自己表現としての写真。

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2016年4月29日は恒例の「写真教室」で、
終日、横浜のシーサイドを歩き回り、
翌30日は「食ジム」において、
コミュニケーションスキルとしての
写真について話し合うという、
写真づくしの2日間を送った。
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写真教室はパルマローザの年中イベント。
食ジム」は食コーチングプログラムス主催の
ディスカッションセッション。
第44回 「栄養士・健康支援者の情報発信に
写真をどう使うか

(会場/横浜市技能文化会館)
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写真教室のほうは、経験者が増えたこともあって、
レクチャーは簡略にして、いきなり撮影開始。
大桟橋には「飛鳥 Ⅱ」が入港していて
ジャストタイミングであったが、
冷たい強風に見舞われたため、
撮影場所を赤レンガ倉庫付近に移した。
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写真撮影は
きわめて臨機応変が求められるジャンル。
戦場カメラマンや災害現場取材者のように
命がけで撮影をする一方、
代案があるときは、さっさとそちらにポイントを移す。
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プロの水中カメラマンの言だが、
ボートダイビングのとき、
ボートの真下に着地した時点で、
素早く撮影プランを想定しなければいけない、と。
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「なにかいい被写体はないか」
「もっとおもしろい被写体があるはずだ」と
探し回っているうちに、エアをいたずらに消費し、
あるいは潮流が速くなったり、
濁りが出てきたりして、
ロクな撮影もできないままに
その回のダイビングが終わる。
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こういうことがないように、
撮影体制ができるやいなや、
その地形、そこの海底景観の特徴を把握し、
そこで可能な撮影テーマを決めて撮影を開始する。
「見切りをつける」
「相手に期待しないでチャンスは自分でつくる」
などと表現する。
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ウロついたダイバーのほうが
おもしろいものに出会う可能性がないでもないが、
ボートの下の、かならずしもベストではないポイントで
自分の被写体を見つける、
あるいは、そこにあるものを自分の被写体として作品化する、
そういう判断をしたほうが、
結果として、手堅く、自分らしい写真が多く撮れる。
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プロやベテランほど、高望みや大ヒットを夢想しない。
できることから確実にモノにする。
そのあたりの見極めがベテランの
ベテランらしさというものだろう。
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自分に与えられた条件の中から
出来得る限り最上のコトやモノを獲得する、
この図式は、人生にも、仕事にも、
人間関係にも、趣味にも、買い物にも当てはめられる。
つまり、
水中写真にも、陸上写真にも、
いいや、きょうのゴミ捨てにも、
石にケッつまずいてぶっ倒れるときにも、
「哲学」がある。
そういう哲学は、哲学教員からは学べない。
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ともあれ、この日の撮影作品はコンテスト対象とし、
後日、賞をもって評価する。

30日の食ジム、
「栄養士・健康支援者の情報発信に
写真をどう使うか。」では、
こんな話し合いをした。
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1.手持ちの写真のうち、いちばん気に入っている、
  または大事な1点をあげるとしたら。
2.私の写真歴、いつから、どんなきっかけで。
3.「私のベストポートレート」披露。
4.フォトコミュニケーション、私の流儀。
5.健康支援者は、写真をどう活用すべきか。


「1」について、私の場合は、
  昔、アラスカ州のアンカレッジ空港内で出会った、
  オードリー・ヘップバーンの写真が
  その1点だろう。
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「3」について、みなさんの公開した写真の多くは、
  旅先や街中のスナップ、記念写真。
  メディアに公表するときには周辺や背景がじゃま。
  無地のバックで、上半身の「肖像写真」の準備は
  すみやかに始めるべきである。

  パルマローザの場合、これとは別に
  ファッション写真も用意しておく必要がありそうだ。
  オピニオン紙「エンパル」(同会の定期刊行物)に
  ファッション事例として紹介される可能性、
  その結果として、専門誌からの掲載依頼の可能性が
  あるからである。
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「5」については、私なりにまとめておこう。

1.写真とは、宇宙の森羅万象を視覚認識することである。
  連続的な、ひとときも静止することのない世界を
  何百分の1秒というタイミングで記録することである。
  食材の鮮度、食材の切り方、盛りつけのデザイン、
  それらを視覚的にコミニケートすることである
  (自分と、人とに)。
  写真技術のメリットは健康支援者に限らず万人に共通する。
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2.料理や食事写真は、
  料理教室の教材、食事相談の資料として活用できる。
  「食事相談」とはいえ、コトバ以外のメディアを
  もっと活用できる場面がある。
  埃っぽいフードモデルよりも、
  両手に持った野菜350グラムの写真、
  ハカリに乗せた350グラムの写真、
  料理に展開した350グラムの写真のほうが、
  アピールするところが大きいはずである。
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  写真を適材適所に使うためには、
  パソコンのフォルダーを
  バージョンアップする必要がある。
  「肉」「魚」「緑黄野菜」「単色野菜」
  (または第1群、第2群、第3群、第4群)
 「盛りつけ」「単品」「外食」
 「ウォーキング」「ジョギング」
 くらいのフォルダーを、
 すでに作っている人が存在していることを心から祈りつつ、
 このページを終える。
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# by rocky-road | 2016-05-01 22:10  

栄養士会はどこへ行く?

