい。

受賞作品のあとに、

参考作品として、
大橋のショットもご紹介させていただく。

銅 賞

エントリー 3.
タイトル 「帽子をかぶり、横浜散歩」
撮影者 塚本 ゆみ子 (長崎県 特別養護老人ホーム勤務)
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【評】 

ユーモラスな表情をとらえて成功した。

基本どおり、ローアングルで狙ったのがよかった。

遠景の船の煙突を強調するのなら、

ズームで狙って遠近感を狭めるとよい。

そうすれば、余計な背景を少なくすることができただろう。

タイトルの「帽子」はどうか。この表情からすれば「王冠」

「横浜散歩」は不要なつけ足しのフレーズ。

「浜のオンリーわん」で決まりだろう。


佳作

エントリー 5.
タイトル 「アイドル」
撮影者 甲斐 和恵さん (神奈川県 船員保険健康管理センター)

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【評】 

子どもの表情を撮ろうと迫る2人の女性の姿がおもしろい。

瞬時のできごとに素早く反応したセンスを買いたい。

2人のカメラマンと、撮影者。

写真教室での、
みなさんの夢中ぶりがほほえましい。

野暮な指摘ではあるが、

撮影するときは、荷物は極力減らして

より身軽でありたい。

佳作

エントリー 9.
タイトル 「中1の春。人生の目標は高く高く!」
撮影者 影山なお子 (神奈川県  パルマローザ主宰)

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【評】

 「逆バンジー」(と呼ぶらしい遊具)で遊ぶ子の撮影はむずかしい。

動きが速いし、距離も流動的。

この作品は、知り合いの子を追いつつも

構図のおもしろさに着目している。

幾何学的な模様と、イベント会場の雰囲気とを

冷静な作画感覚でとらえている。

タイトルは説明のし過ぎ。
「人生の目標は高く」くらいでいいのでは?

佳作

エントリー 8.
タイトル 「花道の先には……
撮影者 三奈木博文さん (東京都 会社経営)

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【評】

 撮影意図がわからない不思議な写真だ。

砂場で無心に遊ぶ子か、
迷子か、「座敷わらし」か。

出来過ぎた構図、動と静の対比、

静寂の音が聞こえてくるような臨場感など、

なかなか撮らない(撮れない)作品として
注目した。

タイトルからも肌寒さが感じられる。

佳作

エントリー 6.
タイトル 「オーロラをゆく」
撮影者 永野 幸枝さん (千葉県 学校栄養士)
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【評】

 みなで同じ場所から撮った一作。

夕陽を追わずに、停泊船を入れ込んだ構図がよい。

わずかながら、もう少し明るく撮りたかった。

タイトルの「オーロラ」はどうか? 

実際にオーロラを撮ってくる人が多い今日、

夕陽をオーロラと見るのは現場感覚の弱さか。



その他の作品

エントリー 1.
タイトル 「昇っていく」
撮影者 徳本 梨江
さん 
(埼玉県 高齢者福祉施設勤務 栄養士)



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【評】

 春になると、ときどき、こういう人が現われる。

それをスナップショットで押さえた適応力を買う。

が、現場を知らない人には、意味不明の作。

記念写真にはなるが、
「作品」として公開するには弱い。

タイトルには、
怪しい行動をする男の気分が出ている。


エントリー 2.
タイトル 「輝く一輪」
撮影者 塚本 剛志さん 
(長崎県 塚本工務店経営)

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【評】

ワイド系のレンズで寄ったために、 花弁が湾曲してしまった。

色も黄ばんでいて
ホワイトバランスの設定が気になる。

「一輪」を撮るには、しっかり一輪に限定したい。

右下の中途半端な一輪はカットするか、

2輪で美しく撮るか、意図をはっきり持とう。


エントリー 4.
タイトル 「ももいろの夢」
撮影者 塚本 初音さん
 (長崎県 中学
1年生)

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【評】

バラの花とマリンタワーの対比はおもしろいが、

その場合は、
その他のものは思い切って整理したい。

高く伸びた枝や、草むら、左の赤いバラ、

こういうものが入り込むと
画面が散らかってしまって

夢が「ももいろ」ではなくなってしまう。
花の向きにも工夫を。

カメラアングルを工夫すれば、もっとすっきりとできるはず。


エントリー 7.
タイトル 「夕暮れの引き寄せ力。」
撮影者 奥村 花子さん 
(東京都 
Hanaヨガ&食スタジオ主宰)

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【評】

夕景をきれいに撮っているが、インパクトが弱いかな?

同じポジションからでも、ズーミング(絵の切り取り方)、

露出などを工夫することで個性は出せる。

タイトルで謳っているように、

「引き寄せ力」を発揮していただきたい。

それにしても
スルメみたいに乾燥したネーミングだ。

エントリー 8.
タイトル 「横浜ジャンプ、スタンバイOK!」
撮影者 三奈木麻弓さん(東京都 行政栄養士)

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【評】

わが子の記念すべき瞬間をいいアングルでとらえている。

係員の表情もいい。

フォトコン作品とするには、もう少しインパクトがほしい。

充分なキャリアからすれば、もっとユニークな撮り方があるはず。

タイトルもダラダラと長すぎる。
ビシッと決めよう。

参考作品(撮影/大橋禄郎)

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一輪の撮り方

   

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おじさんコスプレみなと


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 神の所在

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 潮風の通り道

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一期一会                                 
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ゴールデンタイム
 
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# by rocky-road | 2019-05-19 22:18 | 写真教室  

孤独は、そこまでわがままである。

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読売新聞の51日の「人生案内」に、

意味の深い相談記事が載った。

投書者は90歳代の女性。

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「十数年前より念願の一人暮らしになり、
極上の孤独を楽しんでおります。
特に一人の食事が好きで、
歯が悪いせいもあり、
長い時間をかけて味わい尽くしております」


「足腰の痛みや苦しみを差し引いても、
すべて自分の思うがままに物事を進んでいろるという
素晴らしさは至福の極みです」

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このように、

自分のライフスタイルに対する誇りと自信を

全体の約75%の文章を使って綴っている。

万々歳の生き様かと思いきわ、

終わりの8行で、こう結ぶ。


「ただ、人間としてこの世に生を受けた限りは、

一般に推奨されているように、

医療の恩恵にあずかりながら、

一日でも長く生きなければならないものなのでしょうか」

(和歌山・Y子)

これに対する回答者の作家は、

内村鑑三(宗教家、評論家)による

『後世への最大遺物』と題する講演から

こんな発言を引用している。

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「お金もない、
手がけた事業も名声もない思想もないという
普通の人でも後世に遺せるものがある。
それは人に恥じない、まじめな生涯を送ることである。
そしてこの世は楽しい世であったと語ること、
これはだれでもできる」


