水族館はお好きですか。

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ロッコム文章・編集塾/能登教室の終了後、
能登島水族館を案内していただいた。

まったくの偏見だが、
日本海側の水族館にジンベイザメがいるとは思わなかった。
別に、ジンベイザメが特段好きというのではなく、
ジンベイザメのいる広い水槽が好きなのである。
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昔、日本海側のある県の水族館に行ったものの、
淡水魚の割合が多く、
なんとも陰気で幻滅したことがある。
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時代は変わって、どこの水族館でも
広い水槽に暖流系の魚の群れを泳がせるようになった。
そういう点では、どこも似てはきている。

能登島の水族館を見ていて、
ふと、以前行ったカリフォルニアにある
モントレー水族館に似ているような気がした。
地元の人によると、
提携しているようなところもあるらしい。
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ウイークデーでもあったのか、
大水槽の前に立っても、
ほかの見物人がカメラのフレーム内に入ってこない、
というのも大きな魅力だと、
つくづく思った。
中の魚よりも人の頭のほうが多いくらい
というところばかりを見てきたからだろう。

能登島では、
水槽内の底をダイバーが清掃していた。
混んでいてはそういうことはできないだろう。
サメなどの急襲を防ぐために、
人間がケージに入って作業を進めていた。
人間がそこにいることが、
私にはうれしかった。
めったに撮れない写真が撮れた。
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ここでも、
イルカのショーをやっていたが、
トレーナーの解説が
まったくのお子ちゃま向きなのは、
国内共通のように思えた。
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甲高い声で、
「さあ、あそこを飛び越えられるかなぁ~」
とやっている限り、
子どもたちは、ショーは楽しむにしても、
水生動物への関心を深めることないだろう。
そして、小学高学年になるころには、
子ども扱いする大人を敬遠するようになり、
結果として、ショーを子ども向きと
認識するようになるだろう。
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ナレーションの文章の見直しをすすめたい。
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カナダのバンクーバー水族館では、
解説タイムを「セッション」と呼び、
シャチのいるプールの水温や、
彼らが食べる食料の種類や量について
静かな声で説明していた。
社会が、大人を育てようとしているように感じた。
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いま、
モントレーの水族館の写真を探したが、
ラッコなどのショットがないので、
慌て始めた。
フィルムをデジタル化していないのだろうが、
さて、そのフィルムはどこにあるのか。
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いくつかの水族館、
そしてホテルの水槽などで撮った写真を
ランダムに掲げておこう。
撮影地は、能登島、沖縄、葛西(東京)、九州、
ハワイ、バンクーバー島、
そして、お台場、旧日航ホテルなど。
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# by rocky-road | 2016-03-30 00:00  

もう、タラの芽の天ぷら、食べましたか。

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ロッコム文章・編集塾、能登教室の9回目が終わった。
2014年4月から、
3か月に1回のペースで満2年になった。
受講者も20余人程度で安定、
運営もスムースになった。
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この教室では、
司会をいろいろの人に体験させて、
そのワザを磨き合っている。
最初は原稿棒読みの司会ぶりも、
いまでは季節の話題から始まり、
前回の講義の振り返りをするなど、
柔らかく参加者の気持ちを高めてゆく。
なかなかの準備性である。
季節の話題は、こんなふうに。
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 「3月と言いますと、
 私の家は農家でございまして、
 農業の始まりの月でもあります。
 私が能登に嫁いで来ましたときは、
 まだ五右衛門風呂で、
 マキでお風呂を沸かしていました。
 このお風呂には、
 人間以外のモノも入ります。
 モミを品種ごとにネットに入れて、
 五右衛門風呂の湯壺に水を張って
 そこに浸す、そこから農作業が始まるのです」

 「持っている知識に
 新しい情報を取り入れ形として行く、
 3月は、そういう始まりの月だと感じています」

農作業と、今年の勉強の始まり。
苦心の作というべきか。
ローカルの味もよく出ている。
司会は本谷(ほんや)佳美さん。
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今回の授業メニューは、
1.宿題発表(前回の受講の感想)
2.非言語記号のリテラシー。
3.文章を音読することの意味。

「非言語記号のリテラシー」は、
ふだん、見聞するテーマとは異なるので、
やや理解に戸惑っている感じがした。
少し補っておこう。
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人間にしろ、動物にしろ、
人生は「いつか来た道」を行くのではなく、
1歩1歩が本人にとっては初めての道である。
その道を五感を使って、安全に、
かつ効率的に進んでゆく。
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かすかに吹く風に春の到来を感ずる、
路傍のタラの芽に目をやる。
採って夕食の一品にしようか。
そういう環境認知は、
まずは動物的な感覚によって行ない、
そして言語的なプログラムにしてゆく。
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感じたものを言語記号に置き換えてゆく。
それは人間の知的作業である。
読書も知的活動だが、
言語化されていないもの、
いや、目には見えないものを感じるプロセスも
知的作業である。
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路傍に頭を出しているタラの芽は、
明らかに視覚に入る対象物だが、
見ても見えない人もいる。
見える、見えないは、
その人、そのときによって決まる。
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見えた人が「あ、タラの芽だ」と
感じた範囲では、
タラの芽を「認知」したまでだが、
さらに、それを採って夕食の一品にしよう、
「そういえば、家族の好きな料理だ」と
考え始めるあたりから、
「非言語的対象」を
「読み解く」(リテラシー)ことになる。
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なぜタラの芽が「非言語」なのか。
「『タラの芽』という名がちゃんとついているではないか」
でも、その名を表示して頭を出しているわけではない。
見ても、それがなんだかわからない人も多い。
自然界の万物は名札をつけて存在なんかしていない。
それらを知覚すること、
それを「非言語記号を読み解く」という。
厳密にいうと、タラの芽が「記号」となるのは、
それに着目し、認識し、
自分および人とのコミュニケーションのメディア
として使う段階からである。
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地下にあるカウンセリングルームに、
予定どおりクライアントが訪ねてくる。
「ここがわかりましたか」と問いかける。
患者さんが、病院の玄関から、
カウンセリングルームに来るまでの行動は、
患者さん本人にも、とくに認識されてはいない。
が、「ここがわかりましたか」という一言で、
カウンセラーと患者さんの共通話題になる。
これが言語化であり、
患者さんがカウンセリングルームに
たどり着くまでの道のりが「記号」となる。
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講義で
「世の中には、コトバがついているものよりも、
コトバがついていないもののほうが、はるかに多く、
その数は無限である」と
何度でもいうのは、このことである。
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 「2016年3月21日、
 石川県能登にある、
 介護老人福祉施設『千寿苑』に集まった、
 ロッコム文章・編集塾/能登教室の受講者
 20数人の人たち」
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というコトバ(フレーズ、表現)は、
いま、ここで表記する以前には存在しなかった。
「草食系男子」も「肉食系女子」というコトバも、
「ベルギー同時テロ」というコトバも、
10年前、あるいは1週間前には
この世には存在しなかった。