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ロッコム文章・編集塾/能登教室が
この7月で10回目を迎えるという。
年4回のペースだから、
2年半が経過したことになる。
もっとも、その前から、
単発ではうかがっているので、
それらを計算に入れると
10年近くにはなる。
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任意の栄養士会が、
活発に活動をしてるのを見ると、
地域や、わが国を代表する栄養士会に
積極的に参加している人と出会う機会が少ないのはなぜだろう、と、
しばしば思う。
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地域の栄養士会や、
さらに大きな栄養士会の内部事情は知らないが、
学会誌を見る限り、
これでは人が集まらないだろうとは、
だれもが思うことだろう。
「だれも」の中には、
当然、関係者も含まれているはずだが、
しかるべき対策が練られないまま
年を重ねているのを見ていると、
ひよっとして、いまの行き方でよいと、
少なくとも関係者は思っているのかもしれない。
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関係者といっても、
一定の任期で役員は変わるから、
新任者は、しっかり下積みを経験しないまま、
ほぼいやいや役員を引き受ける、
あるいは押しつけられるかして任につくから、
そう簡単には気合が入らないのはわかる。
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そういう組織が定期発行する学会誌は、
編集経験者から見ると、
ほかの学会誌と横並びしたくて、
精いっぱい背伸びしているように見えて痛々しい。
テーマの多くに読者(会員)のニーズが感じられない。
こういう雑誌について、
出版界では「ページに風が吹いていない」という。
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掲載されている論文の多くは建前論で、
読者の1人1人と語り合おうという姿勢が感じられない。
役員をはじめ、多くの筆者の論点整理がうまくいっていない。
文章がぎこちなく、下手くそ過ぎる。
編集部のチェックが入らない、
成り行き任せの編集である。

レイアウトがなっていない。
1行が23字というのも、
栄養士の一般的な読解力からすると長すぎる。
なかには1行が43字、なんているページがある。
ビジネスを伴う版元だったら、
こんな雑誌には読者がつかず、編集長は、即クビだろう。
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「投稿規定」が載っているページがある。
これも、どこかの学会のまねなのだろうが、
A4ページの左右1行48字のベタ組みの7ページ。
こんなにハードルを高くしておいて、
何を期待しているのか。
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それでいて、ある人が応募したところ、
受け取ったでも不採用でもなく、
返事がないままにボツ。
自分が編集長であったときを振り返ると、
想像不可能な横柄な態度。
何様のつもりか。

この十数年、
あるNPO法人が発行する機関誌の編集のお手伝いをしてきた。
ここでは4人のプロの編集経験者に外部委託をし、
発行済みの雑誌の評価と、
次の号の企画についてアドバイスを受けるために
定期的にミーティングを続けている。
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このほか、いくつかの組合から
機関誌の新任編集スタッフ向けのレクチャーを
依頼されたこともある。
そこでは、新聞社や雑誌編集者を講師に
そのつど講義を受けているという。

アマチュアが、
プロの評価を受けることなく、
どこかの学会誌のまねをしようと思っても、
そうは問屋が卸さない。
まねをするにしても、それなりの素地がいる。
このケースでは、
目線は他誌のほうに向いていて、
自分の読者のことなど考えてはいられない。
読者不在の編集は、こうして踏襲される。
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NHKテレビの「プロフェッショナル」ではないが、
「編集のプロとはなにか」と問われれば、
「読者の深層心理と向き合うこと」である。

・・・・・なんていう話を、
ビジネスの成功者が耳にしたら、
「ちゃんちゃらおかしい」というだろう。
消費者ニーズの的確な把握は、
ビジネスの基本中の基本。
それなくして仕事なんぞ、できるわけはない、と。
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が、世の中には、
閉店への道を歩んでいるデパートがあり、
遠からず、買収されるスーパーマーケットがある。
ということは、ニーズを読めない、
言い換えれば、人の深層心理を読めない人間が
少なくない、ということである。

学会の役員や編集担当の救いのなさは、
自分がビジネスにかかわっている、という自覚がないことである。
「食コーチング」は力説する。
「栄養士はサービス業である」
「対人コミュニケーションを基本スキルとする接客業である」と。
本業はなんであれ、
学会の役員になったからには、
精いっぱい会員にサービスをしなければならない。
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自分が平会員だったときに感じていたこと、
不満に思ったことを緩和すべく、行動すべきである。
もっとも、やる気のない人というのは、
人の話さえ聞きたがらない。
人から参考意見を聞こうという人は、
そのこと自体、才能と考えるべきである。

会員不在の学会誌、会員不在の学会。
こういう難題と直面したとき、
現在の担当者だけを責めてはいけない。
「♪こんな女にだれがした♬」という歌が終戦直後にはやった。
そう、そんな人間にした先輩がいるはずだ。
と、源流を訪ねていくと、
けっきょくは「伝統だから」「前例に沿って」となる。
これぞ日本文化の典型である。

現アメリカ大統領ではないが、
まずは「チェンジ」である。
前任者がどうあれ、
まずは、変えることを最初の仕事にすべきである。
どう変えるかはあとから考えればいい。
まず「変える」ことをコンセプトにする。
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次に、しかるべきプロのアドバイスを受けるべきである。
1回、2回ではなく、
継続的にアドバイスを受け続けることである。
学会が企画する研修会なども、
Aという講師にaというテーマの講義を依頼し、
Bという講師にbというテーマの講義を依頼する。
これを何十年も続けている。

摂食障害に「ドクターショッピング」という困った傾向がある。
自分を甘やかしてくれるドクターを求めて、
次々とドクターを変えてゆく。

栄養士の会も、多分に「講師ショッピング」傾向がある。
1つのことをしっかり勉強しない。
次はA、次はBと、
テーマや講師はルーレットのように代えていく。
これでは1つのことさえ身につくはずがない。
A講師にaの講義、bの講義、cの講義を受けたほうが、
実効性がある。

ルーレット式は、
「セミナーコレクター」のような、いやなタイプをつくる。
「ああ、A先生の話、聞いてたことあるわ」
「B先生ね、聞いたことあるわ」
「あなた、C先生、知らないの?」
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こういう懸案は、
どう解決していけばよいのか。
それは、小さなグループが、
エネルギッシュに、やりたいことをやっていけばよい。
それがいつかは、新しい潮流をつくっていく。
パナソニックもホンダも、
かつては小さな町工場だったという。

小回りが利くということは、うれしいことである。
いいや、本当のところは、
ディスカッションのシステムさえ維持できれば、
どんなに大きな組織でも、
小回りは利くものである。