そして、回答者作家自身は
こんなコトバで絞めている。
「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう、
そのような気持ちでこれから日々過ごされることを
願っています」
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かねがね、孤独の経験がないどころか、
むしろ日本で、もっとも孤独ではいられない
売れっ子作家の一部の人が
「孤独のすすめ」だの「極上の孤独」だの
「夫婦という他人」だの「元気に下山」だのと、
無責任な言説によって
稼ぎまくっている現象を危ぶんでいた。
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予測どおり、
今回の人生案内に投稿するような
「極上の孤独」にそそのかされている人が
やはり、いたのである。

どの本も、何十万部も売れているそうだから、
投書者のような心境になる人は少なくないだろう。

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「いい歳」になっても、
人間や生きることの意味が

わからない人はいるものである。

そもそも、「孤独もの」の作家や、

人生案内の回答者である作家たちが

ここまで人間がわかっていないものかと、

あきれるばかりである。

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内村鑑三は、

金や事業、名声、思想もない普通の人でも

「人に恥じない、まじめな生涯を送ること」

「この世は楽しい世であったと語ること」と
言ったそうだが、

「人に恥じない」や「まじめな生涯」の解釈は

そう簡単なものではない。

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「まじめな生涯」とは、

単に反社会的な行動をしない

というような浅い意味ではあるまい。


内村が言う

「この世は楽しい世であったと語ること」も、
「まじめな生涯」の要件であろう。

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ドイツ人哲学者で日本在住の
アルフォンス・デーケン氏(上智大学名誉教授)は、

人生の後半は「お返しの時期」だと言った。
自分が祖先や先輩から知識や技術を学んだように、

晩年は、それを後輩に伝えることが仕事だ、と。

いわば「借り」を返す時期である。

「極上の孤独」を提唱したり、

それにそそのかされている人は、

「持ち逃げ人生」「借りを踏み倒す人生」を

臆面もなく「極上」だなどと抜かす。

その挙句は、数百万の読者を持つ大新聞に投書して

しかるべきアドバイスを求める。

「甘ったれるな!!」と、

難聴の耳に口を当てて叫んでやりたい。

「孤独とは、

そんなふうに人に頼るのではなく、

自分で考えて、

自分の道を進むのではなかったのかね。

90年間、お主は、なにを考えてきたのか、

できもしないくせに、突っ張るんじゃねぇ」

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「一般に推奨されているように、
医療の恩恵にあずかりながら、
一日でも長く生きなければ
ならないものなのでしょうか」だと?

だれがそんなことを言った?

「極上の孤独」を楽しみ、

「至福の極み」とまで言いきる人間が、

いまさら「一般に推奨されている」などと

世間を持ち出して、

自分の生き方を人に決めさせるなよ。

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生物学で言う「共生」とは

「異種の生物が緊密な結びつきを保ちながら

一緒に生活すること」だが、
共生にも
「片利共生」「双利共生」「寄生」がある。

アニメ映画で知られた「ニモ」、

すなわちクマノミという魚は、

イソギンチャクと共生し、

クマノミは外敵からの隠れ家とし、

イソギンチャクは、

自分に付着する汚れなどを

除いてもらっているから

ともに利益があるという意味で

「双利」(そうり)の共生という。

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人間の腸内細菌は、

双方にメリットがあるという点では「双利」だが、

水虫菌と人間との関係は、

水虫にとっては「片利」的である。

ただし、同種同志、

人間同士の共存関係は「共生」と言わず、

「仲間意識」とか「協調」とか「協働」とか

「ネットワーク」とかと言う。

かつて、最終学校卒業後も親の家に居座り、

いつまでも育った家から出て行かない若者のことを

「パラサイト・シングル」などと言った

(パラサイト=寄生虫)。

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「極上の孤独」を享受する人は、
パラサイトとは真逆の生き方を

しているように見えるが、

社会の側から見れば、

なんの還元も貢献もないまま、

孤独ぶっているわけだから

とても「共生」とは言えず、

とすると、けっこうパラサイト的ではないか。


回答者の作家は、

回答のまとめとして

「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう、

そのような気持ちでこれから日々過ごされることを

願っています」

と書いているが、

「極上の孤独」を決め込んでいる人間のどこが、

「世の人の手本になられるよう」なのか。

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甘やかすのもいい加減にしてはどうか。
そんな人間を手本にしたら、
人類は遠からず絶滅するだろう。
前にもこの欄で書いたが、
家族ではなく、
アカの他人に貢献する「利他行動」を
日本のことわざで説明すれば
「情けは人のためならず」である。

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こういう高度な社会的活動は、
人間に至って身についたものではなく、
体重わずか4050gのチスイコウモリにも
見られる行動だという。
『進化と人間行動』(長谷川寿一、長谷川眞理子
東京大学出版会発行 20004月)

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中南米に住むチスイコウモリは、
夜中に活動して、
野生動物(近年は飼育動物)に近寄っては、
じかに皮膚を噛んで穴をあけ、
舌で血液をなめたり吸ったりする。
相手に気づかれぬよう、
麻酔液を出して注入するという。

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食事が終わって洞窟内の巣に帰ったとき、
老いた個体や若い個体は、
うまく血が吸えず、飢餓状態になっている。
すると、血を吸うことができた個体は、
飢えた仲間の口に血を吐き戻して
「お裾分け」をする。

チスイコウモリの世界では
「極上の孤独」などは許されず、
家族以外の相手でも、
生命の危機を救い合って進化してきた。
人間もチンパンジーもゾウも、
その他の哺乳動物の多くは、
そういう「利他行動」を習性として持っている。

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こういう話を思い出すと、
新聞社としては、
人生案内の回答者の人選を
根本から見直す必要があるだろう。
この欄では、精神科医や哲学者、
作家などが回答をしているが、
適材適所とは言えない。

専門性の問題というよりも、
人間または人生についての洞察ができていない。

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さらに、回答者には「ぶりっ子」傾向があり、
バカな質問者をどやしつけることはまずない。
それは親切であるかのように見えて、
結果的には冷たい。
いつの日か、
食コーチング型栄養士が回答者になると、
少しは状況がよくなるかもしれない。


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それには、
文章による回答力をつける必要はある。
作家でも、
「あなたの生涯が世の人の手本となられるよう
などという窮屈な表現をするのが現状だから。

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ところで、
NHKの「マイあさラジオ」という番組の、
「くらしテキスト」というコーナーで、
三好春樹という理学療法士が
高齢者施設に入る人の注意点として
次の3点をあげていた。

