やっぱり出版物の奥行き。

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わが「ロッコム文章・編集塾」では、
この数か月は、テキストとして、
雑誌や書籍の記事を使っている。
ふだんはオリジナルのテキストを使っているが、
ときには、ロードに出る必要があるし、
他流試合の経験も欠かせない。
「井の中の蛙」対策にもなる。
そしてなによりも、
情報収集能力を磨く効果が大きい。
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テキストは、
月刊誌『WILL』2105年10月号に載った
会社社長であるイギリス人
D・アトキンソン氏の
「ミステリアス・ジャパン」と題する連載から
「今こそ『論理的思考』の教育を」
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『文藝春秋』2015年9月号に載った
歴史人口学者である速水 融(あきら)氏の論文、
「日本の人口減少 ちっとも怖くない」

対談記事では
『文藝春秋』に掲載されている
金田一秀穂氏がホストとなって
ゲストをインタビューする
対談の連載記事の1回分。
精神分析医である、
きたやま おさむ氏を迎えての
「日本語には『表』と『裏』がある」
(2015年9月号)
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そして、単行本の
『司馬遼太郎氏対談集 日本語の本質』
(文春文庫)からは、
仏文学者・桑原武夫との対談部分。
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日常生活では、
専門外の一流人の言説に触れる機会は
そう多くはない。
新聞さえ読まない人が多い時代、
ますますその傾向は強くなっている。
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こういう議論のとき、
その質や量について
インターネットと対比されるが、
こと、専門的知識や考え方、
認識の仕方、論理などに関しては、
出版物とインターネット情報、
さらにはテレビなどのメディア情報とでは、
質的に大きすぎる差がある。
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出版物では、
筆者、担当者、責任者(編集長など)、
校閲・校正マン、デザイナーなど
数人のスタッフのチェックが、
少なくとも3回は入る、
という点がまずある。

さらに、その前の段階で、
編集者は最適の論者を選定し、
企画内容を伝え、
テーマに沿った論説を展開してもらう。
その大半は「書き下ろし」であり、
「話しおろし」であることから、
鮮度、精度、オリジナリティにおいて
他の追随を許さない。
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「書き下ろし」とは、
転載や流用ではなく、
依頼された(または発案した)テーマに沿って
最初の原稿を書くこと。
映画でいえば封切り版である。
「話しおろし」とは、本欄での造語で
座談会やインタビューに応じて
初めて発話することである。

そうして生まれた著述の中には、
本人も思っていなかったような視点や考え方が
突発的に現われたものがあって、
それが鮮度とオリジナリティを高め、
情報としての魅力を高める。
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インターネット情報と違うのは、
よい意味での「思いつき発言」にも、
さっき言った校正の仕組みに従った、
きちんとチェックの目が入っていて、
正確さや論理性、リアリティ、
品格などは保たれる、という点である。

ロッコムの講義では、
輪読を進めながら、
そうした独創的な見解、
語り口の巧みさ、
ときには編集部の表記法にも
着目し、議論の対象にしてゆく。
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情報に対するチェックの厳しい出版物でも、
「完全」はありえず、
論理の不備、展開の誤りなどはある。
最近では、
日本人の論理性を懸念する
イギリス人筆者の論文にも
けっして小さくはない
論理の弱点があることを発見して、
授業が活気づいた。

現在は、
『司馬遼太郎対談選集2 日本語の本質』を
テキストとして、
フランス文学者、
桑原武夫(くわばら たけお)氏との対談、
「〝人工日本語〟の功罪」を
読み進めている。
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知的レベルの高い人の話し合いは、
雲に向かってジャンプしてゆくような
爽快感が伴う。

「人工日本語」とは、
明治政府が、
コトバの群雄割拠の時代を修正し、
「共通語」を創作してきたことを指す。

明治も初期のうちは、
「私」も「あなた」も、
「父」も「母」も、
共通語どころか、地域的にもなかった。
文章表記の「です・ます・である」も
人工的に作った文末表現である。
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対談の一部を引いてみよう。

桑原 ラジオで天気予報をやり始めまして
  「あしたは雨が降るでしょう」と
  アナウンサーがいった。
  これにはものすごくショックを受けましたね。
  いまではあたりまえの表現ですが、
  それまでの日本語には、未来形はなかった。

司馬 ああ、なるほど。

桑原 昔のおじいさんなら「あすは雨が降る」と
   いったでしょう。どうしても未来の感覚を
   出したければ、「あしたは雨が降るはずだ」とか
   「あすになれば雨が降る」といういい方をした。

シビレルようなおもしろい指摘である。
こういう発言を聞くことは、
日本人としての言語センスを
どれだけ磨くことになるか、
計り知れない。

健康支援者は「話芸者」だから、
言語センスを磨くことに卒業はない。
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聞けば、埼玉県越谷市の小学校では、
漫才の実習授業があるという。

会話の技術、相手との呼吸の合わせ方、
ユーモアセンスの向上など、
その効果もまた計り知れない。
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ふたこと目には「栄養士の専門性」を口にする
♪♬栄養士会ごときに、
漫才のセミナーを企画するセンスも
運営力もないことはわかっているが、
であるならば、
せめて講義の仕方、講演の仕方の
セミナーくらいは企画してはどうか。

近く、私が知るお寺では、
落語会を開くという。
寺院が落語会や音楽会を企画する例は
珍しくはないが、
その日、その寺での演目は
「明烏」(あけがらす)だという。
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なんと「郭話」(くるわばなし)である。
親から頼まれた町内の遊び人が、
カタブツの青年を騙して吉原に連れていき、
初体験をさせるという話である。
これでこそ、
寺も、あの世も
明るくなるというものである。
   
学びの教材、
学びの場所、
学び合う仲間、
学ぶ機会などは、どこにもある。
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人生は学ぶほどに楽しく、
ゆえに自分自身が輝き続ける。

# by rocky-road | 2016-01-30 21:48  

捨てるあなた、捨てないあなた。

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2016年は、
3日の江ノ島、鎌倉、ぶらカメラから始まって、
9、10、11日と続いた
パルマローザおよび
食コーチングプログラムス主催の
セミナー、「食ジム」と、
マジメというよりも、
華やかな年初めとなった。
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「食」や「健康」を支えるとはどういうことか、
「用字用語」というものが、
生活に、そして人生にどんな意味を持つのか、
それらを考えるセミナーは、
お勉強ではなく、
けっきょくは、自分の生き方、
人の生かし方がテーマだから、
実利的であり、動機づけである。
やはり「華やか」「きらびやか」と
形容してもいいように思う。
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セミナーの4日前の1月6日の朝刊に
斎藤 孝氏の『語彙力こそが教養である』
という本の広告が載っていた。
10日の、「人生をクリエイトする『用字用語
適材適所に使いこなす。」の講義のときに、
この話題から入ったが、
すでに、入手ずみの人がいた。
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しかも、遠方に住む父上が購入して、
結婚し、いまは東京に住む娘に送ってくれた
というのだから、ジーンとくる。

斎藤氏の著書と、私の講義内容とは、
切り口が違うが、
いわば登山ルートの問題。
南コースから登るか、
東コースから登るか、
程度の違いであろう。
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当日のアンケートの中には、
「年賀状にも用字用語があること、
「その文章表現力の貧弱さ、
などに触れていたことが参考になった」