# by rocky-road | 2016-04-20 00:11  

「ヘルスコミュニケーション」というコトバ。

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6月5日(日)に行なう
パルマローザのブラッシュアップセミナー、
「『ヘルスコミュニケーション力』をどう強化するか。」
のために、テキスト作りを始めた。
(横浜/神奈川近代文学館 講師 大橋禄郎)

ヘルスコミュニケーション」というコトバを
数年前から使っているが、
そのコトバを掲げる学会があることはあとから知った。
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文章にしろ、講義にしろ、
あまり使い慣れていないコトバを使うときは、
まずはコトバの定義をすることから始めるのを習慣としている。
学会がある以上、
学会の定義に従うのが原則であろうし、
マナーでもあろう。
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きょうは、
「ヘルスコミュニケーション」について、
BGF(バック・グラウンド・フラワー)をバックに、
論じてみよう。
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インターネットで「ヘルスコミュニケーション」を
検索していたら、
こんな説明をしているホームページにたどり着いた。
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「ヘルスコミュニケーション学は、
医療・公衆衛生分野を対象としたコミュニケーション学です。
日本国内では、医療コミュニケーション学、
医学コミュニケーション学等と呼ばれることが多いのですが、
英語圏ではHealth Communication
という言葉を用いるのが一般的です」
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これは「ヘルスコミュニケーション学」の
解説または説明であって、
「ヘルスコミュニケーション」
そのものの定義とはなっていない。
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考えてみれば、「ヘルスコミュニケーション」などは、
読んで字のごとし、で、
あえて定義するまでもない、ということなのかもしれない。
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しかし、このコトバ、
いろいろの概念を包含しているので、
整理しておく必要を感じる。
WHOの「ヘルスプロモーション」の定義を
「ヘルスコミュニケーション」の定義に
転用しているホームページもあったりするので。
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私がイメージする「ヘルスコミュニケーション」は、
医療従事者のためのそれではなく、
軸足を個々人に置いて考察したいテーマである。
そこでさっそく定義すれば、こうなる。
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「個人、集団が行なう健康にかかわる、
または健康を左右する
言語・非言語コミュニケーション行動をいう。
個人においては、発声・発話のカタチ、
言語化された思想、感性、非言語的な生活行動などを対象とする。
社会的には、国、地域、行政、マスメディア教育現場、
各種コミュニティ、事業所などにおける言語・
非言語コミュニケーション活動を対象とする。
研究テーマとしては、健康度という観点から
個人や集団のコミュニケーション行動を考察したり、
改善したり、評価したりする」(2016年4月 大橋)
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かつて、摂食障害の症例をいくつか見てきたが、
それを「コミュニケーション障害」と考えたことがある。
親子のコミュニケーションの過不足、
夫婦のコミュニケーションの過不足が、
子の摂食障害の強い要因となっている例が
少なくない、と見た。
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のちに、ある学者が、
「不登校も摂食障害も発生原因は同じだ」
といっているのを聞いたことがあるが、
私には、その言わんとする意味がよくわかった。

摂食障害の人からもらう手紙には、
親(とくに父親)の悪口を延々とつづるものが
少なくなかった。
不登校も、学校でかかるストレスを
緩和するだけのコミュニケーション環境が
家庭にないか、弱いために、
自分のへやに閉じこもってしまう、
というプロセスを想定できる。
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ここでいう「家庭」の主体は夫婦である。
夫婦のコミュニケーション不足や歪みの影響が
いかに大きく子に及ぶか、
その事例を少なからず見てきたように思う。

「ヘルスコミュニケーション論」を振りかざすことを
厳に自制しなければならないが、
「いじめ」とされる自殺の中には、
家庭なり学友なり、教員なりとの
コミュニケーションの質と量に
問題がある場合も考えられる。
そういうケースについては、
自殺も、
ヘルスコミュニケーションのテーマとなりうる。
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個人の言語行動にしても、
対話中に、「でも」といって発話する人と
「なるほど」といって発話する人とでは、
現在、将来にわたって、健康度はどうなるのか、
というようなテーマでアプローチができる。
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現人類はアフリカに発生したといわれるが、
北の、かならずしも生活環境に適さない
乾燥・寒冷地域に展開した人類のほうが、
健康寿命が長い、という現状を、
どう理解すればよいのか。
「健康」をビジネスにする者として、
考えてみたいテーマを
スタートラインに戻って再スタートしてみたい。

もうしばらく、
テキストを練り続けることになる。
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# by rocky-road | 2016-04-06 23:42  

水族館はお好きですか。

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ロッコム文章・編集塾/能登教室の終了後、
能登島水族館を案内していただいた。

まったくの偏見だが、
日本海側の水族館にジンベイザメがいるとは思わなかった。
別に、ジンベイザメが特段好きというのではなく、
ジンベイザメのいる広い水槽が好きなのである。
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昔、日本海側のある県の水族館に行ったものの、
淡水魚の割合が多く、
なんとも陰気で幻滅したことがある。
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時代は変わって、どこの水族館でも
広い水槽に暖流系の魚の群れを泳がせるようになった。
そういう点では、どこも似てはきている。

能登島の水族館を見ていて、
ふと、以前行ったカリフォルニアにある
モントレー水族館に似ているような気がした。
地元の人によると、
提携しているようなところもあるらしい。
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ウイークデーでもあったのか、
大水槽の前に立っても、
ほかの見物人がカメラのフレーム内に入ってこない、
というのも大きな魅力だと、
つくづく思った。
中の魚よりも人の頭のほうが多いくらい
というところばかりを見てきたからだろう。