それらを予測することが
「非言語記号のリテラシー」ではない。
相手を思いやるコトバ、
「雨にぬれなかったですか」
「体重が減って、スリムになったこと、
どなたかに指摘されたりしました?」
「桜前線は、例年より北上がスローペースになるかも」
など、いろいろの事物、
いろいろの現象を読み解くこと(理解すること)、
そういう能力のことをいう。
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それがなぜ必要なのか。
それは、自分の世界を広げること、
自分の世界を活性化すること、
コミュニケーション環境を豊かにすること、
さらにいえば、
人生を刺激的にすることの
ベースになるからである。

作詞家・阿久 悠さんは詠んだ。

 「透明人間、あらわる あらわる」
  ……
 「嘘をいっては困ります
 あらわれないのが透明人間です」
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そこで言おう。
 「弱気になっては困ります。
 人間は、透明なものでも見えるのです。
 記号化能力があれば、
 見えないものが見えるのです。
 それが非言語記号のリテラシーです」

次回の能登教室は7月23、24日。
10回記念の企画中とか。
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終了後、能登島にある水族館を訪ねた。
自称、水族館評論家としては、
大いに楽しめるところだった。
ここに2頭のジンベイザメがいるなんて、
初耳だった。
能登は、奥が深いのか、
いいところの出し惜しみをする土地柄なのか。
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# by rocky-road | 2016-03-25 14:44  

リアリティのあるトレーニングを。

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読売新聞の人生案内は、
質問内容も、それへの回答内容も、
食事相談や健康相談を行なう健康支援者にとっても、
大いに参考になる。

 *太った妻をやせさせたいと思い続けて30年という夫、
 *高齢になって年賀状書きはもう限界という男性、
 *夫の死を願ってしまう50代の主婦、
 *人前で話すのが苦手という30代の女性社員
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などなど、当塾や各地でのセミナーでは、
しばしば宿題として取り上げ、受講者の回答を求めている。
「人前で話すのが苦手」については、
3月6日の、
コミュニケーション研究会 ひろしま≫の
セミナーで、みなさんに発表していただいた。
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第三者の質疑応答に対して、
あとから別の回答をするのは、
いわば「あと出しジャンケン」だから、
ずいぶん有利であるはずだが、
健康支援者は、概して
まばゆいばかりの純粋性を持っているので、
回答は、新聞紙上以上に美しくなりがち。
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「妻の肥満を気にする夫」に対しては、
「よく話し合って」「いっしょにウォーキングをしては?」
となりがちであり、
「人前で話すのが苦手の女性」に対しては、
「人前で話す機会をつくればよい」や
「親しい人と思って話せば緊張しない」であったり。
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30年も干渉し続けた夫の評論家的態度を
イメージしないから、
「いっしょにウォーキングをしたら」などと
能天気な回答になってしまう。
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アカの他人の前で話すのを苦手とする人に、
「親しい人と思え」というのはムリ。
思うだけで解決するのなら、
「自分は世界一の大金持ち」
「世界一の幸せ者」の1フレーズで、
地球上に争い事はなくなるだろう。
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ロッコム文章・編集塾の塾生に限らず、
日本人は「心得論」を好む傾向がある。
「こう考えればなんとかなる」と。

たとえば、天災。
「忘れたころにやってくるから」と、
メディアは記念日的にいっせいに放送をし、
忘れることを抑止する。
しかし、毎年、同じ日時に
注意を喚起しているうちに、
それが慢性化して、むしろ耐性ができてしまう。
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こんな場合、行動科学的に考えれば、
避難訓練以上の対策はない。
防波堤を作ったり、陸地を高くしたりと、
同じ場所に同じ津波が来る、という想定は、
発想自体にも問題がある。

各地に活断層が走っている日本のこと、
ハザードマップを作ることは不可欠だとしても、
それに基づいた避難訓練をしなければ、
非難想定地図も「情報の宝」の持ち腐れである。
訓練にしろトレーニングにしろ、
そこにはリーダーが不可欠。
しかし、リーダーは現実には不在。
そこで、メディアが疑似リーダー努めることになる。
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小学生低学年時代、
空から落ちてくるB29投下の焼夷弾(しょういだん)を
見つけ次第、火が本格的に噴き出す前に
「防火用水」(家々の外壁に沿って作った水槽)に
火の出る頭から漬ければ火は消せる、
という実習を校庭で受けた。
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以来、空襲があるたびに、
落下直後の焼夷弾と遭遇することを期待したものである。
トレーニングというのは、困ったもの。
焼夷弾の落下を嫌うのではなく、
「さあ来い」という反応が起こる。
小学2年生の、一種の条件反射である。
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行動科学は、
心得だけでは実際行動は導き出せないことを教えている。
人前で話すのが苦手なら、
ペットの前で10回、
動画収録用カメラの前で10回、
家族の前で20回、
友人の前で50回くらいの
トークトレーニングによって、
緊張感への耐性をつくっていくのが基本であり、
それを避けていては、
克服は時間がかかるばかりである。
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「忘れない」「語り継ぐ」と
100回コメントすることよりも、
1回のトレーニングのほうが実効性は高い。
しかし、リーダー不在の社会では、
災害経験地域以外では、
トレーニングの実施はまず期待できない。
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「机上のプラン好き」型の現在の日本では、
まずは、
片っ端から災害対策マニュアルを作ることから
始めるのも一法である。
ひょっとして、出版不況対策の1つにはなるだろう。
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寝たきりの人の避難訓練マニュアル、
子どもや年寄りの避難訓練マニュアル、
ペットや飼育動物の避難訓練マニュアル、
家族の避難訓練マニュアル、
幼稚園児・小学校生の避難訓練マニュアル、
地域の違う恋人との避難後再会マニュアルなど。
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ロッコム文章・編集塾は、
キャリア不足のため、
ここには参入できず、
論理的思考とコミュニケーションスキルアップへの
ささやかな貢献を続けるのが現状である。
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# by rocky-road | 2016-03-14 20:55  