「私物を持ち込むこと」

「人間関係を維持すること」

「生活習慣を変えないこと」

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かねがね私は

「物質は情報を持つ記号でもある」

と言っているが、

現場を知っている人の見解は、

さすがにリアリティがある。

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人間の一生とは、
過去、現在、未来が

糸引き納豆のようにつながっているものである。

「断捨離」だの「極上の孤独」だのという人生は、

粘りのない納豆のようなもので、

食品としての存在価値は半減以下となる。

「健康」や「健康寿命の延伸」が

人生の目的ではないとすれば、

「よい人間関係」の維持・発展は、

人生の目的の1つになるであろう。


糸引き納豆が嫌いでも、

人のネットワークを大事にすることは

一人ぽっちを「至福のとき」などと言っているよりも

「一般に推奨される」はずである。

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# by rocky-road | 2019-05-07 21:24 | 大橋禄郎  

なぜか気になる「いわゆる」

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このブログの「記事ランキング」では、

2012年8月に書いた
「『いわゆる病』にご用心。」

つねに上位にランキングされている。

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電波メディアでは、

毎日のように「いわゆる連発症」

というべき事例を確認できるが、

自分が、これまでつき合ってきた人の中には、

この症状の人は皆無だから、

「いわゆる病」がなぜランクインするのか、

その理由を推測できない。

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この話題に初めて接する人のために

少しおさらいをしておこう。

「いわゆる」とは、

「世間で言われている……」

「俗に言う」というのが本来の意味。

昔は「所謂」と書いた。

「いわゆる『働き方改革』のとばっちりで……」

「いわゆる『激レア』な人物なんです」

「いわゆる『自分らしく』っていう生き方ですよ」

などと使う。

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ときに、

相手があまりなじんでいないかもしれないコトバに

「いわゆる」をつけて

注意力を促すこともある。

「いわゆる『学際的』に協力し合っていますよ」

「いわゆる『言語本能』を刺激する意味でもね」

このほかの使用例では、

「いわば」に近いニュアンスで、

「いわゆる『風前の灯』ですよ」

「いわゆる『自然消滅』かな?」

というケースも少なくない。

このコトバの禁則は、

あとに「という」をつけること。

「いわゆる『働き方改革』というヤツのとばっちりで」

「いわゆる『自分らしく』という生き方ですよ」

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「いわゆる」には、

すでに「言うところの」という意味があるから、

それに「という」をつけると、

二重に「言う」を使うことになる。

これほど野暮な使い方はない。

さらに困惑するのは、

「いわゆる」で話し始めながら、

しばらく言いよどんで

「いわゆる……なんていったらいいのか……」

これをやる人間は、

かなりのお調子者と考えてよい。

(バカ野郎!! 最初のコトバも決まらないうちに

『いわゆる』なんて、もったいぶった言い方をするな!!)

もう1つの、超禁則使用例は、

特別の意味がない一般名詞に「いわゆる」をつけて、

「いわゆるパソコン」「いわゆる満月」

「いわゆる幸福」「いわゆるコトバのクセ」

などとやること。

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上の写真は、「平成最後の満月 419日深夜」

これらの誤用は「うっかりミス」では済まない、

野暮、能天気、はったり屋などが丸出しとなる。

とはいえ、実際には

これらは、あらゆる局のラジオ、テレビ出演者が

毎日のように事例を見せてくれる。


この種の実例に触れたい人は、

TBS系テレビの「ひるおび」のキャスター・恵某、

ラジオならこの3月末に放送終了した

「荒川強啓 デイ・キャッチ!」にレギュラーで出ていた

国際ジャーナリストと称する小西某、

日本テレビ系なら「ミヤネ屋」のメインキャスター。

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国際ジャーナリストの場合、

国際会議の同時通訳をすることを売りにしていたが、

ここまでセルフコントロールの効かない男が

正確な同時通訳なんかできるのか、

大いに怪しんだものである。

2人のテレビキャスターのほうは、

ともに「急性期」は過ぎて、

その頻度はだいぶ減ってきてはいる。

ところがつい最近、「ひるおび」で

ボード解説を担当していた若いアナウンサーが

シールをめくりながら、

突然「いわゆる」を頻発し始めた。

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ここに、このコトバを使う言語心理が見事に現われている。

「クセ」(癖)には「やまいだれ」がつくが、

厳密に言うと、

「いわゆる」の頻発は、

「あのォ~」や「え~と」などのように

うっかり出てしまうクセとは違って、

もう少し自覚的、確信的である。

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したがって、罹患者に対する同情はまったくご無用。

それどころか、その小心ぶり、

衒学性(げんがくせい=ひけらかし根性)、

品性の貧しさなどについて、大いに突っ込んでよい。

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いつも原稿を読むくらいのアナウンサーが、

フリートークで話ができるようになると

(実際には、パネルに従って話しているだけなのだが)

急に自分が偉くなったように錯覚して

無意識的に自分の立場をひけらかし、

視聴者に対して上から目線で「いわゆる」とやる。

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人のコトバの癖を論う(あげつらう)のは

あまりよい趣味ではないが、

上記の事例は個人的な「クセ」というよりも、

マスメディアという公器を使っての

国語の汚染だから

環境問題として認識する意味はある。

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それでなくても、

「注目を集める」「真摯に受け止める」

「多岐にわたる」「だから戦争はいけない」

「先行きは不透明」「しっかり対処します」

「忖度する」

などなど、

マスメディアや政治家からは、

空虚で、手アカのついたコトバを

ずいぶん刷り込まれているはずである。

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マスメディアには、

正しい情報を送ることと同等に、

正しい国語を使う責任と使命がある。

「コンプライアンス」とか「ガバナンス」とかは、

組織の弱点を指摘するときの

専用用語のようになっているが、

メディア自体、

こういうコトバづかいを平然と続けるのは、

まさしく組織のガバナンスに

問題があるからだろう。

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おもにテレビ、ラジオが振りまく、

不適切国語に感染しないためには、

その大小にかかわらず、

指摘したり、警告したりすることが

今後も必要だろう。

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そうか、

この「いわゆる」関連ページが、

もう少し「記事ランキング」の上位に

いてもらう意味はあるのかもしれない。


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# by rocky-road | 2019-04-25 23:42 | 大橋禄郎 文章教室  

元号をどう手書きしますか。

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41日の新元号発表の時点から、

マスメディアの文字に対する準備性のなさが

気になっている。

めったにない行事だからやむを得ないが、

漢字の国としては、やや不甲斐ない。

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「令」を、発表どおり「本字」(ほんじ)または「活字体」で書くか、

筆記体または「許容書体」で書くか、

はっきりと方向性を示していないように思う。

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書家を訪ねて「令和」を書いてもらうテレビ局もあったが、

書家いわく「どちらでもいいんです」

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だから、オタリアまで活字体で「令和」と書いていた。

これでは困るのである。

この場合、取材先を間違えている。

正解は、小学校の国語の先生か、

文部科学省を訪ねて、

日常生活において、どちらを使うのがよいか、

意見を求めることである。

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実は、そんなむずかしい問題ではなくて、

日頃、「命令」や「年齢」「冷却」「鈴」を

どう書いているか、というだけのこと。

おそらく、本字や活字体で書いている人は

ほとんどいないだろう。

(ついでながら「年令」と書くのは大間違い。意味が違う)