能登島では、
水槽内の底をダイバーが清掃していた。
混んでいてはそういうことはできないだろう。
サメなどの急襲を防ぐために、
人間がケージに入って作業を進めていた。
人間がそこにいることが、
私にはうれしかった。
めったに撮れない写真が撮れた。
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ここでも、
イルカのショーをやっていたが、
トレーナーの解説が
まったくのお子ちゃま向きなのは、
国内共通のように思えた。
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甲高い声で、
「さあ、あそこを飛び越えられるかなぁ~」
とやっている限り、
子どもたちは、ショーは楽しむにしても、
水生動物への関心を深めることないだろう。
そして、小学高学年になるころには、
子ども扱いする大人を敬遠するようになり、
結果として、ショーを子ども向きと
認識するようになるだろう。
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ナレーションの文章の見直しをすすめたい。
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カナダのバンクーバー水族館では、
解説タイムを「セッション」と呼び、
シャチのいるプールの水温や、
彼らが食べる食料の種類や量について
静かな声で説明していた。
社会が、大人を育てようとしているように感じた。
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いま、
モントレーの水族館の写真を探したが、
ラッコなどのショットがないので、
慌て始めた。
フィルムをデジタル化していないのだろうが、
さて、そのフィルムはどこにあるのか。
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いくつかの水族館、
そしてホテルの水槽などで撮った写真を
ランダムに掲げておこう。
撮影地は、能登島、沖縄、葛西(東京)、九州、
ハワイ、バンクーバー島、
そして、お台場、旧日航ホテルなど。
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# by rocky-road | 2016-03-30 00:00  

もう、タラの芽の天ぷら、食べましたか。

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ロッコム文章・編集塾、能登教室の9回目が終わった。
2014年4月から、
3か月に1回のペースで満2年になった。
受講者も20余人程度で安定、
運営もスムースになった。
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この教室では、
司会をいろいろの人に体験させて、
そのワザを磨き合っている。
最初は原稿棒読みの司会ぶりも、
いまでは季節の話題から始まり、
前回の講義の振り返りをするなど、
柔らかく参加者の気持ちを高めてゆく。
なかなかの準備性である。
季節の話題は、こんなふうに。
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 「3月と言いますと、
 私の家は農家でございまして、
 農業の始まりの月でもあります。
 私が能登に嫁いで来ましたときは、
 まだ五右衛門風呂で、
 マキでお風呂を沸かしていました。
 このお風呂には、
 人間以外のモノも入ります。
 モミを品種ごとにネットに入れて、
 五右衛門風呂の湯壺に水を張って
 そこに浸す、そこから農作業が始まるのです」

 「持っている知識に
 新しい情報を取り入れ形として行く、
 3月は、そういう始まりの月だと感じています」

農作業と、今年の勉強の始まり。
苦心の作というべきか。
ローカルの味もよく出ている。
司会は本谷(ほんや)佳美さん。
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今回の授業メニューは、
1.宿題発表(前回の受講の感想)
2.非言語記号のリテラシー。
3.文章を音読することの意味。

「非言語記号のリテラシー」は、
ふだん、見聞するテーマとは異なるので、
やや理解に戸惑っている感じがした。
少し補っておこう。
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人間にしろ、動物にしろ、
人生は「いつか来た道」を行くのではなく、
1歩1歩が本人にとっては初めての道である。
その道を五感を使って、安全に、
かつ効率的に進んでゆく。
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かすかに吹く風に春の到来を感ずる、
路傍のタラの芽に目をやる。
採って夕食の一品にしようか。
そういう環境認知は、
まずは動物的な感覚によって行ない、
そして言語的なプログラムにしてゆく。
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感じたものを言語記号に置き換えてゆく。
それは人間の知的作業である。
読書も知的活動だが、
言語化されていないもの、
いや、目には見えないものを感じるプロセスも
知的作業である。
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路傍に頭を出しているタラの芽は、
明らかに視覚に入る対象物だが、
見ても見えない人もいる。
見える、見えないは、
その人、そのときによって決まる。
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見えた人が「あ、タラの芽だ」と
感じた範囲では、
タラの芽を「認知」したまでだが、
さらに、それを採って夕食の一品にしよう、
「そういえば、家族の好きな料理だ」と
考え始めるあたりから、
「非言語的対象」を
「読み解く」(リテラシー)ことになる。
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なぜタラの芽が「非言語」なのか。
「『タラの芽』という名がちゃんとついているではないか」
でも、その名を表示して頭を出しているわけではない。
見ても、それがなんだかわからない人も多い。
自然界の万物は名札をつけて存在なんかしていない。
それらを知覚すること、
それを「非言語記号を読み解く」という。
厳密にいうと、タラの芽が「記号」となるのは、
それに着目し、認識し、
自分および人とのコミュニケーションのメディア
として使う段階からである。
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地下にあるカウンセリングルームに、
予定どおりクライアントが訪ねてくる。
「ここがわかりましたか」と問いかける。
患者さんが、病院の玄関から、
カウンセリングルームに来るまでの行動は、
患者さん本人にも、とくに認識されてはいない。
が、「ここがわかりましたか」という一言で、
カウンセラーと患者さんの共通話題になる。
これが言語化であり、
患者さんがカウンセリングルームに
たどり着くまでの道のりが「記号」となる。
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講義で
「世の中には、コトバがついているものよりも、
コトバがついていないもののほうが、はるかに多く、
その数は無限である」と
何度でもいうのは、このことである。
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 「2016年3月21日、
 石川県能登にある、
 介護老人福祉施設『千寿苑』に集まった、
 ロッコム文章・編集塾/能登教室の受講者
 20数人の人たち」
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というコトバ(フレーズ、表現)は、
いま、ここで表記する以前には存在しなかった。
「草食系男子」も「肉食系女子」というコトバも、
「ベルギー同時テロ」というコトバも、
10年前、あるいは1週間前には
この世には存在しなかった。

それらを予測することが
「非言語記号のリテラシー」ではない。
相手を思いやるコトバ、
「雨にぬれなかったですか」
「体重が減って、スリムになったこと、
どなたかに指摘されたりしました?」
「桜前線は、例年より北上がスローペースになるかも」
など、いろいろの事物、
いろいろの現象を読み解くこと(理解すること)、
そういう能力のことをいう。
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それがなぜ必要なのか。
それは、自分の世界を広げること、
自分の世界を活性化すること、
コミュニケーション環境を豊かにすること、
さらにいえば、
人生を刺激的にすることの
ベースになるからである。