はからずも、この道。

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工藤昌男さんの、
ダイビング界への貢献を確認し、
称える会を開いた。
題して「工藤昌男さんの『海からの発想』を語る会」
2016年3月5日、6時30分~8時30分
新宿区「ウイズ新宿」3階会議室。
タイトルは、工藤さんの著書の書名にちなんでいる。
発起人は、山崎由紀子さん(マナティーズ)と私。
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工藤さんは、1930年、東京生まれで、この3月で85歳。
戦後のレクリエーションダイビングの草分け世代のお1人。
アメリカの進駐軍から
直接習った日本人を第1グループとすると、
その人たちから、さらに習った日本人は第2グルーブといえる。
工藤さんは、
1950年代の前半にダイビングを始めたというから、
第1と第2グループの中間あたりに属するのかもしれない。
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しかし、工藤さんはダイバーとしてよりも、
ダイビングや海を科学的に解釈する論者として、
海洋雑誌やダイビング雑誌、
その他のイベントなどで活躍した。
それがダイビング関係のリーダーたちに、
刺激となった。
自分たちが後輩たちを
どの方向へ導いていくべきかを考えるときのヒントになった。
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もっとも、
工藤さんが著書の中で書いているように
「ダイバーは科学的発想は得意とはいえない」から、
多くのダイバーは、
海を科学するというような楽しみ方はしなかった。
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そうではあるが、
少なくとも私は、
工藤さんの発想には納得するところが多かった。
カメラマンが被写体を手作りして
「自然風」を装う「ヤラセ」議論がはやったとき、
工藤さんは「水中でストロボ撮影することだって
ヤラセといえばいえる」といった。
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確かに、ストロボ光は自然そのものではない。
「それを自然を撮った写真」といえるのか。
工藤さんは、ヤラセを肯定したわけでも
否定したわけでもない。
工藤さんにとって重要なのは、
発想の着眼点であり、ユーモアである。
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ビデオカメラが普及したころ、
「これからは動画の時代」
といった人がいたらしいが、
工藤さんは「人が見ているのは動いている世界。
それをそのまま撮ってもおもしろくはない。
止まっている瞬間は見られない。
それをキャッチするのがスチール写真だから、
その価値は少しも落ちるものではない」
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これらの発想は、
いまも私の写真論の下敷きになっている。
また、1975年に「水中8ミリフェスティバル」を
発足させたが、
このアイディアも、
工藤さんのアドバイスに大きく依っている。
このサークルは、8ミリフィルムの衰退に伴い、
発展的解消をし、
1983年には「水中映像サークル」へと移行した。
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時代は8ミリフィルムから、
ビデオ映像へと変わっていた。
スチール写真をどうするか迷っているとき、
アメリカでは「スライドショー」を楽しんでいる、
という話を工藤さんから聞き、
ビデオとスチール写真を楽しむサークルとした。
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当日の工藤さんからは、
1964年以前、私が出会う前のことも
お聞きしたかった。
その1つは、
かつて三木鶏郎の「冗談工房」に属する
放送作家時代(永六輔、野坂昭如氏らも仲間)の話。
あるいは、海洋博のときの
「くじら館」のプロデュースの話など。
1時間くらいはかけて聞きたかったが、
あの雄弁家/工藤昌男氏も
気力・体力は万全ではなかった。
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この会のコンセプトは、
個人の業績を確認し、
それを個々人の歴史の1ページにすること、
そして、できれば、のちの時代の人に
語り継ぐこと。
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近年、「語り継ぐ」は、流行語になっているが、
その場合、ほとんどが悲劇を対象としている。
日本人は人の業績を
肯定的に評価することが得意でない。
「伝記」という文学ジャンルが不活性なことからもわかる。
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それこそ人を「動画的」に見ているから、
ピシッと静止画像で見られない。
人の業績や人生を静止画像で見るには、
コトバが欠かせない。
コトバは目では見にくい「業績」というものを
ストップモーションで見ることを可能にするし、
保存することをも容易にする。
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それにしても、
これまでに、功績のある人と、
フェイドアウト的に別れることは幾度あったことか。
そういう別れ方は、
自分の能力の低さの証明ではないのか、
そう思うようになった。
こういう反省から、
工藤さんの功績をみなさんと共有したいと思った。

当日の工藤さんは、
「はからずも」をキーワードにして
スピーチをしたかったらしい。
「はからずも」とは「図らず」と書く。
「意図せずに」「たまたま」「偶然にも」
という意味。
つまり、気がつけばこの道を選んでいた、
ということだろう。
ギラギラしない、謙虚な表現。
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工藤さんらしいキーワードだが、
そういう人を
「なりゆき任せ」が嫌いで、
「図る」ことの好きな私が
引っ張り出したことにおもしろさを感じた。
それが人生における役割分担というものだろう。

この経験を、
みなさんも語り継いでくれることだろう。
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# by rocky-road | 2016-03-08 00:41  

ネッシーは、いると思いますか。

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2016年2月28日(日)開催の
パルマローザ主催、
第9回・輪読会では、
『食生活雑誌(栄養と料理)は、
どんな視野を持っていたか。』
というタイトルで
1979年1月号の『栄養と料理』のほか、
いくつかの記事をピックアップして読んだ。
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1.『栄養と料理』からのごあいさつ
2.考案者に聞く 四群点数法の心
3.カコミ記事 俵万智さんの紹介
4.一栄養学者の見た 日本人の食生活40年
5.ペットを太らせてしまう人の〝食感覚〟は?
6.結婚披露宴で若い2人に贈る ヘルシースピーチ
7.ネッシーの食生活 巨大生物が生き残る条件