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このほか、日常生活において

「道」や「通り」の「しんにょう」を

活字体で書いている人はいるだろうか、

「糸」を8画で書いている人はいるだろうか。

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おもしろいのは、

テレビ画面にちらっと出た写本『万葉集』の序文部分では、

すでに「令」の字を筆記体で書いていること。

写本は慶長年間、1600年代に作られたというから、

400年前には、

すでに「令」を略して書いていたということになる。

どこの国にも「本字」(のちに活字体とも)に対して

「筆記体」「略字」はある。

それが合理性というもの。

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とすると、

新元号を発表するにあたって、

字体をどうするかについて、

有識者のあいだで話し合いがあったのだろうか、

それが気になる。

懇談会参加者の職歴を考えると、

その種の議論に強い人がいなくて当たり前である。

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新聞社も、いまはパソコンで原稿を書く時代だろうから、

「字体をどうすべきなのか」ということに

頭が働く人は少なかったのかもしれない。

「どちらでもいい」では

適切な解釈にはならない。

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この種の問題を話し合うときのキーワードとして

「本字」「略字」「活字体」「筆記体」「許容体」

「常用漢字」(かつては「当用漢字」)、

「字体改革」などは無視できない。

日本では、太平洋戦争後、

漢字の字体を大きく簡略化し、それが今日に至っている。

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とすると、

新元号発表者には、

こんなコメントを添えてほしかった。

「なお、一言申しあげたいことは、

ここでは旧来の『令』の字を使っておりますが、

(正確には、上のテンの部分は略字化している)

日常生活において手書きをするときには

『八』に『、』と『マ』と書くことは妨げません」


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言語現象として興味深いのは、

手書きのときに筆記体を使っていた国民が、

新元号に従って、

活字体を手書きに使うようになるのかどうか、

という点である。

元号を書くときだけ「令」とし、

「年齢」や「命令」「冷却」「鈴」は

いままでどおりに書くのか。

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「どうでもいいこと」と考えず、

しばらく見守ることは、

言語感覚を磨くうえでマイナスにはならないはずである。

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# by rocky-road | 2019-04-14 22:16 | 大橋禄郎  

海から見るオカの世界。

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久々に、

ダイビング関係のいくつかの恒例イベントに

出かける時間が得られた。

行ったかいがあって、

いろいろと刺激を受けた。

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毎年4月は、

東京近辺のダイビングシーズン幕開け季節である。

厳密に言えば、

いまどきのダイバーは、

世界中で「いまが夏」または、

「いまが流氷の季節」の海に

出かけていくことができるので、

1年中がシーズンである。

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しかし、それではメリハリがないので、

丘の上世界の習慣に従って、

春から初夏くらいにかけて、

シーズンの開始と考えるようにしている。

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出かけたのは、次の3つのイベント。

1つめは「海で逢いたい」グループによる

23回目の写真展。(東京都・大崎)

2つめは「マリンダイビングフェア」

 (同、池袋サンシャインシティ)

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3つめは「第36
回 水中映像祭」

 (同 江東区文化センター)

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このほかに、スペシャルイベントとして、

45年前から2年間、

西伊豆の海底9メートルに存在した

海底ハウスを語る会にも参加した。

以上の体験から

感じたことの1つを書いておこう。

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改めて感じることだが、

文明や文化は、

右肩上がりに進むとは限らない、ということ。

停滞や逆走もあるし、

消滅も、もちろん、ある。


「海で逢いたい」グループと、

「マリンタイピングフェア」では、

応募された作品、または、

「フォトコンテスト」に入選した

海関係の傑作写真が展示されていた。

被写体のバリエーション、

撮影技術の目覚ましい向上を強く感ずる。

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ところが、作品のタイトルが稚拙すぎて、

失笑を超えて暗い気分になった。

共通するのは、

被写体の生物名を検索することなく、

つまらないネーミングによって

安易に、または低俗化している点。


「海は美しい」(ロク=いま気づいたのか!

「海中は色鮮やか」

「魅せられて」 (古い歌謡曲だ

「キラキラ」  (幼稚園児か

「満点の星空」

「赤い惑星」

「お見合い」

「ひゅん!」 

「回って回って」 

「ゴチャッと」 (アンタのお脳がね

「はい!ポーズ」 (いまどき、陸でも言わんぞ

「コンニチハ」 向こうは人間を恐れているよ

「銀河鉄道」

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水中写真は、

芸術性以前に科学性(生物学などを中心とした生態学)を

担っているとともに

未開のエリアへの探検的・旅行的な発見が

大きな動機の1つとなる。

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したがって、

水中で撮った写真は、

それがどういう生物なのか(学名までは求めないが)、

どういう行動の瞬間なのかを

撮影者および発表者には

説明責任がある。

その自覚は微塵もなく、

「キラキラ」や「ひゅん」「ゴチャッと」などと

ネーミングする。

芸術性はおろか、成人の言語能力さえ疑われる。

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ガマンがならないのは、

自称「プロ」と称する人間の

「古い手法ですが、好きな1枚(笑い)」

というタイトル。

小さなウミウシを、

水面直下で撮影した1点だが、

被写体が水面の裏側(陸上から見たとき)に

反射している作品。

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およそ公共性はなく、

仲間内の冗談みたいなネーミング。

少なくとも公共施設で写真展を開くからには、

その生物の名くらいは示して、

見物者に一定の情報を伝えたい。

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昔、あるイラストレーターのダイバーが

「ダイバーはバカばっかり」とほざいて

私の全面的反論を誘ったことがあるが、

あれから約半世紀、

ひょっとしたら、

あのイラストレーターの言は

まんざら的外れではなかったかもしれないと、

こちらをグラつかせるほどのおバカぶりである。

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この責任はどこにあるのか。

それはコンテストの主催者である。

写真が傑作でも、

ネーミングの悪い者は落選とする、ということは

実際にはしにくい。

だから、事前に「ネーミングのあり方」を

教育しておく必要がある。

たとえば、

*タイトルには被写体の生物名を入れること。(種名でもよい

*ネイチャーフォトであることを自覚する。

*生物を無意味に擬人化しないこと。

 (×「こっちへ来ないで」×「どちらさんですか」)

*海を宇宙に置き換えないこと
(×「満天の星空」×「赤い惑星」)