「文章の構成や箇条書きをするとき、
数字の書き方にも
ランクづけの原則があることを学んだ」
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「忙しい状況を説明するのに
『バタバタしている』と表現をするのは、
陳腐であること、
そもそも、
自分の忙しさを説明したり、
あるいは落ち着きない生活ぶりを
手垢のついたコトバで表現したりするのは
恥ずかしいことだと知った」
などの感想があった。

これらのセミナーでは、
コトバの意味、適切な使い方などについて
学んだわけだが、
コトバを新しく自分のものにする、
ということと、
いまはやりの、モノを捨てて、
シンプルになるというライフスタイルとを
対照的に考えてみたくなった。

『読売新聞』は、
「ワカモノミクス」というシリーズを
連載中だが、1月12日の第8回では、
「モノ減らし 暮らし充実」という見出しで、
「ミニマリスト」の事例を取りあげている。
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➀スーツケースに入る範囲しか
 服を持たないという29歳の男性、
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②モノを買うのをやめて、
 その費用を山登りや自転車のツーリング、
 美術館巡りや海外旅行など、
 余暇活動に充てている21歳の男性、
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③新築中の家をストップして、
 夫婦で狭いアパートに引っ越した27歳の女性、

などが紹介されている。

人生という山に登り始めたばかりの者には、
いろいろの試行錯誤が必要だろうから、
シンプル志向にも意味はあるだろう。

そうした行動には、
脳科学的、動物行動学的な関心が向く。
昔は、食欲、性欲、物欲、交際欲を捨てて、
山奥で隠遁生活をする人を「仙人」といった。
それに近いことを、いまは若い世代の人がする。
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しかし、完全な「世捨て人」ではない。
知的好奇心は多少は残っている。
美術館巡りやツーリングには、
まだ情報収集のモチベーションが感じられる。

いま、はやりの考え方では、
「トキメキ」のないものは捨てるという。
②の男性は、本を1000冊捨てたという。
私には蔵書を1000冊捨てる勇気はない。
1000冊ともなれば、
辞書も何冊かは入ってくるだろう。
私が新聞記者なら、
捨てた本の書名……はムリとしても、
傾向くらいは聞いておいただろう。
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より狭いアパートに引っ越した夫婦には、
子どもなどという、
「余分なもの」(?)は想定外なのだろうか。

モノを単なる物質と見るのは、
消費文化に浸かった者の感覚なのか。
モノが「トキメク」かどうかは、
その物理的存在ではなく、
その記号性にあるのではないか。

「母から成人式のときにもらった着物」
「結婚したときに買った圧力鍋」
「海外旅行先で見つけたペーパーナイフ」
などなどは、実用性は失っても、
記号性(思い出)は残る。
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それらにトキメキを感じなくなったから捨てる、
という反応は、
ワンタッチで「オン」「オフ」を決定する
デジタル文明への適応なのか、
よくある、若者の社会性獲得への定番コースなのか、
それらの考察は人間学のテーマとなる。

もっとも、「仙人」生活の目的には、
不老・不死の願いがあったらしいから、
見かけよりもずっとナマ臭い
モチベーションのようである。
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昔も今も、
若者の一部には、
社会の一員となる前に、
それに背を向けようとする傾向がある。
バンカラ、ヒッピーなどには、
これから社会の一員として
組み込まれることへの反発、
子ども期の最後の抵抗のような心理があった。
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1950年代から1960年代にかけて、
アメリカを嫌い、
自国政府を嫌った若者はどうなったか。
大半は、ごくごくフツーの社会人に
なっているのだろうが、
その当時の心情は残っているせいか、
アメリカ嫌い、政府嫌いを商品化する新聞が
日本を代表する新聞として
立派に商売を続けている。
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かつて、
「海が大好きで、海辺に住みたい」と
言って南の島に向かった若者7人の
その後を追いかけたことがある。
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7人が7人、全員が海から離れ、
ラーメン屋の奥さんになったり、
道路工事の労働者になったりしていた。
あえていえば、1人だけが、
装身具屋を開業して、
貝細工のアクセサリーなども扱っていた。
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私の見るところ、
認知症やうつ病などの心の病(正しくは脳の病)は、
多様性の不足や未活用によって
助長されるところが多い。
このことは、新春セミナーでも申しあげた。

どんなに知的な仕事でも、
たとえば文筆家、研究者、政治家でも、
それだけにしか頭を使っていないと、
脳は錆びてくる。
ノーベル賞は、
認知症防止のお墨つきではない。
脳は、本人が思っている以上に、
多様性に対する欲求と、キャパがある。
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明朝のみそ汁の具はどうするか、
豆腐と長ねぎを合わせるか、
夕べの残りの春菊にするか。

きょうの晩酌は日本酒にするか、
ビールにするか。

バス事故の近因、遠因はなにか。

原発は、存続すべきか、
漸次廃炉にすべきか。
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あしたのバレーボールの試合のために、
きょうのジョギングはどれくらいにするか、
競技場までのウエアはどうする。

職場のパワハラ課長とどう戦うか。

自転車によるツーリングに
どういう意味があるのか、
その体験をどうするのか、
単なる回数の勝負なのか、
自然に近づくとは、どういう意味なのか。
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こういう事例の列挙のとき、
読点はどうするか、
句点はどうするか、
1ブロックずつ1行アキにするか、
追い込むか、などなど。

モノを捨てること、
本を捨てること、
人間関係をシンプルにすることは、
あしたからの人生に関する情報の多様性、
脳の思考活動の多様性を
減らすことにほかならない。
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そういう人の人生が
どう展開するのか、
ヘルスコミュニケーション論の点でも、
ライフデザイン論の点でも
格好のテーマになるだろう。

ヒトの生活は、
多様性を求める力学と、
単純さを求める力学とが、
同時進行的に働くものである。
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その点では、物理学的な活動ともいえる。
遠心力と向心力(求心力)。
ふくらはぎをさすると健康になる、
親指を動かすと脳が若返る、
塩分を押さえると健康寿命の延伸にプラス、
などの単純化は、
これまでにもあったし、
これからも続く。
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こうした反比例概念を
仕分けることこそ、
脳がもっとも好む活動である。
もっとも、仕分けることを怠る人も多い。
「動物」とはいえ、
動かないことを好むのも動物である。

# by rocky-road | 2016-01-17 18:42  

『二人の海』の江ノ島、ぶら歩き。

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2016年の「海と島の旅」、
および「ぶらカメラ in 江ノ島~鎌倉」は
1月2日から始まった。
今回はパルマローザの新春企画。
江ノ島へ行くのは10年ぶりくらいだろうか。
神奈川県藤沢市にある観光地である。
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かつては、海水浴場としてお世話になったが、
ここ20数年以降は
撮影やぶら歩きになった。
つまりは今年のパターンである。
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以前の、まだ海の野性が感じられた江ノ島も
すっかり観光地化した。
それは困ったことではなく、
人々のニーズを救いあげたということだろう。
世界中、どこも同じだと思うが、
大衆は、自分で遊びを見つけるのは苦手だから、
つねに遊びを提供してくれることを求める。
それはありがたいことである。 
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江ノ島の海に入った最後は
クラブのスノーケリングツアーだった。
スノーケリングクラブの仲間には、
「xツアー」として集合地だけ伝え、
江ノ島に行った。
もともと江ノ島は
ダイビングやスノーケリングの適地とは
考えられていなかったから、
最初から目的地を示せば、
みんなが乗ってこないからである。
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しかし、当時は水があれば、
湖でも池でも川でも潜ってみたと思っていたし、
新しいダイビングスポットを
探す意欲、というより衝動があった。
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初江ノ島潜りの日は、
あいにく台風直後で海は荒れていて
仲間からは不評を買った。
それでも、伊豆で見られる魚、
カワハギ、キタマクラ、オヤピッチャなどを、
濁った海の中で見ることができた。
期待していなかったから、
むしろ海は豊かに感じられた。