作詞家・阿久 悠さんは詠んだ。

 「透明人間、あらわる あらわる」
  ……
 「嘘をいっては困ります
 あらわれないのが透明人間です」
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そこで言おう。
 「弱気になっては困ります。
 人間は、透明なものでも見えるのです。
 記号化能力があれば、
 見えないものが見えるのです。
 それが非言語記号のリテラシーです」

次回の能登教室は7月23、24日。
10回記念の企画中とか。
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終了後、能登島にある水族館を訪ねた。
自称、水族館評論家としては、
大いに楽しめるところだった。
ここに2頭のジンベイザメがいるなんて、
初耳だった。
能登は、奥が深いのか、
いいところの出し惜しみをする土地柄なのか。
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# by rocky-road | 2016-03-25 14:44  

リアリティのあるトレーニングを。

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読売新聞の人生案内は、
質問内容も、それへの回答内容も、
食事相談や健康相談を行なう健康支援者にとっても、
大いに参考になる。

 *太った妻をやせさせたいと思い続けて30年という夫、
 *高齢になって年賀状書きはもう限界という男性、
 *夫の死を願ってしまう50代の主婦、
 *人前で話すのが苦手という30代の女性社員
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などなど、当塾や各地でのセミナーでは、
しばしば宿題として取り上げ、受講者の回答を求めている。
「人前で話すのが苦手」については、
3月6日の、
コミュニケーション研究会 ひろしま≫の
セミナーで、みなさんに発表していただいた。
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第三者の質疑応答に対して、
あとから別の回答をするのは、
いわば「あと出しジャンケン」だから、
ずいぶん有利であるはずだが、
健康支援者は、概して
まばゆいばかりの純粋性を持っているので、
回答は、新聞紙上以上に美しくなりがち。
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「妻の肥満を気にする夫」に対しては、
「よく話し合って」「いっしょにウォーキングをしては?」
となりがちであり、
「人前で話すのが苦手の女性」に対しては、
「人前で話す機会をつくればよい」や
「親しい人と思って話せば緊張しない」であったり。
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30年も干渉し続けた夫の評論家的態度を
イメージしないから、
「いっしょにウォーキングをしたら」などと
能天気な回答になってしまう。
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アカの他人の前で話すのを苦手とする人に、
「親しい人と思え」というのはムリ。
思うだけで解決するのなら、
「自分は世界一の大金持ち」
「世界一の幸せ者」の1フレーズで、
地球上に争い事はなくなるだろう。
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ロッコム文章・編集塾の塾生に限らず、
日本人は「心得論」を好む傾向がある。
「こう考えればなんとかなる」と。

たとえば、天災。
「忘れたころにやってくるから」と、
メディアは記念日的にいっせいに放送をし、
忘れることを抑止する。
しかし、毎年、同じ日時に
注意を喚起しているうちに、
それが慢性化して、むしろ耐性ができてしまう。
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こんな場合、行動科学的に考えれば、
避難訓練以上の対策はない。
防波堤を作ったり、陸地を高くしたりと、
同じ場所に同じ津波が来る、という想定は、
発想自体にも問題がある。

各地に活断層が走っている日本のこと、
ハザードマップを作ることは不可欠だとしても、
それに基づいた避難訓練をしなければ、
非難想定地図も「情報の宝」の持ち腐れである。
訓練にしろトレーニングにしろ、
そこにはリーダーが不可欠。
しかし、リーダーは現実には不在。
そこで、メディアが疑似リーダー努めることになる。
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小学生低学年時代、
空から落ちてくるB29投下の焼夷弾(しょういだん)を
見つけ次第、火が本格的に噴き出す前に
「防火用水」(家々の外壁に沿って作った水槽)に
火の出る頭から漬ければ火は消せる、
という実習を校庭で受けた。
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以来、空襲があるたびに、
落下直後の焼夷弾と遭遇することを期待したものである。
トレーニングというのは、困ったもの。
焼夷弾の落下を嫌うのではなく、
「さあ来い」という反応が起こる。
小学2年生の、一種の条件反射である。
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行動科学は、
心得だけでは実際行動は導き出せないことを教えている。
人前で話すのが苦手なら、
ペットの前で10回、
動画収録用カメラの前で10回、
家族の前で20回、
友人の前で50回くらいの
トークトレーニングによって、
緊張感への耐性をつくっていくのが基本であり、
それを避けていては、
克服は時間がかかるばかりである。
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「忘れない」「語り継ぐ」と
100回コメントすることよりも、
1回のトレーニングのほうが実効性は高い。
しかし、リーダー不在の社会では、
災害経験地域以外では、
トレーニングの実施はまず期待できない。
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「机上のプラン好き」型の現在の日本では、
まずは、
片っ端から災害対策マニュアルを作ることから
始めるのも一法である。
ひょっとして、出版不況対策の1つにはなるだろう。
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寝たきりの人の避難訓練マニュアル、
子どもや年寄りの避難訓練マニュアル、
ペットや飼育動物の避難訓練マニュアル、
家族の避難訓練マニュアル、
幼稚園児・小学校生の避難訓練マニュアル、
地域の違う恋人との避難後再会マニュアルなど。
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ロッコム文章・編集塾は、
キャリア不足のため、
ここには参入できず、
論理的思考とコミュニケーションスキルアップへの
ささやかな貢献を続けるのが現状である。
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# by rocky-road | 2016-03-14 20:55  