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35年以上も前の月刊誌の記事を
いまになってみんなで読むのは、
けっしてノスタルジーや業績顕示のためではない。
「食生活雑誌」と位置づけた月刊誌が
どういう読者を想定し、
どういう話題を提供したか、
それを知っていただきたかった。
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その心は、
「食は食卓の上だけの世界ではない」である。
「食」を小さく小さくまとめると栄養素の話になる。
無限といえるほど多様で広大な食を、
数種の栄養素の話に持っていくのは、
楽といえば楽である。
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食を小さくまとめたがる人の発想は、
記憶型の、いわゆる「お勉強のできる」おバカに多い。
物知り顔でおバカを隠し、
微細な栄養素の話で優位性を保とうとする。

人は、食べるために生きるのか、
生きるために食べるのか、
そういう発想は不得手で、
自分が習った、ほんのわずかな知識に頼って、
「そんな食事ではたんぱく質が不足しますよ」
「かぼちゃはいいけれど、糖質に気をつけましょう」などと
ダメ出しをする。
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食生活雑誌が、
なぜネス湖に棲むという
「ネッシー」という恐竜の存在の有無を話題にしたのか。
それは、食を通じて生物学的思考法、
あるいは科学的思考法を
読者に提示したかったからである。
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1.1個体が、数億年も生きるはずがない。

2.子孫をリレーしながら生存するためには、
  ネス湖の広さは充分か。
  数百頭、数千頭の恐竜が生息する湖で
  20世紀まで、だれもその集団を見なかったのはなぜか。
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3.そもそも、それだけの大コロニーを生存させるだけの食糧は、
  ネス湖のどこにあったのか。
  魚なのかケルプなのか。
  そんなにいる魚を人間は食料とせず、
  黙視してネッシーに与えてきたのか。

そう考えると、ネッシーの存在はかなり怪しくなる。
しかし、「見た」という人はおり、
「写真に撮った」という人はいる。
そこからテーマは精神医学や写真光学へと移る。
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私が『栄養と料理』の編集長を任されたのは1978年4月、
それから、書籍編集の仕事を兼務しながら、
翌年の新年号に向けて準備を始めた。

ネッシーは、2年目に当たる
1980年の新年号に登場した。
ネッシーの存在を「食」の視点から科学する。
食を通して見る世界は広い。
微量成分に目を向けることを避けたわけではなく、
視線を右に左へと振った。
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それは、
遠回りをしているようで、
自分の食、人間の食、
そしてこれからの健康について考える
発想力の芽になるに違いない。
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2016年現在、
あいかわらず「栄養素士」は多い。
それが専門性だと思っている進歩のなさ。
それが仕事のすべてなら、
「栄養士」の人口はいまの10分の1程度でも
多すぎるくらいだろう。
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栄養士が、
ネッシーほどに、といわなくても、
200年、500年と生存し続けるには、
現在の日本の健康環境、食環境を直視し、
それを前提にして、
人々を刺激し続けなければならない。
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人々に、食を通して生きる楽しさ、
生きることの意味を実感してもらうには、
自身が食を楽しみ、
生きがいを広げていく必要がある。
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パワー不足、元気不足、笑顔不足、
コミュニケーション力不足の栄養士に
人の健康を増進するだけの能力があるとは思えない。
輪読会は、
ネッシーからパワーを得る意味があったと思う。
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もう1つの発見は、
1990年の『栄養と料理』4月号に
「結婚披露宴でのヘルシースピーチ」という記事が載っているが、
多くの識者が登場しているものの、
どれもがなんともつまらない内容であったこと。
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もっとも、
今日でも、健康支援者のスピーチは、
これらからあまり進歩しているとは思えない。
その意味では反面教師の意味はある。
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読書は、
やはりいつの時代も、
そしていくつになっても、
人生の地図であることに変わりはない。
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# by rocky-road | 2016-03-02 21:37  

ブログの文体論、なるか。

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最近、政治家や芸能人など、
著名な人のブログの一部が
ニュースの中に登場することがある。
それを読むと、
その日食べた食事の感想、
ある出来事に感じたことなど、
要するに「日記」の文体で書いてある。
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広辞苑に当たっても、
「ブログ」という熟語は
第5版以前には収載されておらず、
第6版に、こうある。
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 「(ウエブ・ログの略)ウエブサイトの一種
 個人や数人のグループで運営される日記形式のもので、
 情報提供や意見交換などの
 コミュニケーション機能が付加されている。」
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昔、ダイバー仲間のホームページに
ブログを書いてほしいと依頼され、
何回か書いたが、写真がほしい、と
そのつど言われて、ポジフィルムを
スキャンすることの面倒さもあって中断した。
決定的な理由は、別の仲間から、
「書き方が雑誌の連載的だ」と
指摘されたためだった。
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そこで初めて人のブログをのぞいたが、
文字どおり日常茶飯事の「日記」で、
そういうものを公開する人の勇気に顔が赤らんだ。
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「ブログ」の成立事情は知らないが、
超私的な日記を公開するのは、
自分の未熟さ、自分のアホさ加減、
自分の世界の小ささを一般公開することになるわけだから、
そうとうの勇気か、厚顔かが必要になる。