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かつて、このようなことを

ダイビング雑誌に寄稿して説いたことがあった。

いまは、そういう人がいないのか、

水中写真の発表に関する基礎知識およびマナーに関しては

野放し状態であるようだ。

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ある写真展で、

唯一安心できたのは、

正真正銘のプロカメラマン、

大方洋二氏の作品とネーミング。

「ニシキハギの縄張り争い」

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ここには魚名があり、行動の説明がある。

多くのインチキ・ネーミングでは、

魚が向き合っていると

判で押したように「お見合い」「見つめ合い」とやる。

が、自然界はもう少し厳しい。

お見合いどころか威嚇や対立、

ときには捕食である。

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不勉強な者や思慮の浅い者に

ネーミングの機会や文学性を与えると、

「〇チガイに刃物」くらいに危ない。

自然界の真実を誤って伝える、という点において。

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次に、

「水中映像祭」は36年前に

私と数人の有志とで始めた水中写真のサークルが

毎年1回開くイベントである。

私は第20回までかかわってきたが、

以降も有志各位の尽力で続けられている。

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作品は私の時代とは

比べものにならないくらい進歩しているが、

なんとも入場者が少ない。

500人入るホールにおよそ40人。

12時間のイベントを

昼の部と午後の部とに分けたことが一因としても、

空席があり過ぎて寒々しい。

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ここまで入場者が減ってきたら、

会場をもっと小さいところに変えるべきだが、

それ以前に、

なぜこれほどまでに入場者が減ったのかが問題。

参加者激減の理由は、当事者に直接伝えるとして、

ここでは別の大きな問題について書いておこう。

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万物は経年変化が避けられない。

建造物なら、陽光や風雨による劣化、

組織なら、コンセプトのあいまい化、

リーダーシップの低下、

モチベーションの低下などなど。

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栄養補給は、

組織にも思想にも必要で、

それを怠ると萎えてしまう。

司馬遼太郎は、

「小説はフィクションに分類されるが、

思想もフィクションですよ」と言った。


「マリンスポーツ」としてのダイビングは

フィクションであった。

ダイビングに「スポーツ」性を感じず、

そのカテゴライズに大橋は強く反対した。


いまはレクリエーションダイビング、

または海と島への旅、

またはフィッシュウォッチング、

そして水中撮影の被写体探しなどが

中心となった。

が、私が提案して創刊した『海と島の旅』も、

『マリンフォト』も、

いまは廃刊になった。

栄養を与えられない思想は、

けっきょく「フィクション」として消える。

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陸の世界で言えば、

先祖を慈しむ思想、

国を愛するメンタリティーはどうか、

そしてそして、

食育やスローフード、

あるいはコーチングや行動療法はどうか。

だれかが栄養補給をしているのだろうか。

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もちろん、「食コーチング」とて例外ではない。

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ダイバーのあり方について

私に多くのヒントをくださった工藤昌男さんに

『海からの発想』という著書があるが、

この桜の季節に、

海のイベントに参加したことによって、

いろいろの発想法をいただくことになった。

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# by rocky-road | 2019-04-08 19:52 | 大橋禄郎  

メディア・リテラシーの磨き方。

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大人のための文章教室「ロッコム文章・編集塾」は

2003年に開講し、今年で16年目になる。
当初は、岡山県や三重県、千葉県などから

通ってくれる人もいたが、

1回のペースで東京まで通うのはご苦労が多い、

と思われたので、

2008年に、

年に4回、1日かけて集中講義を行なう

「遠距離クラス」を、

おもに横浜で会場を見つけてもらって開講した。

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講義内容は、毎月クラスと同じだが、

毎月クラスと遠距離クラスとの

両方を受講する人もいて、

そういう人によると、

メンバーが異なると、

強弱のポイントに差が出て、

雰囲気はだいぶ違うと言う。

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遠距離クラスには

「近況報告」のコーナーを設けて、

各地の話題を提供していただいている。

このコーナーは毎月クラスにはない。

近況報告も

表現力強化の演習の一環として重要だから、

毎月クラスでも行ないたいが、

2時間授業の中では時間的にキツイ。

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近況報告では、

職場の話、講演会に参加した感想、

ご自分が運営する料理教室の現状、

雪が凍ってアイスパーンになっている道を

何回か転んでやってきたなど、

鮮度の高いローカルな話には惹きつけられる。

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当初は、1人で10分以上かけて報告をする人もいたが、

「あえて何分以内」と注文はつけず、

「これくらいの人数のときは、

1人がどれくらい話せばよいか、自分で判断して」

として、時間配分を各自に任せたら、

それぞれテーマを絞って

コンパクトにまとめられるようになった。

その前進ぶりは見事。

要領のよい報告スキルは、一生の財産になるだろう。

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遠距離クラス、毎月クラスとも、

このところは、

以下の宿題に、みなさん苦労している。

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 【出題】

 最近の新聞記事、テレビ・ラジオ番組の中から

 1つをとりあげ、(情報のまとめ方などについて)論じてください。

 10行で内容の概略、残りの20行で論評を

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この宿題の前段階として、

「メディア・リテラシーのセンスアップ」

という講義を行なった。

「リテラシー」については、

『ウィキペディア』で次のように定義している。

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 (英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、

 転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)

 適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」

 という意味に使われるようになり、

 日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。

 ちなみに、古典的には「書き言葉を正しく読んだり

 書いたりできる能力」と言う限定的に用いられる時代もあった。

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そして「メディア・リテラシー」については、

大橋はこう定義した。

 「(おもに)テレビ、新聞、雑誌など、

 マスメディアによってもたらされる情報を正確に理解する能力。

 『正確』とは、個々の情報の理解力にとどまらず、

 情報提供者の意図、個々の情報の因果関係、

 その情報の影響、時代性などを含む。

 あえてデジタル情報は、ここでは除外する。(大橋)