今回、
真夏の江ノ島片瀬海岸の
混雑ぶりの話が出たので、
そのころの写真がないかと考えていたら、
映画として残っているのを思い出した。
それがあったからといって、
どうということもないが、
話のついでに、
少しだけ触れておこう。
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映画は『二人の海』というタイトル。
私が属していた東京潜泳会の
創立10周年を記念して作った、
20分ちょっとの短編劇映画である。
1974年のころである。
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ファーストシーンで
片瀬江ノ島海岸が映る。
こんなストーリーである。
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伸子がその日、友達と海水浴に来る。
あまりにも人が多いので、
1人、少し離れた岩場で泳ぐ。
が、途中で足がつって溺れかかる。
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と、海中からダイバー2人、
この男たちが助ける。
そして、伸子はスノーケリングを習い、
以後、スノーケラーになり、
かつ、助けた武夫と交際を。
ときに2人、
ときに3人での海への旅が始まる。
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しかし、ある日、
男2人が潜水中に1人が
モーターボートにぷつかられて死ぬ。
海面が真っ赤に染まるシーンは
いま見ても悲惨。
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これがきっかけで、
武夫は海から遠ざかる。
そして、欝々とした日々を。

伸子は企てる。
武夫に黙って、
いつか行った伊豆の海へ。
留守のところへ武夫から電話。
母親が、海へ行って不在と告げる。
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武夫はピンときて、
1人彼女を追ってあの海へ。
やはり、彼女はそこに来ていた。
彼女が1人、スノーケリングをする海に
武夫は崖の上から飛び込んで近づく。
2人の海は戻ってきた。
ビーチを歩く2人、
映画はここで「終わり」
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さて、最近の、
新年早々の近代化した江ノ島風景を
数点、あげておこう。
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# by rocky-road | 2016-01-08 13:37  

健康支援者の芸風とは?

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1年ぶりで、落語、柳家系の独演会に
行ってきた。場所は板橋文化会館、
ほぼ満席の1000人余りの入り。
ところが、前座から真打まで
なんとも退屈な内容。

「枕の小○治」といわれるほど、
「枕」がうまいとの評判のある演者。
(枕=本題に入る前のジャブ的な小さな笑い)
が、その枕がつまらない。
トイレに財布を忘れた話など、
たいしておもしろくない話を延々と続ける。
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演目に入って郭噺(くるわばなし)が始まったが、
勢いもメリハリもなく、
人物描写もすっきりせぬままダラダラと続く。
1つが終わり、休憩時間を待って、
会場から抜け出した。

落語がこんなにも苦痛だったのは久々である。
かつては、立川談志の噺がいやで、
あくびをかみ殺して聞いたことがある。
彼が登壇するやいなや、
退出する人が少なからずいたが、
当時の私にはそこまでの決断力はなかった。

現代日本を代表する名人(?)落語家の噺が
こうもつまらないのはなぜか、
それを真剣に考え続けた。
まず考えたのは、
笑いの基準が変わったのか、という点。
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桂文楽、三遊亭円生、三遊亭可楽、
古今亭志ん生、柳家小さん(五代目)といった、
昭和の名人と比べるからいけないのか。

しかし、私の好む落語は古典に属する噺で、
昭和になって生まれたものではない。
今回聞いた柳家小○治にしても、
演目のほとんどが古典である。
つまり噺の内容は、昔も今も変わらない。

なのに、その日の古典落語はおもしろくない。
本人は「あざとい形では笑わせない芸」
を目指しているそうだが、
そんなことは、基本中の基本で、
あえていうまでもないことである。

おかしくない理由の1つは、
こちら側の加齢にあるのか。
人間は高齢になるほどに
笑わなくなる傾向がある。
それなのか。
感性が鈍る、表情筋が弛緩する、
おかしさのハードルが上がって
ちょっとやそっとのことでは
おかしさを感じなくなる……。
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だが、現在の私は、
「パンクブーブー」や
「サンドイッチマン」の漫才には笑える。
うろ覚えだが、こんな感じ。

  寿司屋に1人の男が入ってくる。
  *「へい、いらっしゃい。お1人ですか」
  客「ああ、1人だよ」
  *「先にどなたか来ていらっしやるんですか」
  客「いや、だれも来ねえよ、オレ1人だよ」
  *「あとからどなたかがおいでになるんですか」
  客「だれもこねえよ。1人じゃいけないのかよ」
  *「寂しいでしょ? 私が隣に行きましょうか」
  客「だから、1人でいいって、言ってるだろぉ」
  *「それとも、こちらに来ますか」

これで笑えるのに、
今回の落語は笑えない。
演者にも、多少の責任はあるだろう。
主観的だが、去年聞いたときよりも
謙虚さが減少しているように思える。
自分の体験を枕に使うのが
近年の落語の傾向のようだが、
それは観客に対して不遜である。
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落語は古典にしろ新作にしろ、
作品を演ずるのが商売である。
自分の日常茶飯事を語るほど、
偉くはないはずである。

頭に入れておかなければならないのは、
落語家は、けっして「地」がおもしろい人ではない。
昔から名人といわれるような人は、
家では寡黙だったり、酒をくらっていたり、
妾の家に通っていたりする。

だれかが自分をネタにすれば、
おもしろくなるかもしれないが、
本人は本気でマジメであり、
落語とは無縁な私生活を送っていた。
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つまり、落語家とは、
できあがっている「作品」を
おもしろく、またはしんみり、
人間のリアリティをいきいきと演ずる人である。
笑わせればいいっていうものではなく、
そこには味わいが求められた。

そういう観点からすると、
私生活でトイレに財布を忘れた程度の話は
観客のほうがいっぱい持っているくらいであり、
「作者」ではない「演者」が話しても、
そう簡単には「作品」にはならない。
だから、
昔気質の落語家は、
私生活をペラペラしゃべるほど
芸を軽んじてはいなかったし、
うぬぼれてもいなかった。

どんなに他愛なく、
どんなにマンネリ化していても、
枕の話は、
それなりにおもしろく、
ジャブとしての意味があった。

「きのうの嵐で、家の囲いが壊れちゃった」
「へ~」(塀)
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この程度のダジャレでも、
笑いのウォームアップとしての意味はあった。
定番の「枕」のほうが、
演者と観客とに一体感が生まれて都合がよい。
それに、なんといっても短いからいい。

社会心理学者は、
落語における現代日本人の笑いについて、
どう考察してゆくだろうか。
少し研究すれば、
そこそこのエビデンスが得られるはずである。

演芸評論家でもない私としては、
現代落語がどうなろうと、知ったことではないが、
その反面、もう1人の話芸者、
健康支援者のユーモア感覚のあり方について、
連想が飛ぶのを押さえることができなかった。
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「健康支援者」、
つまり医師、看護師、保健師、栄養士の
ユーモア感覚のことである。
もともと、この種の職業は、
ユーモアとは遠い存在であるが、
プロの芸人がここまでダレているからには、
健康支援者ともなれば、
ますますにコチンコチンになっているのではないか、
そんなことが心配になった。