どこで、なにを食べた、
こんな店に行った、
○○国はケシカラン……、
なんていう内輪の話題を
社会に向けて言い放つなどは、
裸で街を歩くより恥ずかしい。
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出版にかかわった者の感覚からすると、
世間に発表する文章というものは、
その大半は「商品」であるから、
当然のこと、商品価値を問われることになる。
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この場合の商品価値とは、
水が流れるように落差がついていること、
読んだ人が「なるほど」「へぇ~」と感じる程度の
お得感を感じることを指す。
どんな店で何々を食った、うまかった、
と言う程度の話ではゼニはとれない。
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しかし、デジタル通信機器の普及は、
クシャミやゲップ、独り言などまでも
全世界にばらまくことを促すことになった。
そういうものを「言論の自由」などと
言ってもらっては困る。
ゴミは、指定の日に、指定の場所に、
きちんとまとめて捨てるのが公徳心というものである。
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もっとも、デジタル情報は焼却しなくても、
ハエがたかったりカラスに荒らされたりすることはなく、
人にはほとんど迷惑はかからないから、
いくら垂れ流しても「公害」にはならない。
人はそれらを読まなければいいだけで、
実害はない。

もしあるとすれば、
有能な才能を
中途半端なブログ書きに費やしてしまう場合だろうか。
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そこは社会的バランスシートの問題で、
一生、文章を発表する機会がありえない人が、
日記を書いて精神的安定を得ることのメリットと、
ブログなどに時間を浪費せず、
自分の得意を延ばすことのメリットと、
どちらが社会にとっての儲けになるか、である。

それは、前者、
つまり文章を書く機会のなかったはずの人に
書く喜びを与えるほうが、
メリットは大きい。
ブログ書きで自分の才能をすり減らしてしまう程度の者なら、
それで終わってしまったとしても、
社会にとっては大した損失にはならないだろう。
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それにしても、
社会の知的財産という観点からすれば、
ブログにも文体があり、
テーマがあり、起承転結があることは、
教える必要はあるだろう。

「人をワクワクさせるブログ文章論」
というようなテーマをアピールするには、
やはりインターネットではダメで、
出版の力を借りたくなる。
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なんて思うのは、
インターネット世界にとっては
よそ者の言なのかもしれない。
このブログにたどり着く人間の数と、
雑誌や書物の記事に興味を示す人の数と
どちらが多いのか。
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いや、数ではなく、
どちらが影響力を持つのか、
しばらく様子を見てみたい。
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# by rocky-road | 2016-02-17 00:01  

壊れていませんか、壊していませんか。

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ノンフィクション作家の柳田邦男氏が
壊れる日本人
(サブ/ケータイ・ネット依存症への告別)
という本を著わしたのは2005年である。
(新潮社発行)

それから10年たったが、
「ケータイ依存症」
(精神医学者/小此木啓吾氏の造語)の
蔓延はさらに勢いを増していて
終息の気配はまったくない。
それどころか、
サイバーテロという、
病気のレベルを超えて、
戦争そのものの破壊行為まで地球規模に広がった。
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文明病は、ウイルス性の伝染病と違って、
ワクチンの作りようもなく、
人為的に止めることはむずかしい。
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ところで、
人間が「壊れる」とは、どういう状態を指すのか。
上記の本にはその定義はないが、
要約すれば、
「人間的な、または動物的な
個体間の接触を軽視または無視し、
現実と仮想との区別がつかない状態で
自己中心的に行動し、
社会への積極的参加を避けるか、
社会の安定性を揺るがすような傾向」
ということになるだろうか。
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それによって、
個人が寿命を縮めたり、
死に至るようなダメージを
受けたりするかどうかは、
いまのところはわからない。

パソコンやケータイが普及してから
日本人の寿命が短くなり始めた、
という調査や研究はないから、
寿命への直接的な影響はないかもしれない。
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現在の問題は、
本人の病状というより、
風土病的に、社会によからぬ影響を与える、
というところで蔓延を続けるという点だろう。
もしケータイ依存症が「病気」であるとすれば、
個人の生命を奪う以前に、
社会の精神的健康度を下げるという、
かなり変わった病気である。
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そういえば、昔、「社会病理学」というのがあった。
それは非行、犯罪、売春、自殺、家出、遺棄、
貧困、スラム地域などの研究である。
しかし、どれもこれも
問題が大きすぎ、複雑すぎて
取りつく島がなく、存在理由を失った。

つまり、社会の問題は個人の問題の累積であり、
個人問題は社会的因子によって助長される。
いわばギリシャ神話の「ウロボロスのヘビ」、
自分の尾を飲み込み始めたヘビは、
最後、どうなるのか。
尾が残るのか、頭が残るのか、
終点のない話である。
日本では「イタチごっこ」という。
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してみると、
「ケータイ依存症」も、
個人と社会の追いかけごっこが
延々と続くことになるのかもしれない。
それを食い止める一案は、
電車内での通話を禁じたように、
車内でのケータイいじりもやめさせる、
つまりルールを作ることか。

個人はともあれ、
社会の側から人間の「崩壊」を防ぐ方法。
人間の社会は、
結果として、個人の自由度を抑制する方法で、
社会が壊れるのを防いできた。
タバコを道に捨てること、
街なかで奇声を発することなどを
軽犯罪として罰する、といった具合に。
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それしかないのかもしれない。
しかし、ルールに抜け道を作るのも人間だから、
私的な空間や、
一見ケータイには見えない、
書物型ケータイなどというものを考案するはず。
したがって、
ウロボロスのヘビは、永遠に生き続けることになる。

過日、ラーメン店で食事中に、

ケータイ操作中の男が入ってきて隣に座った。
注文品がくるまでの時間はもちろん、
ラーメンとギョーザが来てからも、
操作をやめない。
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そこでこちらは、社会病理学を始めた。
食事に手をつけるまでに何分かかるかを計測開始。
6分間。そこで食事開始。
食事時間は7分。
ギョーザが並んだ盛りつけ皿に
じかにタレをかけてしまった。
小皿に1個ずつ運ぶ手間を省くということか。

これを「病気」と言うにはムリがある。
こちらにはまったく迷惑が及ばない。

かなり前に、
ラーメン屋のメニュー表示の更新を
手伝ったことがあるが、
主(あるじ)がこんなことを言っていた。
「せっかく作ったラーメンを
いきなり箸でグチャグチャにかき混ぜる人がいるんですよ。
あれをやられると頭にきちゃう」
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このとき、
ラーメンにも「盛りつけ」があることを知り、
ラーメン屋にも作品意識があることを知った。