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講義では、メディアを通じて伝えられる情報は、

無限にある「真実」のごく一部であり、

厳密に言えば、

「真実」は、

11人の認識以外のところにはない。

したがって、

メディアで「真実」を伝えることは最初から不可能。

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かと思えば、意図的にある情報を

伝えないことをもって

情報発信者の意図を示す報道姿勢もある……

という話もした。

自分たちが好まない情報は、

ほかのメディアが報じても、

自分のところでは無視する、

などということは普通にある。

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こういう講義に沿った宿題だから、

論評はメディアの情報提供の仕方について

問うものであった。

が、課題では、

前述の( )内の「情報のまとめ方などについて」

を入れておかなかったので、

メディアの情報提供についての論評ではなく、

中身そのもの(記事に登場する論者の意見や

施策の是非など)に入り込んでしまい、

情報提供のあり方について論ずるものは、

1割にも達しなかった。

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最初のクラスの反応を見て、

あくまでも「情報の提供の仕方」

についての論評であることを補足したが、

2回目も惨敗だった。

出題内容がうまく伝わらなかった責任を感ずるが、

メディアのあり方について論ずるという

経験も情報もほとんどない、

というのが、

現在の日本の状況であることを

認めざるを得なかった。

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つまりは、

テレビ、ラジオの視聴者、

新聞、雑誌の読者の大半は、

内容について楽しんだり、

うんざりしたりはするものの、

制作者または編集者の思想、センス、

姿勢などに視線を向ける習慣がなく、

寛容に受け入れる傾向がある。

われわれは、そういう風土の住人ということだ。

とは言え、

メディアのあり方を論ずる雑誌は少なからずあるし、

新聞でも、月々の雑誌の論調を紹介する記事はある。

しかし、

それを読むのは「専門家」と思われがちなのだろう。

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メディアの利点・弱点を見抜く能力の強化は、

メディアにミスリードされないため、

または、

自己防衛のためというばかりではなく、

けっきょくは、

自分の立ち位置、

これから向かう道への選択眼を磨くことに有利。

メディア・リテラシーは、

つまるところ、

自分の人生の方向を読み解く能力にもなる。

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現在、宿題の再提出待ちのタイミングだが、

あえて、

テレビ番組を論ずる一例として、

NHKテレビの「鶴瓶の家族に乾杯」

という番組について、

ゆる~く論評してみよう。

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 【番組の概略】

 1995年から始まった、笑福亭鶴瓶主演の

 「ぶっつけ本番」番組。

 おもに芸能人がゲスト出演し、

 そのゲストが望む地域を訪ね、

 鶴瓶とゲストが最初は一緒に、

 途中から分かれて、

 それぞれが出会った家族と語り合う。


 【論評】(肯定的に論ずる例)

 芸人鶴瓶による、出会った人への話しかけ、問いかけ、

 インタビューは、プロのアナウンサーや記者でも

 かなわないほどの超一級。

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 テレビでは、事前に準備しておいて、

 いかにも「ぶっつけ本番」に見せる細工が大半だが、

 この番組では、ときに収録を断られる場面、

 放送には不適切な発言、

 訪問を受けた人たちの狼狽、 

 ガラスなどに反射する取材風景などを

 あえて写すことなどから推測して、

 「やらせ度」は比較的低いと見る。

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 とは言え、ゲスト出演の芸能人に

 インタビュー力を求めるのはムリで、

 2人が現地で別々の行動をとるとき、

 ゲストのほうの言動にじれったさを感じる。

 制作者は、それもたぶん読み込み済みで、

 鶴瓶の老練ぶりと、芸能人のドギマギぶりの対比で

 むしろ視聴者を引きつけるのかもしれない。 

などとするのかな?

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ともあれ、

大人の文章教室は、

句読点の打ち方や

敬語の正しい使い方などのところで

足踏みしているわけにはいかない。

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「人は文章で考える」であり、

「編集は豊かな人生のプログラムづくり」である。

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# by rocky-road | 2019-03-31 22:40 | 大橋禄郎 文章教室  

「健康」が見えてきた、かな?

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コミュニケーション研究会 ひろしま≫開催のセミナー、

.「食コーチング」提唱から16年。

  いま想うこと

  (講師 影山なお子さん)

  20193月9日() 終日

2.記号としてのモノ、衣服、スタイル

  --その意味と活用--

  (講師 大橋禄郎

  同年3月10() 終日

  (ともに広島県三原市 市民福祉会館)

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この2つのセミナーが終わった。
ここでは、2日目のセミナーについて

少し補足しておこう。

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この世に存在するものすべてに記号性がある、

という講義をした。

地球に人間がいなくても、

動・植物はもちろん、鉱物も、

昔っから記号性を持って存在している。

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それは大宇宙のデザインにほかならない。

植物は、色や形、香りや発光性などを

記号として使って動物を惹きつけ、

地球上に分布している。

チョー後発の人類は、

こうした豊かなデザインに囲まれれることによって、

知性や感性を発達させてきた。

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モノがそこにある、ということは

「記号性を持つ」ということと同義である。

空気もアミノ酸も、

裸眼では見えないが、

それでも人間は「ある」ことに気づいて、

それを記号化し、共有物とした。

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衣服は、記号そのものである。

人類の一部は、

いまもって裸体をさらして生活をしているが、

それでも、鼻や首、手首や足首にリングを巻いて

なにかをアピールしている。

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衣服の第一目的は、

かならずしも身体を外界から守ることではなく、

時と場合によっては、

記号による情報発信こそがおもな目的となる、

ということか。

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健康支援者が

なぜ記号について学ぶ必要があるのか。

それは、「健康」という、目には見えない、

いやもともと実体のないものを

扱うことで商売をする仕事人だからである。

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健康も病気も、

元気も強気も弱気も、

指さすことができない現象である。

それらが見えるのは、

それぞれを記号化して、

つまりコトバに置き換えて認識するからである。

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健康支援とは、

見えないものをコトバにしてゆく作業である。

生きがい、希望、健康、協調、寛容、友好……。

それらのコトバを多く持っている者、

適切に使うことができる者には、

好ましい健康支援を行なう可能性がある。

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その一方で、

あえて言語記号にしないままに、

健康情報を発信して効果をあげる時と場合もある。

それが表情であり、微笑であり、

姿勢であり、歩き方であり、仕草であり、衣服である。

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今回、強調したのは、

自分が発信する記号情報の発信先は、

他者とは限らず、自分自身でもある、ということ。

「自分とのコミュニケーション」は、

記号をたくさん作り出した人間ともなると、

その頻度はハンパない。

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「あしたは5時に起きよう」

「あの渋い顔、この会議を低調にしているようだ」

「母に、あそこまで言うべきではなかったかも」

などなどの自問自答は、

自分とのコミュニケーションそのもの。

脳内にプログラムを生み出すこと(アウトプット)にほかならない。

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無表情、地味過ぎる衣服で

人に健康の大切さを説く者は

自分とのコミュニケーションが不完全である。

「地味過ぎる」とは、

たとえば、灰色、茶、カーキ色、

あるいは迷彩色系などのアウターを着ること。

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聞けば、「カーキ」とは、

ヒンディー語で「土ぼこり」のことだというではないか。

別名「枯草色」、

戦時経験者に言わせると「国防色」、

当時の定義では「帯青茶褐色」だとか。

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ついでに言えば、日本語には

灰色、茶色、カーキ色などの固有の語はない。

赤や白、黒のように、独自の名称は持たず、

「灰」や「茶」(お茶)、「土ぼこり」などの名を借りた、

仮の名である。

これって、幸いなことかも。

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いずれにしろ、

21世紀の先進国で、

こんな色を身につけることは、

ほこりっぽい、冴えないライフスタイルを

自分に刷り込むことにほかならない。

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≪コミュニケーション研究会 ひろしま≫の

次回の講義は今年7月21日である。

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このとき、

彼女たちの衣服記号がグレードアップしていなかったら、

今回の講義は失敗ということになるだろう。

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# by rocky-road | 2019-03-22 23:19 | 大橋禄郎 文章教室  