「笑顔や笑い声は健康のシンボル」
というほど能天気ではないが、
気の利いた会話や講話、相談が、
健康を阻害するとも思えない。
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ユーモアとは、
つきつめれば人生を楽観する着眼である。
病気であれ死であれ、
悲観だけの世界ではない。
厳しい現実にも、どこかに逃げ道がある。
その1つがユーモアである。

「あざとい笑いを求めることはない」
大いに結構。
人は健康になるために生きているのではない。
健康ばかりを求めると、
砂糖を入れ過ぎたお汁粉のように
味覚にも胃にも負担をかける。
うまいお汁粉は、
小豆の香りと、少々の塩、
つまりはバランスである。
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「健康になるためには死んでもいい」
などという人であっても、
喜んで支援するのが健康支援者の仕事。

こういうクライアントであれば、
さらに死ぬほどの健康オタクにして、
そこは話芸で、真の健康、真の人生を理解させ、
健康からは201メートルくらい
距離を置くように誘導する
……というようなことができれば、
きわめてユーモラスな業績として、
記録されることだろう。

健康支援者の落語家、コメディアン、
芸人などが、日本にもいるかもしれない。
真正面から食や健康を笑いにするのもいいし、
余技として、俳句や川柳をたしなむのもよい。
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寄席に行って
おもしろい芸人、おもしろくない芸人など、
いろいろのタイプに出会うことも
プラスにはなるだろう。

明治維新後、
文章日本語が生まれようとする
試行錯誤の時代には、
のちに有名になる小説家は
落語や講談、浪花節などを聞いて、
自分の文体を模索したという。

健康支援者にとって
いまいちばん求められるのは、
人間をよ~く知ること。
だって、人間を支援するのだから。
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# by rocky-road | 2015-12-26 22:28  

しばらくは「句盗点」の時代。

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ことしも、20通ほどの「喪中につき」ハガキを
いただいた。
その中に1通だけ、
句読点入りの印刷があった。
これには「快挙」というほどの感動があった。
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ある人は、印刷ずみの文面に
手書きで句読点を書き加えていた。
この姿勢もよし、である。
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大の大人が、
句読点の有無で一喜一憂するのは
滑稽に見えるだろうが、
いま起こっていることは、
日本の国語史の中では
特筆すべき現象なのである。
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ある人は、自分が出す喪中ハガキを
業者に依頼しようとしたところ、
「句読点は入りません」といって
固辞されたとか。
ハガキのデザインにはバリエーションがあるのに、
句読点は入れられないという。
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言論の自由どころか、
それ以前の、正規の国語表現が、
ずぶの素人によって阻害されているのである。
これを事件といわずして、なんといおう。
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前回、100匹のサルに
タイプライターを配っても、
文学的名作は生まれない、
という欧米の格言(?)について触れたが、
コンピューターを配布した場合には、
また別で、
とんでもない「迷作」を生み出す可能性が
ないとはいえなくなってきた。
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昔から、算数やお絵描きをする動物はいる。
犬、猿、ボノボ、鳥、象、猫など。
これらは、人間の調教技術の進歩によるもので、
別に天才的な動物が出現したわけではない。
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ところが、
まともな人間にパソコンを配ると、
一部の「普通程度の頭脳」を
さらに劣化させるということが起こる。
「まとも」とはいっても、
成人してから読み書き習慣を失ったような者は、
電車や公共施設の中で
スマホに集中すると、
バカ丸出し、というか、
アホの表情になる。
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読書する人の姿は美しく、
名画にもそういう描写が残っている。
電車内で雑誌や本を読むような人間は、
それなりのポーズ、
それなりの表情を身につける。
読書のカタチにも
数百年の文化的蓄積があるからである。
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これに対して、
公衆の面前で化粧をしたり、
大口をあけて熟睡したり、
スマホに心を奪われたりする人間は、
車中や公園、図書館などで
読書をする経験が少ないはずである。
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いずれ、公共の場でのスマホの扱い方にも
美学やルールが生まれる可能性があるが、
それまでは、「集中」への準備性のない者たちは、
隙だらけの表情を人々にさらし、
社会を汚染する公害となり続ける。
なぜ公害かといえば、
あのアホ面は、感染するからである。
それらは、動物行動学や文化人類学の
立派な研究対象になりうる。

さて、句読点の話に戻ろう。
パソコンのソフト会社とか
素人相手の印刷請負業者とかが
日本語の正書法を
平然と壊すときにいう屁理屈は、
「毛筆の手紙では、
句読点を入れないのが本来だから」
である。
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自分で字も書かず、
デジタル変換で文書を綴っておいて、
なにが「本来」か、
「なにが毛筆の手紙では」だ。
思慮の浅い者たち、
無知な者たちの屁理屈は恐ろしい。

グレシャムの法則ではないが、
「悪貨は良貨を駆逐する」現象を
いま、われわれは目の当たりに
見ているのである。
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これを「句盗点現象」
または「句投点現象」と
ネーミングしたいと思う。

しかしその一方、
広告業界では、
むしろ句点(「。」)を入れる方向にあるからおもしろい。
それは、人が使った、人が発したコトバ、
というニュアンスを示すためだろう。
さらには、
半欠けの句点を使う広告をよく見るようになった。
これは文章心理学的にも、
補助符号の歴史的にも
注目すべき現象である。
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わざと半欠けにして、
余韻を残す、実に微妙な表現法である。
このセンスは救いである。
月は、満月よりも雲のかかった月がよい、
とする日本文化に通じるのか。
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喪中の案内や年賀状の印刷を
業者に依頼する場合、
自分で打った原稿どおりのものに
仕上げにらないようなところへは
発注しないことである。
この問題は、
けっきょくは発注者の見識、
意欲、頭脳の問題だろう。

蛇足ながら、
私の周囲は、喪中のハガキが来たら、
すぐにお悔やみの返信ハガキを
書くことが常識になっているが、
そのルールを書いておこう。

 *できれば和紙のハガキを使う。
 *青墨の筆ペンで薄字に書く。
 *最近は長寿者が多いので、
  それを称える場合が多い。
 *切手は弔事の52円を使う。

≪文例≫
拝復 お婆さまのご逝去のお知らせ、
謹んで承りました。
九十七歳とは、
世界の長寿国日本の平均寿命を
はるかに超えるご長寿、
お見事な人生であられたことでしょう。
それだけに喪失感も大きいことかと存じますが、
明くる年のご一家のご健勝と
ご多幸を心からご祈念申しあげます。 合掌

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なお、「平均寿命」云々は、
比較的若いご逝去の場合には使わない。
「平均寿命よりもお若いご他界、
さぞやご無念のことでしょう」
などとはやらないことである。

気をつけたいのは、
こういう返信しておきながら、
それを忘れて年賀状を出してしまうという
大ミス。
それをやっちゃぁ~おしまいよ。
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# by rocky-road | 2015-12-20 22:50  