けっきょくのところ「壊れる」とは
民度を低下させること、
民度低下に加担しない、ということになるのか。
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「民度」というのはあいまいなコトバで、
広辞苑では「人民の生活や文化の程度」としている。
このコトバは、発展途上の時代には
モチベーションをあげるものだった。
成熟社会に入って、
むしろ軽いコトバになった。

パリやニューヨークの地下鉄や地下道で
目につく落書きの多さ、
これぞ成熟社会の民度なのか。
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成熟社会には、
個人が自発的に壊れる自由がある。
しかし、
社会を壊す自由までは与えられていない。
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健康関連でいえば、
にわか知識のドクターたちの
怪しいフードファディズム本に触発されて、
それにブレーキをかけなければならない立場の先輩栄養士が
おかしな本を出すようになった。
「玉ねぎ水」がどうだとか、
塩分が日本人を滅ぼすとか。
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日本人は、けっきょくは
壊れるか、滅びるか、しかないのか。
警鐘は大きいほうがよいが、
誇張や脅しもまた、
文化を壊す作用があることを銘記したい。
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若い栄養士よ、
どうか先輩栄養士に壊されませんように。
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# by rocky-road | 2016-02-04 23:05  

やっぱり出版物の奥行き。

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わが「ロッコム文章・編集塾」では、
この数か月は、テキストとして、
雑誌や書籍の記事を使っている。
ふだんはオリジナルのテキストを使っているが、
ときには、ロードに出る必要があるし、
他流試合の経験も欠かせない。
「井の中の蛙」対策にもなる。
そしてなによりも、
情報収集能力を磨く効果が大きい。
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テキストは、
月刊誌『WILL』2105年10月号に載った
会社社長であるイギリス人
D・アトキンソン氏の
「ミステリアス・ジャパン」と題する連載から
「今こそ『論理的思考』の教育を」
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『文藝春秋』2015年9月号に載った
歴史人口学者である速水 融(あきら)氏の論文、
「日本の人口減少 ちっとも怖くない」

対談記事では
『文藝春秋』に掲載されている
金田一秀穂氏がホストとなって
ゲストをインタビューする
対談の連載記事の1回分。
精神分析医である、
きたやま おさむ氏を迎えての
「日本語には『表』と『裏』がある」
(2015年9月号)
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そして、単行本の
『司馬遼太郎氏対談集 日本語の本質』
(文春文庫)からは、
仏文学者・桑原武夫との対談部分。
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日常生活では、
専門外の一流人の言説に触れる機会は
そう多くはない。
新聞さえ読まない人が多い時代、
ますますその傾向は強くなっている。
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こういう議論のとき、
その質や量について
インターネットと対比されるが、
こと、専門的知識や考え方、
認識の仕方、論理などに関しては、
出版物とインターネット情報、
さらにはテレビなどのメディア情報とでは、
質的に大きすぎる差がある。
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出版物では、
筆者、担当者、責任者(編集長など)、
校閲・校正マン、デザイナーなど
数人のスタッフのチェックが、
少なくとも3回は入る、
という点がまずある。

さらに、その前の段階で、
編集者は最適の論者を選定し、
企画内容を伝え、
テーマに沿った論説を展開してもらう。
その大半は「書き下ろし」であり、
「話しおろし」であることから、
鮮度、精度、オリジナリティにおいて
他の追随を許さない。
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「書き下ろし」とは、
転載や流用ではなく、
依頼された(または発案した)テーマに沿って
最初の原稿を書くこと。
映画でいえば封切り版である。
「話しおろし」とは、本欄での造語で
座談会やインタビューに応じて
初めて発話することである。

そうして生まれた著述の中には、
本人も思っていなかったような視点や考え方が
突発的に現われたものがあって、
それが鮮度とオリジナリティを高め、
情報としての魅力を高める。
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インターネット情報と違うのは、
よい意味での「思いつき発言」にも、
さっき言った校正の仕組みに従った、
きちんとチェックの目が入っていて、
正確さや論理性、リアリティ、
品格などは保たれる、という点である。

ロッコムの講義では、
輪読を進めながら、
そうした独創的な見解、
語り口の巧みさ、
ときには編集部の表記法にも
着目し、議論の対象にしてゆく。
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情報に対するチェックの厳しい出版物でも、
「完全」はありえず、
論理の不備、展開の誤りなどはある。
最近では、
日本人の論理性を懸念する
イギリス人筆者の論文にも
けっして小さくはない
論理の弱点があることを発見して、
授業が活気づいた。

現在は、
『司馬遼太郎対談選集2 日本語の本質』を
テキストとして、
フランス文学者、
桑原武夫(くわばら たけお)氏との対談、
「〝人工日本語〟の功罪」を
読み進めている。
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知的レベルの高い人の話し合いは、
雲に向かってジャンプしてゆくような
爽快感が伴う。

「人工日本語」とは、
明治政府が、
コトバの群雄割拠の時代を修正し、
「共通語」を創作してきたことを指す。

明治も初期のうちは、
「私」も「あなた」も、
「父」も「母」も、
共通語どころか、地域的にもなかった。
文章表記の「です・ます・である」も
人工的に作った文末表現である。
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対談の一部を引いてみよう。

桑原 ラジオで天気予報をやり始めまして
  「あしたは雨が降るでしょう」と
  アナウンサーがいった。
  これにはものすごくショックを受けましたね。
  いまではあたりまえの表現ですが、
  それまでの日本語には、未来形はなかった。

司馬 ああ、なるほど。

桑原 昔のおじいさんなら「あすは雨が降る」と
   いったでしょう。どうしても未来の感覚を
   出したければ、「あしたは雨が降るはずだ」とか
   「あすになれば雨が降る」といういい方をした。

シビレルようなおもしろい指摘である。
こういう発言を聞くことは、
日本人としての言語センスを
どれだけ磨くことになるか、
計り知れない。

健康支援者は「話芸者」だから、
言語センスを磨くことに卒業はない。
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聞けば、埼玉県越谷市の小学校では、
漫才の実習授業があるという。