はからずも、この道。

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工藤昌男さんの、
ダイビング界への貢献を確認し、
称える会を開いた。
題して「工藤昌男さんの『海からの発想』を語る会」
2016年3月5日、6時30分~8時30分
新宿区「ウイズ新宿」3階会議室。
タイトルは、工藤さんの著書の書名にちなんでいる。
発起人は、山崎由紀子さん(マナティーズ)と私。
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工藤さんは、1930年、東京生まれで、この3月で85歳。
戦後のレクリエーションダイビングの草分け世代のお1人。
アメリカの進駐軍から
直接習った日本人を第1グループとすると、
その人たちから、さらに習った日本人は第2グルーブといえる。
工藤さんは、
1950年代の前半にダイビングを始めたというから、
第1と第2グループの中間あたりに属するのかもしれない。
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しかし、工藤さんはダイバーとしてよりも、
ダイビングや海を科学的に解釈する論者として、
海洋雑誌やダイビング雑誌、
その他のイベントなどで活躍した。
それがダイビング関係のリーダーたちに、
刺激となった。
自分たちが後輩たちを
どの方向へ導いていくべきかを考えるときのヒントになった。
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もっとも、
工藤さんが著書の中で書いているように
「ダイバーは科学的発想は得意とはいえない」から、
多くのダイバーは、
海を科学するというような楽しみ方はしなかった。
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そうではあるが、
少なくとも私は、
工藤さんの発想には納得するところが多かった。
カメラマンが被写体を手作りして
「自然風」を装う「ヤラセ」議論がはやったとき、
工藤さんは「水中でストロボ撮影することだって
ヤラセといえばいえる」といった。
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確かに、ストロボ光は自然そのものではない。
「それを自然を撮った写真」といえるのか。
工藤さんは、ヤラセを肯定したわけでも
否定したわけでもない。
工藤さんにとって重要なのは、
発想の着眼点であり、ユーモアである。
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ビデオカメラが普及したころ、
「これからは動画の時代」
といった人がいたらしいが、
工藤さんは「人が見ているのは動いている世界。
それをそのまま撮ってもおもしろくはない。
止まっている瞬間は見られない。
それをキャッチするのがスチール写真だから、
その価値は少しも落ちるものではない」
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これらの発想は、
いまも私の写真論の下敷きになっている。
また、1975年に「水中8ミリフェスティバル」を
発足させたが、
このアイディアも、
工藤さんのアドバイスに大きく依っている。
このサークルは、8ミリフィルムの衰退に伴い、
発展的解消をし、
1983年には「水中映像サークル」へと移行した。
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時代は8ミリフィルムから、
ビデオ映像へと変わっていた。
スチール写真をどうするか迷っているとき、
アメリカでは「スライドショー」を楽しんでいる、
という話を工藤さんから聞き、
ビデオとスチール写真を楽しむサークルとした。
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当日の工藤さんからは、
1964年以前、私が出会う前のことも
お聞きしたかった。
その1つは、
かつて三木鶏郎の「冗談工房」に属する
放送作家時代(永六輔、野坂昭如氏らも仲間)の話。
あるいは、海洋博のときの
「くじら館」のプロデュースの話など。
1時間くらいはかけて聞きたかったが、
あの雄弁家/工藤昌男氏も
気力・体力は万全ではなかった。
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この会のコンセプトは、
個人の業績を確認し、
それを個々人の歴史の1ページにすること、
そして、できれば、のちの時代の人に
語り継ぐこと。
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近年、「語り継ぐ」は、流行語になっているが、
その場合、ほとんどが悲劇を対象としている。
日本人は人の業績を
肯定的に評価することが得意でない。
「伝記」という文学ジャンルが不活性なことからもわかる。
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それこそ人を「動画的」に見ているから、
ピシッと静止画像で見られない。
人の業績や人生を静止画像で見るには、
コトバが欠かせない。
コトバは目では見にくい「業績」というものを
ストップモーションで見ることを可能にするし、
保存することをも容易にする。
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それにしても、
これまでに、功績のある人と、
フェイドアウト的に別れることは幾度あったことか。
そういう別れ方は、
自分の能力の低さの証明ではないのか、
そう思うようになった。
こういう反省から、
工藤さんの功績をみなさんと共有したいと思った。

当日の工藤さんは、
「はからずも」をキーワードにして
スピーチをしたかったらしい。
「はからずも」とは「図らず」と書く。
「意図せずに」「たまたま」「偶然にも」
という意味。
つまり、気がつけばこの道を選んでいた、
ということだろう。
ギラギラしない、謙虚な表現。
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工藤さんらしいキーワードだが、
そういう人を
「なりゆき任せ」が嫌いで、
「図る」ことの好きな私が
引っ張り出したことにおもしろさを感じた。
それが人生における役割分担というものだろう。

この経験を、
みなさんも語り継いでくれることだろう。
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# by rocky-road | 2016-03-08 00:41  

ネッシーは、いると思いますか。

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2016年2月28日(日)開催の
パルマローザ主催、
第9回・輪読会では、
『食生活雑誌(栄養と料理)は、
どんな視野を持っていたか。』
というタイトルで
1979年1月号の『栄養と料理』のほか、
いくつかの記事をピックアップして読んだ。
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1.『栄養と料理』からのごあいさつ
2.考案者に聞く 四群点数法の心
3.カコミ記事 俵万智さんの紹介
4.一栄養学者の見た 日本人の食生活40年
5.ペットを太らせてしまう人の〝食感覚〟は?
6.結婚披露宴で若い2人に贈る ヘルシースピーチ
7.ネッシーの食生活 巨大生物が生き残る条件

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35年以上も前の月刊誌の記事を
いまになってみんなで読むのは、
けっしてノスタルジーや業績顕示のためではない。
「食生活雑誌」と位置づけた月刊誌が
どういう読者を想定し、
どういう話題を提供したか、
それを知っていただきたかった。
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その心は、
「食は食卓の上だけの世界ではない」である。
「食」を小さく小さくまとめると栄養素の話になる。
無限といえるほど多様で広大な食を、
数種の栄養素の話に持っていくのは、
楽といえば楽である。
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食を小さくまとめたがる人の発想は、
記憶型の、いわゆる「お勉強のできる」おバカに多い。
物知り顔でおバカを隠し、
微細な栄養素の話で優位性を保とうとする。