「ウサギ栄養学」の「専門性」。

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広島に向かう機内で読むために
栄養士向けの雑誌を持ち込んだ。
巻頭にはこの世界のリーダー2名が
それぞれに文章を寄せているので
それに目を通すつもりだった。
ところが、
この文章には情報が乏しく、
文体がいかにも硬直していて
おもしろ味のないこと甚だしい。

なぜこうも人間味のない、
読者と対話が成立しない文章が書けるのか、
ある意味では、それに感心した。
文章力以前に、
対象者に向けて話しかける姿勢が感じられない。
こういう文章しか書けない人に、
食事相談ができるのか、案じられる。
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その1人は、
10年後の管理栄養士・栄養士像として、
こう書く。
「(10年後には)
対象個人あるいは集団における
多様な人びとに寄り添っていることでしょう。
そのような姿が、地域社会、
医療や福祉等の施設、学校等、
人びとが生活するあらゆる
場所で見られるようになっていると
確信しています」

なんとも抽象的で、
当事者意識の薄い文章である。
この程度のことは、10年待つまでもなく、
一部としても、現在すでに、
そうなっているのではないか。
そもそも「寄り添う」とはどういうことか、
リーダーとしては具体的に示す責任があろう。
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また、別の筆者は、
栄養士70年の歴史を振り返ったのち、
中盤で「食物栄養学」から「人間栄養学」への
転換があったことをあげ、
まとめのところでは、
「オーミックス」だの「レギュラトリーサイエンス」だの
なじみの薄いカタカナ語をあげ、
その語を解説して、まとめとしている。

要は、研究にしろ情報にしろ、
複合的にとらえ、
多様性を見てゆくことだ、ということらしい。
さほど目新しい概念とも思えない。
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まとめくらい、
用語の解説ではなく、
自分の考えなり信念なり、
将来展望なとでまとめてほしいが、
「締め」をだれかに下駄を預けてしまっている。
栄養士のトップリーダーの文章には、
思想が感じられない。
こんなことで人の健康を支えられるのか。

「インフォメーション」も
「インテリジェンス」も、
辞書では、ともに「情報」と訳したりしている。
しかし、ニュアンスは大違い。
「インフォメーション」が、
料理の素材、
じゃが芋や玉ねぎに当たるとすれば、
「インテリジェンス」は、
それらの情報を使って料理を作ることに当たる、
……そうたとえる人がいる。
「知恵」や「知性」は、
断片的な情報素材を蓄積し、分析し、
解釈して
自分の資質の一部としたものである。
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栄養士のトップリーダーの文章は、
多分に「インフォメーション」的で、
「インテリジェンス」を感じない。
なにが複合だ、なにが多様性だ、といいたい。

少しいらいらしているうちに、
広島空港に着いた。
2015年12月6日(日)、
コミュニケーション研究会 ひろしま」主催の
セミナーで、「栄養士は、スピーチ力、
講話力をどう強化するか
。」を講じた。
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「人間栄養学」というからには、
人間の食行動を追いかける必要があるだろう。
と同時に、栄養士は、
その「インテリジェンス」を
魅力的に対象者に伝える必要がある。
10年後を考えるのであれば、
「専門性」の中に逃げ込むのではなく、
「専門性」を広げていくべきだろう。
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栄養士が「栄養素」を語るのが専門性ではない。
栄養素や食生活、さらには人生を語れるよう、
守備範囲を広げてゆくことが、
多様化し続ける社会に適応することにつながる。
多くの社会人がしている程度の対話やスピーチ、
文章力がなくて、
個人や社会の健康度を
どうやって支えてゆくのか。

コミュニケーション研究会 ひろしま」の
(以下「コミ研 ひろしま」)シリーズセミナーも、
年4回のペースで第1クールを終えた。
6日のセミナーは第2クールの初回であった。
1年ですっかり運営力つけた。
初回のあいさつ、進行、懇親会、
オプションのツアー。
どれも及第点に達した。
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「専門性」は、各職場で磨いていけばよい。
必要に応じて、いろいろのセミナーも
行なわれるだろう。
そうした多様なセミナーを企画・運営することも、
まさしく専門性の一部となっていく。

栄養士活動現場は、閉鎖社会ではない。
社会との接点は限りなくある。
その接点はコミュニケーションによって
生まれ、拡大し、強固になっていく。
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「コミ研 ひろしま」のメンバーは、
社会との接着剤となるコミュニケーション力を
数ステップ分、アップさせた。
10年後は、きょうの延長線上にある。
「専門家」栄養士は、
押しも押されもしない社会人であることを
忘れてはいけない。
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オプションのツアーでは、
人が放ったウサギたちによって生まれた
「ウサギ島」(大久野島)を訪れた。
同行の栄養士は、
「人間栄養学」も「ウサギ栄養学」もこなすので、
ウサギからは好物の野菜をねだられていた。
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# by rocky-road | 2015-12-10 22:38  

貧しき町を 通りけり

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『文藝春秋』に、
伊集院 静氏が、
「文字に美はありや」という連載を
2年近く続けている。
歴史上の人物の書を鑑賞し、
分析する、という好企画である。
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2015年9月号では、
松尾芭蕉と与謝蕪村の書を取り上げている。
書の話は別の機会に話題にするとして、
今回は、伊集院氏が紹介している
蕪村の句、

月天心 貧しき町を 通りけり
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から入りたい。

伊集院氏はいう。
「この句と遭遇した時、
O・ヘンリーの短編小説の一篇を読むような気持になった。
中世ヨーロッパのキリスト教世界の
ファンタジーを見る思いがした」
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この記事は、綴じ込んであるカラーページに
載っている筆跡と対応しているのだが、
松尾芭蕉の

  荒海や 佐渡によこたふ 天河

の原筆にも触れている。
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この2句は、
スケールの大きさで鑑賞者を惹きつける。
鳥瞰図(ちょうかんず)というのは、
人間が空を飛べない時代からあるが、
この句もまた、
文字による鳥瞰図である。
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人間には、地上にいながらも、
鳥の目で上空から自分のいる風景を
描く感性が備わっている。
それは、臨死体験のときにも現われる。
臨終の自分を囲む近親者、
それを天井の高さから見渡す自分。

それはそれとして、
「荒海や」のような大きな句を詠んだ芭蕉が、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」のように
小さな句を詠むバリエーションがおもしろい。
それが創作のおもしろさ。
大小、左右、硬軟など、
バラつくから駄作の中に傑作、
名句の中に凡作が混ざり込む。
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日本文学者で、
わが東京都北区に在住の
ドナルド・キーン氏は、
短歌や俳句をたしなむ人の多いわが国を
国民の多くが詩人である、
と評してくださった。

確かに、万葉の時代から今日まで、
プロではない、アマチュア詩人によって、
短歌、俳句、歌謡(室町時代以来『閑吟集』などに
収載されている小唄など)、川柳、
そして、各地にある民謡などがつくられ、
育てられてきた。
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近年は、マスメディア、
デジタル機器の普及によって、
アマチュア詩人界はさらに活性化している。

もっとも、
「数の増加は質の低下」というテーゼもあるから、
駄作、拙作の乱造には耐えなくてはならない。
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  妻よりも 気が利いている コンビニだ

  この村じゃ デパートですよ コンビニは

  温めて ほしいよ俺の 懐を

ある雑誌の入選川柳である。
これが入選作品だというから、
ドナルド・キーンさんには申しわけない気持ちだ。

  五七五 うめけば寝言も 川柳か

  川柳の 粋を 選者が枯れすすき (Rocky)