会話の技術、相手との呼吸の合わせ方、
ユーモアセンスの向上など、
その効果もまた計り知れない。
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ふたこと目には「栄養士の専門性」を口にする
♪♬栄養士会ごときに、
漫才のセミナーを企画するセンスも
運営力もないことはわかっているが、
であるならば、
せめて講義の仕方、講演の仕方の
セミナーくらいは企画してはどうか。

近く、私が知るお寺では、
落語会を開くという。
寺院が落語会や音楽会を企画する例は
珍しくはないが、
その日、その寺での演目は
「明烏」(あけがらす)だという。
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なんと「郭話」(くるわばなし)である。
親から頼まれた町内の遊び人が、
カタブツの青年を騙して吉原に連れていき、
初体験をさせるという話である。
これでこそ、
寺も、あの世も
明るくなるというものである。
   
学びの教材、
学びの場所、
学び合う仲間、
学ぶ機会などは、どこにもある。
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人生は学ぶほどに楽しく、
ゆえに自分自身が輝き続ける。

# by rocky-road | 2016-01-30 21:48  

捨てるあなた、捨てないあなた。

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2016年は、
3日の江ノ島、鎌倉、ぶらカメラから始まって、
9、10、11日と続いた
パルマローザおよび
食コーチングプログラムス主催の
セミナー、「食ジム」と、
マジメというよりも、
華やかな年初めとなった。
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「食」や「健康」を支えるとはどういうことか、
「用字用語」というものが、
生活に、そして人生にどんな意味を持つのか、
それらを考えるセミナーは、
お勉強ではなく、
けっきょくは、自分の生き方、
人の生かし方がテーマだから、
実利的であり、動機づけである。
やはり「華やか」「きらびやか」と
形容してもいいように思う。
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セミナーの4日前の1月6日の朝刊に
斎藤 孝氏の『語彙力こそが教養である』
という本の広告が載っていた。
10日の、「人生をクリエイトする『用字用語
適材適所に使いこなす。」の講義のときに、
この話題から入ったが、
すでに、入手ずみの人がいた。
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しかも、遠方に住む父上が購入して、
結婚し、いまは東京に住む娘に送ってくれた
というのだから、ジーンとくる。

斎藤氏の著書と、私の講義内容とは、
切り口が違うが、
いわば登山ルートの問題。
南コースから登るか、
東コースから登るか、
程度の違いであろう。
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当日のアンケートの中には、
「年賀状にも用字用語があること、
「その文章表現力の貧弱さ、
などに触れていたことが参考になった」

「文章の構成や箇条書きをするとき、
数字の書き方にも
ランクづけの原則があることを学んだ」
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「忙しい状況を説明するのに
『バタバタしている』と表現をするのは、
陳腐であること、
そもそも、
自分の忙しさを説明したり、
あるいは落ち着きない生活ぶりを
手垢のついたコトバで表現したりするのは
恥ずかしいことだと知った」
などの感想があった。

これらのセミナーでは、
コトバの意味、適切な使い方などについて
学んだわけだが、
コトバを新しく自分のものにする、
ということと、
いまはやりの、モノを捨てて、
シンプルになるというライフスタイルとを
対照的に考えてみたくなった。

『読売新聞』は、
「ワカモノミクス」というシリーズを
連載中だが、1月12日の第8回では、
「モノ減らし 暮らし充実」という見出しで、
「ミニマリスト」の事例を取りあげている。
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➀スーツケースに入る範囲しか
 服を持たないという29歳の男性、
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②モノを買うのをやめて、
 その費用を山登りや自転車のツーリング、
 美術館巡りや海外旅行など、
 余暇活動に充てている21歳の男性、
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③新築中の家をストップして、
 夫婦で狭いアパートに引っ越した27歳の女性、

などが紹介されている。

人生という山に登り始めたばかりの者には、
いろいろの試行錯誤が必要だろうから、
シンプル志向にも意味はあるだろう。

そうした行動には、
脳科学的、動物行動学的な関心が向く。
昔は、食欲、性欲、物欲、交際欲を捨てて、
山奥で隠遁生活をする人を「仙人」といった。
それに近いことを、いまは若い世代の人がする。
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しかし、完全な「世捨て人」ではない。
知的好奇心は多少は残っている。
美術館巡りやツーリングには、
まだ情報収集のモチベーションが感じられる。

いま、はやりの考え方では、
「トキメキ」のないものは捨てるという。
②の男性は、本を1000冊捨てたという。
私には蔵書を1000冊捨てる勇気はない。
1000冊ともなれば、
辞書も何冊かは入ってくるだろう。
私が新聞記者なら、
捨てた本の書名……はムリとしても、
傾向くらいは聞いておいただろう。
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より狭いアパートに引っ越した夫婦には、
子どもなどという、
「余分なもの」(?)は想定外なのだろうか。

モノを単なる物質と見るのは、
消費文化に浸かった者の感覚なのか。
モノが「トキメク」かどうかは、
その物理的存在ではなく、
その記号性にあるのではないか。

「母から成人式のときにもらった着物」
「結婚したときに買った圧力鍋」
「海外旅行先で見つけたペーパーナイフ」
などなどは、実用性は失っても、
記号性(思い出)は残る。
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それらにトキメキを感じなくなったから捨てる、
という反応は、
ワンタッチで「オン」「オフ」を決定する
デジタル文明への適応なのか、
よくある、若者の社会性獲得への定番コースなのか、
それらの考察は人間学のテーマとなる。

もっとも、「仙人」生活の目的には、
不老・不死の願いがあったらしいから、
見かけよりもずっとナマ臭い
モチベーションのようである。
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昔も今も、
若者の一部には、
社会の一員となる前に、
それに背を向けようとする傾向がある。
バンカラ、ヒッピーなどには、
これから社会の一員として
組み込まれることへの反発、
子ども期の最後の抵抗のような心理があった。
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1950年代から1960年代にかけて、
アメリカを嫌い、
自国政府を嫌った若者はどうなったか。
大半は、ごくごくフツーの社会人に
なっているのだろうが、
その当時の心情は残っているせいか、
アメリカ嫌い、政府嫌いを商品化する新聞が
日本を代表する新聞として
立派に商売を続けている。
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かつて、
「海が大好きで、海辺に住みたい」と
言って南の島に向かった若者7人の
その後を追いかけたことがある。
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7人が7人、全員が海から離れ、
ラーメン屋の奥さんになったり、
道路工事の労働者になったりしていた。
あえていえば、1人だけが、
装身具屋を開業して、
貝細工のアクセサリーなども扱っていた。
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私の見るところ、
認知症やうつ病などの心の病(正しくは脳の病)は、
多様性の不足や未活用によって
助長されるところが多い。
このことは、新春セミナーでも申しあげた。