海底ハウス、あの日、あのとき。

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昔、西伊豆の三津浜(みとはま)の沖にあった

海底ハウスの廃墟(残骸)が、

同地の水深18メートルの海底で見つかったと、

「朝日新聞」のデジタル版が報じていると、

マナティーズの山崎由紀子さん(以下、山ちゃん)

から連絡を受けた。(いまも見られる)

海底ハウスは、水深9メートのところにあった家。

1974年にオープンし、2年後の76年にクローズした。

クローズのおもな理由は、

そこを訪れた人が、家から水面に戻るとき、

フリーアセント(肺の中の、圧力のかかった空気を

排気しながら浮上すること)を怠り、

死亡したため。

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そういうことがないように、

われわれはプールで練習をしてから出かけた。

40年以上前のことなので、

そこを訪問した人は少なくなっている。

そこで、このハウスのことを語り合う会を開きたい、と

山ちゃんが提案した。

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3月7日、東京都千代田区永田町にある

≪永田町オーシャン≫という、

ダイバーが経営するレストランに出かけた。

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山ちゃんから連絡を受けたので、

昔のログブックを探したら、

すぐにそのページが出てきた。

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1回目は1975(昭和50)222日~23日。

2回目は1976(昭和51)43(閉鎖の年)

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3回目は閉鎖後の1979(昭和54)
このときは、すでに送気が止まり、

水没した状態のハウスを、

設計者の田中和栄(かずひで)さんと一緒に

外から眺めた。
田中さん(のちに故人となった)は、

「こんな姿は見せたくない」と言って

私たちを案内してくれた。

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海底ハウスには縁の下から入る。

素潜りで行って玄関(縁の下)から入り、

「海底の水面」に顔を出す。

そこは地上と同じ空間である。

ウエットスーツを脱いで、

カプセルで運んでおいた服に着替える。

暖房もあるので、2月の海底でもそれほど寒くはない。

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ハウスでは、コーヒーも飲めるし、

カレーライスをいただくこともできた。

ログブックには、

東京のだれだれに電話した、と記録してある。

窓の外には、まだ中に入って来ない仲間や、

スクーバダイバーが見える。

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トランプもオセロゲームもあって、

そこで楽しむこともできた。

今見ると、

1人の女性に想いを寄せていた男が、

ドサクサまぎれに、

彼女の肩に手をかけているではないか。

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この写真は、2回目のときのもので、

1回目に撮った動画(当時は8ミリフィルム)

映写機ともども海底ハウスに持ち込み、

海の中にスクリーンを立て、

窓越しに映写したのである。

世界で最初で最後の海底映写会ではなかろうか。

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1976
年の何月だったか、

新聞社から電話が入り、

海底ハウスが閉鎖されたことを聞いた。

それについてのコメントを求める電話だった。

その新聞が見つからないが、

「世界的に貴重な海底居住の家がなくなるのは残念」

というようなことを言った。

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さて、永田町のパーティでは、

そのとき撮った8ミリフィルムを

DVDにコピーしたものを映写した。

参加者の1人から、

「こういう映像はユーチューブに

投稿してはいかがですかね」と言われた。

確かに「海底に家を作ろう」と考えた人、

それを実現した人がいたこと、

そういう夢に満ちた時代であったことを

人々に知っておいてもらうことは意味があるだろう。

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# by rocky-road | 2019-03-12 23:31 | 海底ハウス  

「お笑い系作家」の孤独ジョーク。

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作家にも「お笑い系」というタイプがあって、

大いに笑わせてくれる。

ちなみに「お笑い系作家」は、

ユーモア小説の作家とは違う。

ユーモア作家は

静かな語り口ながら

読者をにゃりと笑わせようと、

こちらの反応を読んで仕かけてくる。

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クァレスキの『ドン・カミロの小さな世界』や

ジェロ―ム・K・ジェロームの『ボートの三人男』

北 杜夫の『ドクトル・マンボウ航海記』

山口 瞳の『江分利満氏の優雅な生活』

畑 正憲の『われら動物みな兄弟』

などには、

かつて大いに笑わせてもらった。

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「ドクトル・マンボウ」にはこんな一文がある。

(以下、記憶による大意)

「目には眼力というものがあるから、

じっと見ていると、その部分になんらかの変化が生じる。

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そのため、フランスのルーブル美術館には、

眼力によって名画から剥離する絵の具の粉を

チリ取りで掃き取る専門の係員がいる。

とくに剥離が多いのは裸体画の床である」と。

では、お笑い系作家とはどういうタイプか。

最近では、「孤独」を人にすすめて儲けている作家。

そのご仁が、新聞社が主催する講演会に登場するという。

いわく「孤独を楽しむ極意を語る」

先着500人、受講料1,800円也。

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大真面目に、やや憂いを含んで

孤独を売りまくっている現実に、

思わず笑いがこみあげてくる。

孤独を人にすすめる人が、

500人もの人を集めてはいけないし、

そんな話を聞くために

孤独好きの人は、そんなところへ出かけてはいけない。

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この作家、雑誌やラジオなどでも

しきりに孤独をすすめている。

「〝孤独〟と〝孤立〟は違います」と言う。

では、『広辞苑』はどう定義しているか。

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「孤独=①みなし子と老いて子なき者。(太平記)

 ②仲間のないこと。ひとりぽっち。」

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「孤立=他とかけはなれてそれだけであること。

 ただひとりで助けのないこと。」

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どこが違う? 同じようなものではないか。

さらに言う。

「孤独は、人と交わらないことではない。

でも、人と会うとき、

この人たちとは自分がどう違うのか、

それを確認するとよい」(大意)と。

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なんていやな奴だろう。

仲間というのは心を開いて打ち解けるから

仲間意識が生まれるもの。

人を見て、自分の特徴を確認するような奴と

親しくなろう、などと思う者はいない。

したがって、

そんな奴は、確かに孤立して、孤独になる。

そういうのを「極意」というのか。

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それにしても、

作家とは思えないほど、

コトバの使い方や解釈がラフである。

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この作家、超多忙で、その理由を

近著『作家のおしごと』という本で公開している。

小説、作詞、講演会、対談、インタビュー、

連載、推薦文、解説、紀行文、ロシア文学。

とても孤独を楽しんでいる余裕などない。

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念のために言うが、

1人でするデスクワークは孤独とは言わない。

読書をする状態を孤独とは言わない。

1人暮らしをしていても、

数百万のファンを持つ作家を孤独とは言わない。

1人旅も、1人での入浴も、

それだけでは孤独とは言わない。

この作家、なんでもこなすので、

孤独の経験など、ほとんどないはずである。

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心配なのは、

そういう「思いつき孤独」「ご商売孤独」によって

ミスリードされる人がふえる可能性。

件の講演会に集まる人は、

孤独でないような気がする。

「知的孤独」(思考の対象とする)