大衆文化の低落は、
選者や、一部のプロ、
つまりオピニオンリーダーから始まる。
選が甘い、評価が甘い。
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テレビの写真教室にしろ
書道教室にしろ、
「それじゃダメ!」と指摘すべきところを
「いいじゃないですか」などとやる。
つまり、受講者や応募者を甘やかす。

甘やかしを番組にしたのが、
たとえば「NEWS WEB」
などという番組である。
プロが出演して話している最中に、
視聴者からのつぶやきが入る。

ふだん、その問題を考えたこともないど素人が、
「なかなかやるね」「そうじゃないだろう」
程度のことを言って
画面に入り込んでくる。
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落書きは、公共施設のトイレとか、
鉄道沿線の石塀とか、廃墟の壁とか、
それでも限定的だったが、
テレビとなると、
数百万、数千万という視聴者の目を汚すことになる。
人間の品格のうち、迎合は、
もっともひっかかりやすい誘惑である。

昭和を代表する評論家、大宅壮一は、
テレビの普及を「一億総白痴化」といったが、
ここまでの白痴化を予想はしていなかったことだろう。
バカな番組は見なきゃいい。
が、時事問題をプロが語り、解説しているところに
超マチュアが乱入してくる、
いや、局側が乱入させる。
これが公共放送だというから、
あきれる。
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だが、だが……だが、
こういう文化の低落化現象に遭遇したときこそ、
夢と希望を持たなくてはならない。
若者におしなべて未来があるのではなく、
あしたの予定、
これからへの夢と希望のある人に未来がある。

「百万匹のサルに百万台のタイプを
叩かせておいたら、いつかは傑作が
生まれるかもしれない、という話は
だれでも聞いたことがあるだろう。
しかし、インターネットのおかげで、
この説が間違いであることがわかった」

といったのは、
アイラー・コーツという人だとか。
(『書きたくなる脳』 アリス・W・フラハティ著
ランダムハウス講談社発行)
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かつての日本では、
半数以上の人が、一生に数回しか
文章を書かなかった。
いやゼロだった人も多かった。
それがいまは、3人に2人以上が、
デジタル文章を書くようになった。
その感動は、なにものにも代えがたい。

デジタル機器依存症の罹患率は、
いまよりも数十倍は進むだろう。
それにブレーキがかかり、
Uターンを始めるのは10年後か、
30年後か、いずれは軌道修正をする。
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自動車が普及し、運動不足が起こると、
スポーツジムやエアロビ教室、
ヨガやジョギングなどで
対策を講じたように。

問題は、白痴の中で生きている
まだ白痴化していない人間の健康度である。
選択肢はいくつかある。

1.自分も白痴化する。
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2.自分は自分、数少ないアンチ白痴化仲間と、
  交流を続ける。

3.白痴自身にではなく、
  白痴化を促進しているメディアに属し、
  まだ白痴に感染していない人に
  抗議を続ける。
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4.いつの日かUターン現象が起こると信じて、
  なーもせずに、のんびり暮らす。

5.白痴化心配症になって、
  日々、嘆いてくらす。
  嘆きは、努めて表現する。

しかし、
「世の中、右も左も真っ暗じゃございませんか」
という中でも、
郵便会社が食文化の切手を作った。
郵便文化を楽しむ人が少なかろうと思う
専門店であっても、
一汁三菜に目が行ったのは救いである。
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「和の食文化」は、
ただの流行、といってしまえばそれまでだが、
この切手の生かしようはある。
食関係者は、この切手の意味を把握し、
話題にしてゆく価値はある。
もっとも、この仕事もそれなりの頭を使う。
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健康支援者には、
白痴化以前の人が多いから(?)、
セミナーなんかでうまく使っていけるだろう。
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最後に、もう一度、
蕪村の句で、世の中を俯瞰して、
心を清めよう。

  月天心 貧しき町を 通りけり
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# by rocky-road | 2015-12-02 23:45  

「あと押し型リーダー」という用字用語。

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10月から11月にかけて、
セミナーや旅行・出張が続いたので、
脳にやや負荷がかかった。
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10月3日の千葉県教育委員会のご依頼による
人を惹きつける『給食だより』8つのポイント」から始まり、
中旬の沖縄・座間味島へのスノーケリングツアー、
戻ってすぐに11月15日の能登教室、
栄養士という職業のリーダーシップのカタチ
能登から京都に入ってパルマローザ組と
雨の京都散策、1人で京都市動物園見物。
そして、
11月22日の遠距離クラス
「ステップアップの行動学」
23日、食生活プログラムスのシリーズセミナー
食を楽しく語るための用字用語
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セミナーの数や日数としては
さほど騒ぐほどのことでもないが、
短期間に「中身の濃い」(?!)
テキストをつくるのに
軋みの出ている脳が悲鳴をあげた。
血圧計の出番を待つまでもなく、
顔がほてって、血圧の上昇を感じた。
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編集者時代、
スタッフのミスでページに不足が出たとき、
その修復に1時間ほど没頭したあと、
急に耳鳴りが始まった。
その耳鳴りは、
以来30余年、いまも続いている。
そのときの気分に似ていた。
今度はどこに来るのか、
脳か耳か眼か、
が、セルフコントロールで、
なんとか発症を抑えた。
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それはともかく、
リーダーシップ論にしろ、
用字用語にしろ、
従来の栄養士向け、健康支援者セミナーには
なかったテーマなので、
対象者のニーズに沿ってテキストを作るのに
少なからず頭を使う。
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リーダーシップといえば、
世の中は
「オレについて来い型」(率先垂範型)が中心で、
健康支援者のような
「あと押し型」(カウンセラー型)の
研究やデータは見つけられない。
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「あと押し型リーダー」とは、
視力障害アスリートのサポーター
(伴走や合図役)、
ベビーカーを押す親などのイメージ。
ベビーカーを押す親は、
子どもが関心を示すような対象物に、
それとなく近づいて、気づかせる。
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クライアントの好ましい行動を見つけたら、
そのことを適切なコトバで指摘し、
それが評価に値することを気づかせ、
その行動を定着させ、
さらに発展への動機づけとする、
これはベビーカーを押す親の
ポジションに似ている。

うしろにいても、子に動機づけはできる。
(クライアントを
子どもにたとえているのではない。
ポジションの話である)
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「用字用語」もまた、
出版、新聞、放送関係で使われる、
専門用語といってよいが、
これを健康支援者に解説する意義と興味は
大いにある。
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食関係者であれば、
「用字用語とは、料理の食材に当たる」といえば、
ほぼわかってもらえる。
にんじんや肉を渡せば、
だれもが料理を作れる、というわけではないが、
料理になじんでいる人なら、
素材の大事さはわかる。
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発話および文章は料理に当たる。
単語を一定の順序で並べるのが言語表現である。
「ヤバイ」「バカ者」「ウチら」「自分的には」
などという素材(コトバ)を使う人の
言語表現(料理)と、
「人間」「愛」「幸せ」「利他行動」などの素材を
使う人の言語表現とは、
盛りつけの風景は異なる。
(うまいかまずいかは、食べる人にもよる)
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個人および社会の健康度をあげることを使命とし、
人々をあと押しする健康支援者が、
自分の使う言語表現素材を
見直すことに意味がある。
「胃にやさしい」「ヘルシーな食材」
「行動変容を促す」など、
素材の吟味ができていないコトバを使うことの
危うさ、弱さを認識することは、
プロのセンスをどれくらい高めることか。
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能登での「リーダーシップのカタチ」の
講義の途中で、
受講者から指摘があった。