人は、食べるために生きるのか、
生きるために食べるのか、
そういう発想は不得手で、
自分が習った、ほんのわずかな知識に頼って、
「そんな食事ではたんぱく質が不足しますよ」
「かぼちゃはいいけれど、糖質に気をつけましょう」などと
ダメ出しをする。
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食生活雑誌が、
なぜネス湖に棲むという
「ネッシー」という恐竜の存在の有無を話題にしたのか。
それは、食を通じて生物学的思考法、
あるいは科学的思考法を
読者に提示したかったからである。
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1.1個体が、数億年も生きるはずがない。

2.子孫をリレーしながら生存するためには、
  ネス湖の広さは充分か。
  数百頭、数千頭の恐竜が生息する湖で
  20世紀まで、だれもその集団を見なかったのはなぜか。
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3.そもそも、それだけの大コロニーを生存させるだけの食糧は、
  ネス湖のどこにあったのか。
  魚なのかケルプなのか。
  そんなにいる魚を人間は食料とせず、
  黙視してネッシーに与えてきたのか。

そう考えると、ネッシーの存在はかなり怪しくなる。
しかし、「見た」という人はおり、
「写真に撮った」という人はいる。
そこからテーマは精神医学や写真光学へと移る。
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私が『栄養と料理』の編集長を任されたのは1978年4月、
それから、書籍編集の仕事を兼務しながら、
翌年の新年号に向けて準備を始めた。

ネッシーは、2年目に当たる
1980年の新年号に登場した。
ネッシーの存在を「食」の視点から科学する。
食を通して見る世界は広い。
微量成分に目を向けることを避けたわけではなく、
視線を右に左へと振った。
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それは、
遠回りをしているようで、
自分の食、人間の食、
そしてこれからの健康について考える
発想力の芽になるに違いない。
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2016年現在、
あいかわらず「栄養素士」は多い。
それが専門性だと思っている進歩のなさ。
それが仕事のすべてなら、
「栄養士」の人口はいまの10分の1程度でも
多すぎるくらいだろう。
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栄養士が、
ネッシーほどに、といわなくても、
200年、500年と生存し続けるには、
現在の日本の健康環境、食環境を直視し、
それを前提にして、
人々を刺激し続けなければならない。
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人々に、食を通して生きる楽しさ、
生きることの意味を実感してもらうには、
自身が食を楽しみ、
生きがいを広げていく必要がある。
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パワー不足、元気不足、笑顔不足、
コミュニケーション力不足の栄養士に
人の健康を増進するだけの能力があるとは思えない。
輪読会は、
ネッシーからパワーを得る意味があったと思う。
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もう1つの発見は、
1990年の『栄養と料理』4月号に
「結婚披露宴でのヘルシースピーチ」という記事が載っているが、
多くの識者が登場しているものの、
どれもがなんともつまらない内容であったこと。
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もっとも、
今日でも、健康支援者のスピーチは、
これらからあまり進歩しているとは思えない。
その意味では反面教師の意味はある。
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読書は、
やはりいつの時代も、
そしていくつになっても、
人生の地図であることに変わりはない。
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# by rocky-road | 2016-03-02 21:37  

ブログの文体論、なるか。

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最近、政治家や芸能人など、
著名な人のブログの一部が
ニュースの中に登場することがある。
それを読むと、
その日食べた食事の感想、
ある出来事に感じたことなど、
要するに「日記」の文体で書いてある。
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広辞苑に当たっても、
「ブログ」という熟語は
第5版以前には収載されておらず、
第6版に、こうある。
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 「(ウエブ・ログの略)ウエブサイトの一種
 個人や数人のグループで運営される日記形式のもので、
 情報提供や意見交換などの
 コミュニケーション機能が付加されている。」
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昔、ダイバー仲間のホームページに
ブログを書いてほしいと依頼され、
何回か書いたが、写真がほしい、と
そのつど言われて、ポジフィルムを
スキャンすることの面倒さもあって中断した。
決定的な理由は、別の仲間から、
「書き方が雑誌の連載的だ」と
指摘されたためだった。
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そこで初めて人のブログをのぞいたが、
文字どおり日常茶飯事の「日記」で、
そういうものを公開する人の勇気に顔が赤らんだ。
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「ブログ」の成立事情は知らないが、
超私的な日記を公開するのは、
自分の未熟さ、自分のアホさ加減、
自分の世界の小ささを一般公開することになるわけだから、
そうとうの勇気か、厚顔かが必要になる。

どこで、なにを食べた、
こんな店に行った、
○○国はケシカラン……、
なんていう内輪の話題を
社会に向けて言い放つなどは、
裸で街を歩くより恥ずかしい。
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出版にかかわった者の感覚からすると、
世間に発表する文章というものは、
その大半は「商品」であるから、
当然のこと、商品価値を問われることになる。
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この場合の商品価値とは、
水が流れるように落差がついていること、
読んだ人が「なるほど」「へぇ~」と感じる程度の
お得感を感じることを指す。
どんな店で何々を食った、うまかった、
と言う程度の話ではゼニはとれない。
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しかし、デジタル通信機器の普及は、
クシャミやゲップ、独り言などまでも
全世界にばらまくことを促すことになった。
そういうものを「言論の自由」などと
言ってもらっては困る。
ゴミは、指定の日に、指定の場所に、
きちんとまとめて捨てるのが公徳心というものである。
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もっとも、デジタル情報は焼却しなくても、
ハエがたかったりカラスに荒らされたりすることはなく、
人にはほとんど迷惑はかからないから、
いくら垂れ流しても「公害」にはならない。
人はそれらを読まなければいいだけで、
実害はない。

もしあるとすれば、
有能な才能を
中途半端なブログ書きに費やしてしまう場合だろうか。
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そこは社会的バランスシートの問題で、
一生、文章を発表する機会がありえない人が、
日記を書いて精神的安定を得ることのメリットと、
ブログなどに時間を浪費せず、
自分の得意を延ばすことのメリットと、
どちらが社会にとっての儲けになるか、である。

それは、前者、
つまり文章を書く機会のなかったはずの人に
書く喜びを与えるほうが、
メリットは大きい。
ブログ書きで自分の才能をすり減らしてしまう程度の者なら、
それで終わってしまったとしても、
社会にとっては大した損失にはならないだろう。
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それにしても、
社会の知的財産という観点からすれば、
ブログにも文体があり、
テーマがあり、起承転結があることは、
教える必要はあるだろう。