どんなに知的な仕事でも、
たとえば文筆家、研究者、政治家でも、
それだけにしか頭を使っていないと、
脳は錆びてくる。
ノーベル賞は、
認知症防止のお墨つきではない。
脳は、本人が思っている以上に、
多様性に対する欲求と、キャパがある。
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明朝のみそ汁の具はどうするか、
豆腐と長ねぎを合わせるか、
夕べの残りの春菊にするか。

きょうの晩酌は日本酒にするか、
ビールにするか。

バス事故の近因、遠因はなにか。

原発は、存続すべきか、
漸次廃炉にすべきか。
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あしたのバレーボールの試合のために、
きょうのジョギングはどれくらいにするか、
競技場までのウエアはどうする。

職場のパワハラ課長とどう戦うか。

自転車によるツーリングに
どういう意味があるのか、
その体験をどうするのか、
単なる回数の勝負なのか、
自然に近づくとは、どういう意味なのか。
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こういう事例の列挙のとき、
読点はどうするか、
句点はどうするか、
1ブロックずつ1行アキにするか、
追い込むか、などなど。

モノを捨てること、
本を捨てること、
人間関係をシンプルにすることは、
あしたからの人生に関する情報の多様性、
脳の思考活動の多様性を
減らすことにほかならない。
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そういう人の人生が
どう展開するのか、
ヘルスコミュニケーション論の点でも、
ライフデザイン論の点でも
格好のテーマになるだろう。

ヒトの生活は、
多様性を求める力学と、
単純さを求める力学とが、
同時進行的に働くものである。
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その点では、物理学的な活動ともいえる。
遠心力と向心力(求心力)。
ふくらはぎをさすると健康になる、
親指を動かすと脳が若返る、
塩分を押さえると健康寿命の延伸にプラス、
などの単純化は、
これまでにもあったし、
これからも続く。
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こうした反比例概念を
仕分けることこそ、
脳がもっとも好む活動である。
もっとも、仕分けることを怠る人も多い。
「動物」とはいえ、
動かないことを好むのも動物である。

# by rocky-road | 2016-01-17 18:42  

『二人の海』の江ノ島、ぶら歩き。

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2016年の「海と島の旅」、
および「ぶらカメラ in 江ノ島~鎌倉」は
1月2日から始まった。
今回はパルマローザの新春企画。
江ノ島へ行くのは10年ぶりくらいだろうか。
神奈川県藤沢市にある観光地である。
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かつては、海水浴場としてお世話になったが、
ここ20数年以降は
撮影やぶら歩きになった。
つまりは今年のパターンである。
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以前の、まだ海の野性が感じられた江ノ島も
すっかり観光地化した。
それは困ったことではなく、
人々のニーズを救いあげたということだろう。
世界中、どこも同じだと思うが、
大衆は、自分で遊びを見つけるのは苦手だから、
つねに遊びを提供してくれることを求める。
それはありがたいことである。 
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江ノ島の海に入った最後は
クラブのスノーケリングツアーだった。
スノーケリングクラブの仲間には、
「xツアー」として集合地だけ伝え、
江ノ島に行った。
もともと江ノ島は
ダイビングやスノーケリングの適地とは
考えられていなかったから、
最初から目的地を示せば、
みんなが乗ってこないからである。
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しかし、当時は水があれば、
湖でも池でも川でも潜ってみたと思っていたし、
新しいダイビングスポットを
探す意欲、というより衝動があった。
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初江ノ島潜りの日は、
あいにく台風直後で海は荒れていて
仲間からは不評を買った。
それでも、伊豆で見られる魚、
カワハギ、キタマクラ、オヤピッチャなどを、
濁った海の中で見ることができた。
期待していなかったから、
むしろ海は豊かに感じられた。

今回、
真夏の江ノ島片瀬海岸の
混雑ぶりの話が出たので、
そのころの写真がないかと考えていたら、
映画として残っているのを思い出した。
それがあったからといって、
どうということもないが、
話のついでに、
少しだけ触れておこう。
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映画は『二人の海』というタイトル。
私が属していた東京潜泳会の
創立10周年を記念して作った、
20分ちょっとの短編劇映画である。
1974年のころである。
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ファーストシーンで
片瀬江ノ島海岸が映る。
こんなストーリーである。
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伸子がその日、友達と海水浴に来る。
あまりにも人が多いので、
1人、少し離れた岩場で泳ぐ。
が、途中で足がつって溺れかかる。
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と、海中からダイバー2人、
この男たちが助ける。
そして、伸子はスノーケリングを習い、
以後、スノーケラーになり、
かつ、助けた武夫と交際を。
ときに2人、
ときに3人での海への旅が始まる。
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しかし、ある日、
男2人が潜水中に1人が
モーターボートにぷつかられて死ぬ。
海面が真っ赤に染まるシーンは
いま見ても悲惨。
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これがきっかけで、
武夫は海から遠ざかる。
そして、欝々とした日々を。

伸子は企てる。
武夫に黙って、
いつか行った伊豆の海へ。
留守のところへ武夫から電話。
母親が、海へ行って不在と告げる。
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武夫はピンときて、
1人彼女を追ってあの海へ。
やはり、彼女はそこに来ていた。
彼女が1人、スノーケリングをする海に
武夫は崖の上から飛び込んで近づく。
2人の海は戻ってきた。
ビーチを歩く2人、
映画はここで「終わり」
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さて、最近の、
新年早々の近代化した江ノ島風景を
数点、あげておこう。
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# by rocky-road | 2016-01-08 13:37