「テキスト中に『後押し型リーダー』
という表記と、
『あと押し型リーダー』
という表記法との2つのがありますが、
なにか意味がありますか」
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テキストづくりのミスである。
「あと押し型」で統一するつもりが、
1か所、「後」となっていた。
この場合、どちらでもよいが、
不統一は好ましくない。
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横浜での「用字用語セミナー」の
1週間前に当たる、
能登での「リーダーシップのカタチセミナー」で
講師の「用字用語」の誤りを指摘する受講者の
言語センス、
あと押し型リーダーとしてのセンスのよさを感じて、うれしかった。
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# by rocky-road | 2015-11-24 16:37  

♪ 青い渚にたたずみ、いま想う ♪

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「ダイビングとは、
地の果てから始まるもう1つの旅」
と言い続けて何年になるのか。
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ダイビングは「マリンスポーツ」ではない、
などという主張を、
ダイビング雑誌でくり返し、していた時代から
何年になるのか。
詳しくは資料に当たらないと言えないが、
今回の沖縄行きは、
ダイビングを始めて51年目の
海への旅となった。
(2015年10月21日~27日)
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昭和39年(1964年)に
スノーケリングとスクーバとを
同時に始めた。
小学校、中学校の同級生、
畠山八朗くんが
ダイビングのクラブを作るというので、
それを手伝うことになった。
クラブ名を「東京潜泳会」とした。
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「マリンスポーツではない」とは言いながらも、
入会者には泳力テストを行なっていた。
確か、「プールで200メートル泳げること」
が入会条件だった。
近くのプールで、しばしば実習テストを行なった。
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当時は、「素潜り」でみっちり鍛えてから、
スクーバダイビングの技術を教える、
というのが定番コースだった。
まだ、プロショップが、
スクーバダイビングを教える、
というシステムが整っていなかった。
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だから、
アマチュアが、自分の経験だけで
スクーバダイビングを教えたりしていた。
実際、エアタンクを簡単に貸してくれた。
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いまだったら、
テロリスト並みの罰則を受けるだろうが、
エアタンクをかついで「国鉄」電車で
伊豆や三浦半島の海へ行ったりした。
タンクは、座席の下に転がしておいた。
中身は空気とはいえ、高圧ガスである。
街なかや乗り物の中では、超危険物である。
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それはともかく、
スクーバは金がかかるので、
そう簡単には、
スクーバに移行することはできなかった。
なにしろ、
ウエットスーツさえ買えない者が大半で、
真冬の伊豆の海に、
冬物の肌着を着て入る者までいたほどである。
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やむをえず、
会長がレンタル用に1着を作った。
なぜかそれは女性用で、
バストスペースがあった。
女性会員を増やしたい意向の反映だろう。
それを男性に流用することもしばしば。
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当時、ウエットスーツは手作りだった。
ウレタンゴムを買ってきて、
接着剤で張りつけけた。
しばしば剥がれるので、
接着剤は、海への旅の必携品だった。
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そんなことを繰り返していたが、
「素潜り」でも充分に楽しめることを知ることになる。
「このまま、素潜りのクラブでいったらどうか」と、
畠山会長に提案して、話が決まった。
(畠山くんは1967年に、
海とは関係ない事故で他界)
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会員は多いときで70人、
1回のツアーが30人前後、
などということがしばしばあった。
もう、スクーバダイビングへの志向性はなくなり、
スクーバダイビングへのコンプレックスも失せた。
素潜りは、
スクーバダイビングの準備的技術ではなく、
それだけで独立可能のレクリエーションであることを
深く認識するようになった。
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雑誌で海外情報に接したとき、
「スノーケリング」というコトバを知り、
「スノーケリングの東京潜泳会」
を名乗ることになった。
それまで、「スノーケル」という
器具名はあったが、
「スノーケリング」という名詞、
および動詞はなかった。
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いま、
スノーケリングがあまり普及せず、
ダイビングだけが1人歩きしているのは、
ビジネス事情によるものである。
スノーケリングの指導料は割安だから、
ビジネスにはならないのである。
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そこで、
「日本スノーケリング協会」なるものを
作って普及を図ろうとしたが、
自分のクラブに専念すべきだ、
という意見もあって、
「普及」は、のちの人に期待することにした。
(いま、インターネットをのぞくと、
そういう協会ができているようだが、
もちろん、
私たちが企画したものとは無縁である)
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地の果てから始める旅、
スノーケリング、
そして「フィッシュウォッチング」(大橋提案)、
水中写真、
……これだけの要素がそろえば、
50年くらいのことで、飽きることはない。
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スノーケリングの利点は、
1.行動範囲、海への滞在時間が長いこと。
  1日中でも海面を歩き続けられる。
 
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2.現地において、だれかの指示や引率で
  旅をしなくてよいこと。
  ダイビングの場合、安全性保持のため、
  ガイドやインストラクターに
  大きく依存することになる。
  スノーケリングは、
  水面を歩くだけのことだから、
  かならずしも引率者はいらない。
  旅は自由、気ままでありたい。
  (その分、自己責任度は高くはなるが)
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3.洋上でおしゃべりができること。
  以前は、岸に向かうとき、
  歌を歌ったこともよくある。
  「♪ 青い渚に ただすみ
  いま思う 海の広さと
  とこしえの安らぎを
  波に漂い 旅した年月を 
  海は 果てない 心の旅路~」
  (『青いマイウェイ』 大橋 改詞)
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東京潜泳会は、
スノーケリングの基本を教える、
いわば「普及型クラブ」であった。
10数年、運営したところで、
あとは後輩に任せて、
別のコンセプトのクラブを作った。
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スノーケリングのスキルを
指導するのではなくて、
そのスキルを使って何をするか、
海のハッピーな情報を、
どう人々に伝えるか、
それを考え、それを実践するクラブである。
「スノーケリングピープル」と命名した。
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当時は「大学院のようなクラブ」
などと表現した。
これは、食コーチングやパルマローザと
似たところがありそうだ。
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栄養士としての基礎的なスキルアップ
というよりも、
同業者や社会に対して、
異なる目標を設定し、
そのための思想強化と、
スキルアップを図っている、
という点において。
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そのスノーケリングを、
いま、栄養士が楽しみ始めた。
女子栄養大学出版部時代にも、
一部の栄養士とスノーケリングを
楽しんだ時期があった。
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また、『栄養と料理』の読者から、
「編集長は、ダイビング界のあの大橋禄郎さんですか」
という投書をいただいたこともあった。
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歴史は繰り返すようであり、
同じところで足踏みしているように
感じそうになるが、
実際には、たいぶ違う。
いまは、
各地に健康支援者、
栄養士を中心に
スノーケリング愛好者のネットワークが
広がっている。
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スノーケリングも万人のものだから、
愛好者の職業を
あれこれいうのは野暮である。
昔から、一定の割合で
医師も看護師も、パイロットも、
映画俳優も弁護士も、
フリーターも、プログラマーも
スノーケリングを楽しんでいる。
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スノーケリングは、
水面を歩くだけのことだから、
職業はまったく関係ない。
が、歩き方にもいろいろとある。
心肺機能を高めるために歩くのか、
スマホを操作しながら歩くのか、
「歩コム」的に、テーマをもって歩くのか、
歩き方にもライフスタイルが現われる。
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私の場合は、
野生動物と対等に向き合うこと、
そのときに感じる自分の中の動物性、
コトバや身振りでコミュニケートするのではなく、
目や、存在の仕方で共感を得る、
それこそが、人間だからできる境地である。
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そして、
波紋の揺れる浅い海に漂うときの浮遊感。
これが極楽というものかもしれない。
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「地の果て」はどこにでもあるから、
海の上を歩き続けることは
まだできそうである。
スノーケルやフィンは、
海の歩行器のようなものだから、
地上を歩けなくなっても、
海の上なら歩けるはずである。
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# by rocky-road | 2015-11-01 22:20  