「人をワクワクさせるブログ文章論」
というようなテーマをアピールするには、
やはりインターネットではダメで、
出版の力を借りたくなる。
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なんて思うのは、
インターネット世界にとっては
よそ者の言なのかもしれない。
このブログにたどり着く人間の数と、
雑誌や書物の記事に興味を示す人の数と
どちらが多いのか。
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いや、数ではなく、
どちらが影響力を持つのか、
しばらく様子を見てみたい。
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# by rocky-road | 2016-02-17 00:01  

壊れていませんか、壊していませんか。

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ノンフィクション作家の柳田邦男氏が
壊れる日本人
(サブ/ケータイ・ネット依存症への告別)
という本を著わしたのは2005年である。
(新潮社発行)

それから10年たったが、
「ケータイ依存症」
(精神医学者/小此木啓吾氏の造語)の
蔓延はさらに勢いを増していて
終息の気配はまったくない。
それどころか、
サイバーテロという、
病気のレベルを超えて、
戦争そのものの破壊行為まで地球規模に広がった。
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文明病は、ウイルス性の伝染病と違って、
ワクチンの作りようもなく、
人為的に止めることはむずかしい。
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ところで、
人間が「壊れる」とは、どういう状態を指すのか。
上記の本にはその定義はないが、
要約すれば、
「人間的な、または動物的な
個体間の接触を軽視または無視し、
現実と仮想との区別がつかない状態で
自己中心的に行動し、
社会への積極的参加を避けるか、
社会の安定性を揺るがすような傾向」
ということになるだろうか。
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それによって、
個人が寿命を縮めたり、
死に至るようなダメージを
受けたりするかどうかは、
いまのところはわからない。

パソコンやケータイが普及してから
日本人の寿命が短くなり始めた、
という調査や研究はないから、
寿命への直接的な影響はないかもしれない。
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現在の問題は、
本人の病状というより、
風土病的に、社会によからぬ影響を与える、
というところで蔓延を続けるという点だろう。
もしケータイ依存症が「病気」であるとすれば、
個人の生命を奪う以前に、
社会の精神的健康度を下げるという、
かなり変わった病気である。
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そういえば、昔、「社会病理学」というのがあった。
それは非行、犯罪、売春、自殺、家出、遺棄、
貧困、スラム地域などの研究である。
しかし、どれもこれも
問題が大きすぎ、複雑すぎて
取りつく島がなく、存在理由を失った。

つまり、社会の問題は個人の問題の累積であり、
個人問題は社会的因子によって助長される。
いわばギリシャ神話の「ウロボロスのヘビ」、
自分の尾を飲み込み始めたヘビは、
最後、どうなるのか。
尾が残るのか、頭が残るのか、
終点のない話である。
日本では「イタチごっこ」という。
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してみると、
「ケータイ依存症」も、
個人と社会の追いかけごっこが
延々と続くことになるのかもしれない。
それを食い止める一案は、
電車内での通話を禁じたように、
車内でのケータイいじりもやめさせる、
つまりルールを作ることか。

個人はともあれ、
社会の側から人間の「崩壊」を防ぐ方法。
人間の社会は、
結果として、個人の自由度を抑制する方法で、
社会が壊れるのを防いできた。
タバコを道に捨てること、
街なかで奇声を発することなどを
軽犯罪として罰する、といった具合に。
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それしかないのかもしれない。
しかし、ルールに抜け道を作るのも人間だから、
私的な空間や、
一見ケータイには見えない、
書物型ケータイなどというものを考案するはず。
したがって、
ウロボロスのヘビは、永遠に生き続けることになる。

過日、ラーメン店で食事中に、

ケータイ操作中の男が入ってきて隣に座った。
注文品がくるまでの時間はもちろん、
ラーメンとギョーザが来てからも、
操作をやめない。
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そこでこちらは、社会病理学を始めた。
食事に手をつけるまでに何分かかるかを計測開始。
6分間。そこで食事開始。
食事時間は7分。
ギョーザが並んだ盛りつけ皿に
じかにタレをかけてしまった。
小皿に1個ずつ運ぶ手間を省くということか。

これを「病気」と言うにはムリがある。
こちらにはまったく迷惑が及ばない。

かなり前に、
ラーメン屋のメニュー表示の更新を
手伝ったことがあるが、
主(あるじ)がこんなことを言っていた。
「せっかく作ったラーメンを
いきなり箸でグチャグチャにかき混ぜる人がいるんですよ。
あれをやられると頭にきちゃう」
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このとき、
ラーメンにも「盛りつけ」があることを知り、
ラーメン屋にも作品意識があることを知った。

けっきょくのところ「壊れる」とは
民度を低下させること、
民度低下に加担しない、ということになるのか。
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「民度」というのはあいまいなコトバで、
広辞苑では「人民の生活や文化の程度」としている。
このコトバは、発展途上の時代には
モチベーションをあげるものだった。
成熟社会に入って、
むしろ軽いコトバになった。

パリやニューヨークの地下鉄や地下道で
目につく落書きの多さ、
これぞ成熟社会の民度なのか。
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成熟社会には、
個人が自発的に壊れる自由がある。
しかし、
社会を壊す自由までは与えられていない。
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健康関連でいえば、
にわか知識のドクターたちの
怪しいフードファディズム本に触発されて、
それにブレーキをかけなければならない立場の先輩栄養士が
おかしな本を出すようになった。
「玉ねぎ水」がどうだとか、
塩分が日本人を滅ぼすとか。
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日本人は、けっきょくは
壊れるか、滅びるか、しかないのか。
警鐘は大きいほうがよいが、
誇張や脅しもまた、
文化を壊す作用があることを銘記したい。
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若い栄養士よ、
どうか先輩栄養士に壊されませんように。
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# by rocky-road | 2016-02-04 23:05