「孤独ぶり愛好家」と言うべき人が

過半数を占めるのではないか。

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ヘルスプロモーション(健康促進行動)の観点から言えば

孤独のすすめは、喫煙のすすめ、深酒のすすめ、

塩分多量摂取のすすめ、肥満のすすめ、

粗食のすすめなどと同じくらい、

反健康的、反社会的な誘導である。

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各地域で、

健康寿命を延ばすために、

または認知症の発症を遅らせるために、

地域の人たちに

人と交流させたり、

頭を使わせたり、

運動量を増やしたり、

動物と過ごさせたりしている現状を

この作家は考えたことがあるだろうか。

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しかし、このご仁は、

今後、ますます調子づいて

「孤独をすすめ」を拡散させるだろう。

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こうした事例から学ぶべきは、

人は齢をとれば分別がつく、

見えないものが見えてくる、

などということはない、という事実である。

この作家、80歳代半ばという。

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なのに、自他の区別がつかない。

毎日、執筆や講演の依頼があり、

生きている間には使いきれないほどの収入があり、

さすがに、「作家のおしごと」に

少々うんざりしている自分と、

身寄りがなく、天涯孤独の人や、

気質的に人と交われない人との区別がつかない。

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これは高齢による認知機能の低下などではなく、

どんなに見当違いの思いつきであっても

そこそこ商売になることを

50余年の作家業によって刷り込んできた、

特異なキャラクターの思い上がり以外の何物でもない。

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講演会の当日、

別の集まりがあって、会場に行けないのが残念。

いや、講演を聞く気などまったくない。

そうではなくて、

入場者を観察したい。

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性別、年代、

連れ立ってくる人、

1人で来る人の割合、

表情などを観察したい。

主催者にお願いしたいのは、

入場者の「孤独度」「ライフスタイル」などを

推測できるアンケートの実施である。

いやいや、

ひょっとしたら、

そういう情報集めのための企画なのかもしれない。



# by rocky-road | 2019-03-02 23:37  

大きな声で、ゆったりと。

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2013年1月27日に始まった

パルマローザ主催の「輪読会」(りんどくかい)は、

この回(2019年2月17)で14回を数えるに至った。

輪読は、大学などでは、

少数のゼミなどで行なうことがあるし、

自主グループが、それぞれの本を持ち寄って、

読み合うこともある。

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「輪読」とは、

1人ずつ、リレー式に数ページを読むこと。

「輪」は、「回る」「回す」という意味。

そのメリットは、「一所懸命」に集中できること、

いま読んでいるところを「見失ってはならじ」と、

懸命に目で追うことになる。

指導者または参加者のコメントや問いかけによって、

行間や背景まで読み込むことができること、など。

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今回のテーマは「食文化の前後左右」。

食文化関係の本を読むのはこれで3回目。

1回目は「食文化に視点を持つ。」(201610)

2回目は「日本人の食文化史を振り返る。」(20178)

そして今回。

この回では初めて海外の食文化の記述を読んだ。

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「手食をめぐる作法」は、

『アジアの食文化』という本の一部で、

スリランカの人たちが

手で粥やおかずを食べる様子を細かく記述している。

民族学や民俗学、文化人類学、動物行動学などなどでは

「フィールドワーク」(学術的な現地密着調査)

基本中の基本と位置づけ、

現地の人(ときには動物)と生活を共にして

長期間、観察記録をする。

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今回、テキストに選んだのは、

上記のスリランカ人の手食文化、

もう1冊はタイの北西部に居住する

「首長族」(通称「カレンニー」)

かれらは、ミャンマーでの紛争を避けて

長期的な「難民」となってそこで暮らしている。

そんな不安定な地域にも、

「フィールドワーカー」は入り込んでいる。

ちなみに「首長族」とは、

首に金属のリングを幾重にも巻きつけるので、

首のつけ根や肩が沈み、首が長く見えるから、とか。

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日本の食文化に関するテキストは、

「幕末京都町人のくらしと食」

呉服屋である水口屋の主が

2代にわたって38年間、日記を書き続けた。

この日記から食関係の記録に注目した

島崎とみ子氏の論文である。

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もう1冊は、社会学の世界から

「外食産業」の歴史を

各種の資料からたどったレポート

(加島 卓氏執筆)

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そして、

健康支援者や栄養士が

日常的に視野に入る『フードファディズム』

(食と健康との関係を過大に結びつける考え方)

著者の高橋久仁子氏は、

日本で最初にこの概念を紹介した人。

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高橋氏がそこまでのいきさつを述べた

冒頭部分を輪読した。

それによると、

1991年に『Nutritionand Behavior』という本に出会い、

それを和訳して『栄養と行動 新たななる展望』

というタイトルで出版した。

これが「フードファディズム」という概念が

日本に広まるきっかけになったという。

behavior」は態度、習性、生態などの意味。

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原著のタイトルも、訳本のタイトルも

けっして見事とは言えないが、

それでも内容がよかったのと、

高橋氏が粘り強く発言したことによって

日本で知られるようになった。

(とはいっても、まだまだ知る人は少ない)

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原著者の名は示されていないが、

1章 序章の書き出しの部分なかなかシビれる

(高橋氏訳)

「ネアンデルタールの狩人と

20世紀のアメリカ人のように

異なる集団にあっても、

人々は自分達が食べる食物は行動に強力な影響を与えると、

一貫して信じている」

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フードファディズムの本質が

軽妙なフレーズでバシッと示されている。

こういうフレーズがさらりと出てくるところが

アメリカ人(? または欧米人)って、すごい。

こんなタッチで序文を書いてみたい。

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ところで、

輪読会のよいところとして、

前述のように、

多様な種類の書物に出会える、

深読みができるなど、メリットが大きいが、

忘れてならないのは、

音読による一体感や

音読を聞く者にとっての癒やし効果。

スラスラと読むことが

「うまい読み方」ではない。

内容に沿った、

耳に入りやすい速さで、

穏やかに、温かく、わかりやすく……。

音読力は、本人および人類の健康度をあげるはず。

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お経も、音読することで、ありがたさが増し、

その意味もわかりやすくなる。

次回には、

音読理論をまとめて、

前置きに講話でもしようか、と思う。

「けっして判決文や差し押さえの通告書のように

冷たく読んではいけません」

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すべての小中学校の先生に申しあけます。

「けっして、スラスラ読んだ子を

ほめすぎないようにしてください。

つっかい、つっかいでも、

味わいのある読み方をする子をほめてください」と。

次回は、小学生のように、

または法事ののときのように

全員で音読するのもいいかもしれない。

困るのは、会場を選ばないと、

近隣からクレームが出る可能性。

いずれにしても、

輪読文化は

もっと大事に持続したければならない読書法である。

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# by rocky-road | 2019-02-24 00:08