命長し、雑誌編集のココロ。

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月刊『栄養と料理』が創刊80周年を迎えた。
(創刊は1935年、女子栄養大学出版部発行)
私は1966年(昭和41年)4月に
同出版部に入り、1991年まで、
25年間在職した。
『栄養と料理』は私より1歳年長である。
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その間、『栄養と料理』編集長は
1979年からの3年半と、
1987年からの4年、
合計7年半、経験した。
創刊50周年は1975年だから、
その4年後に私が編集長になった。
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次の60周年号を数えた1985年は、
広告課に席を置いていたが、
60周年を意識した企画広告をプランニングして、
クライアントの協賛を得た。
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いま、インターネットのアーカイブスで、
バックナンバーを振り返ってみると、
60周年記念号は、
ほとんどなんのアクションもなかったことがわかる。
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ともあれ、2015年10月号、11月号は、
80周年記念号、
版型もB5判からA4変型へと変わった。
版型を大きくしたいという願望は
多くの編集担当者にある。
しかし、版を大きくすれば
売れゆきがよくなる、といえるほど
出版界は甘くはない。
問題はつねに中身、
どれだけ読者の心をつかむか、
企画がすべてである。
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テレビコマーシャルをやっても、
電車の車内吊り広告をやっても、
それだけで売れ行きがよくなる、
ということはほとんどない。
1にも2にも、内容である。
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その点、
現在の編集は、
読者のニーズを
かなりつかんでいるのではないかと思う。

編集長は、
野球のピッチャーのように、
日ごろからブルペンで肩慣らしをして
登板に備えるというわけにはいかない。
ほとんどの場合、
なんとなく「次は○○だろう」という
下馬評はあるものの、
編集経験と編集長の適任度は一致しない。
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ましてや大学出版部の場合、
出版社のように
出版経験者がそろっているというわけにはいかず、
したがって、出版人としての育成も充分ではない。

2015年9月22日に
91歳で亡くなった岸 朝子さんの場合は、
主婦の友社で働いていたのを
女子栄養大学出版部が引き抜いたのである。
編集長候補を内部に求めたが、
もう適当な人材はおらず、
けっきょく、よそから連れてくることになった。
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書籍編集課に属していた私の上役は、
岸さんとは同窓生ということで
主婦の友社に、
オファーのために出かけていった。
そのときの様子を覚えている。
バブル時代に入るころに加えて、
健康に対する関心も高まっていた時期なので
部数は伸び続けていた。

しかし、編集長というのは辛い仕事で、
売れているとき、またはヒットを出したときでも、
「やったね!」と励ましてくれる人はまずなく、
成績がよくなくなると目をそらすようになる。

岸編集長のあとを受けて、
私がピッチャーマウンドにあがることになった。
女子栄養大学では、
雑誌経験がなかったので、
スタッフからの昇格というのではなく、
書籍編集課からのスライドだった。
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岸さんの訃報を伝えた新聞に、
『栄養と料理』の編集長を10年間務めた、
とあったが、それは誤りである。
同出版部では、
編集長の任期は、それよりずっと短い。
出版社ではないから、
「お前にすべて任せたぞ」
というような経営者はおらず、
なんとなく、「空気」で交代が決まったりする。

私は、横滑り型編集長となったが、
高校、大学とクラス雑誌を編集し、
ダイビング雑誌の編集を手伝っていたので、
うれしくはなかったが、
戸惑うことはなかった。
『栄養と料理』の編集長になる直前、
『海と島の旅』という雑誌を創刊の
プロデュースをしたばかりたった。
(水中造形センター発行 1978年)
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『栄養と料理』では、
摂食障害、行動療法、
生活習慣病の解説(健康の最前線)、
ライフスタイル別ウエートコントロール、
スポーツ栄養、女性の健康な生き方
などのテーマをよくとりあげた。
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いまはインターネットの時代で、
雑誌の売れ行きがよくないという。
かつて日本では、100万部を売る雑誌がいくつかあった。
が、いまは、週刊誌でさえ、
50万部を超えるのがむずかしくなっている。
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しかし、153回芥川賞、上半期の受賞作、
「スクラップ・アンド・ビルド」と
「火花」を掲載した『文藝春秋』の
2015年9月号は、100万部を軽く超えたという。

雑誌には、人の知らない世界の情報を
自分だけが楽しむという
怪しい魅力があった。
が、インターネットは、
いわば情報のアリ地獄で、
検索を始めると、そこから抜け出せなくなる。
これがタダでできると知れば、
雑誌への関心が薄れるのは致し方ない。
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いまでも、自分の情報源、
自分のアイデンティティを支える
情報源としての雑誌の価値は
少しも失われていないが、
知的階層と、そうでない階層との
ボーダーラインにいた連中は、
インターネットのほうに引きづり込まれている。

それをもって日本人の知的レベルが落ちる、
とは簡単にはいえないが、
個性や根性がフニャフニャしてくることは避けられない。
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しかし、100万部を狙うのはムリとしても、
雑誌や書籍の読者離れは、
食い止められないはずはない。

ニーズは、
人々の潜在意識の中にある。

『栄養と料理』時代、
新任の出版部長から、
「あなたたちの会議を見ていると、
思いつきで企画をしている。
商社にいた私たちは、市場調査を何回もやって
消費者のニーズをつかんだものだ」
といわれた。
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そのときの私の反論はこうだった。
「大手の企業は、そんなに調査をしているのに、
経営不振になったりつぶれたりするじゃないですか。
調査だって、その程度のものでしょう。
雑誌は、読者の深層心理を把握することです。
編集は、心理学ですよ」

いまだったら、
「脳科学ですよ」というだろう。
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月々、ロッコム文章・編集塾をはじめ、
いくつかの教室のテキストを作り、
パルマローザの『エンパル』の発行にもかかわり、
塾生の書物の執筆のお手伝いをしている限り、
加齢が編集力低下につながる、という実感はない。
(自覚症状はないものである)
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そのせいか、
古巣の『栄養と料理』を応援したい気持ちが、
このところ高まっている。

いや、『栄養と料理』だけではなく、
『マリンダイビング』についても、
季刊になってしまった『マリンフォト』、
休刊中の『海と島の旅』についても、
同じように思う。
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雑誌は「栄養」ではなく、
「情報」で命を長らえる。
いや、「心」で寿命を延ばす。
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なのに、
提供する「情報原材」を失って
命を失う雑誌のなんと多いことか。
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# by rocky-road | 2015-10-15 23:40