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「食」は「文化」か「健康」か。

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2013年12月21日の読売新聞に
恒例の「読者が選んだ日本10大ニュース」が
紹介された。
10位までの順位は以下のとおり。
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①2020年東京五輪・パラリンピックの
 開催地が東京に決定
②富士山が世界文化遺産に決定
③参院選で自民、公明両党が過半数獲得、
 ねじれ解消
④楽天が初の日本一
⑤長嶋茂雄氏と松井秀樹氏に国民栄誉賞
⑥伊豆大島で土石流災害、死者35人
⑦消費税率8%へ引き上げ決定
⑧楽天の田中投手が連勝の新記録
⑨阿部首相、TPP交渉参加を表明
⑩ホテルなどで食材偽装の発覚相次ぐ

30位までがランクアップされているが、
「和食 日本人の伝統的な食文化」は入っていない。
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10位に食材偽装問題、
16位に都知事の不明朗な5千万円の借用、
30位に「徳洲会」の選挙違反事件などの
政治的なダークな事件が入って、
和食文化が入っていない。
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日本人が、自分たちの食文化にいかに無頓着かを
露呈しているような結果にも思えるが、
そうではなくて、
和食が文化遺産に登録されたのは12月4日だから、
調査のタイミングがズレた、ということではないかと思う。

してみると、
10大ニュースを12月21日に発表するのは
正確さからいって不適当なのではないか。
個別的な政治スキャンダルが10大ニュース史に残って、
和食文化の世界遺産登録が消えてしまうというのは、
いかにもアンバランスに思える。
やはり、1年が終わった時点で振り返るべきだろう。
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いやいや、ニュースなんていうものは、
新聞社の商品アイテムなのだから、
どの商品が売れた、なんていう、コマいことをいうのは
大人ではない、と自制すべきなのか。

それはそれとして、
和食文化の世界遺産登録は、
和食料理店のイニシアティブで進められたらしく、
これを解説し、補強する論者の多くは
料理人である場合が多いように思う。
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健康支援者としても、
和食文化論を確認しておかないと、
小さなボタンのかけ違いが、
先へ行って、大きな開きが出てきそうな懸念がある。
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事実、味噌がどれぼとからだによいかを
やや強調し過ぎる料理人の言、
理念としての地産地消論を
和食文化そのもののように強調する料理人の言などを
メディアで耳にした。
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「一汁三菜を基本とする」などとフツーにいうが、
「汁は毎食飲まないといけないのですか」
「スープも汁ですか」「カレーもスープと考えていいですか」
「パン食でも汁やおかずを組み込めばいいのですか」
などの疑問を呈する若者が出てくるのは時間の問題。
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実際、いい歳をした料理人が「いちじる さんさい」などと
テレビでいっていたから、
時間の問題などとノンキなことをいってはおれない。
やるのは「いまでしょ」なのである。
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暗黙の了解になっている「一汁三菜」の
前提になっているご飯のことも、
定義に含めておく必要があるだろう。

まだ「試考」段階だが、こんな定義が必要かもしれない。
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 「和食とは、米飯(ご飯)におかず、という構成を基本とする
 献立および食事を指し、これに1日1~2回の味噌汁または
 すまし汁を添える。食器は茶わん、箸、椀を基本とする。
 おかずとは、ご飯をおいしく食べるための一定の味のある
 動物性食材、植物性食材を調理したものをいう。

これらのおかずのうち、動物性の食材または、
 大豆を素材とする、良質たんぱく質源となる食材を
 使ったおかずを『主菜』といい、野菜、芋、海藻、きのこなど、
 植物性素材を使ったおかずを副菜という。
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 『一汁三菜』という場合、
 ご飯、味噌汁、主菜一品、副菜二品のセットをいう。
 実際には、ご飯に主菜一品、
 ご飯に主菜一品、副菜一品がついたものなどがある。
 これに汁がつくことで、『一汁一菜』『一汁二菜』
 などのように献立の呼び方が変わる。

 食材の選び方、調理の仕方、献立、盛りつけ方には
 季節、朝・昼・夕に応じた暗黙の決まりがある。
 『春は春らしく』『夏は夏らしく』という
 季節感が重んじられ、さらに、『朝は朝らしく』など、
 一定の慣習が守られている。
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 使用する茶わんや箸は、家族間では個人ごとに決まっていて、
 それは重要なこととして守られる場合が多い。
 食事の前に『いただきます』、
 食事が終わったあとには『ごちそうさま』という。
 それは、食物に対し、生産者に対し、作ってくれた人に対する
 感謝を意味する。
 『いただきます』をいうとき、
 合掌や、それに近い拝礼をする人もある。
 食事中は原則として中座することは禁じられる」
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健康上の意義としては、

1.ご飯を主食とすることで、
  おかずの食べ過ぎを抑止することになる。
  日本人にとってステーキが『主食』になりえないのは、
  水分を含んだ米で、先におなかを満たすためである。
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2.茶わん、箸という食器を使うことで、
  フォーク、ナイフを使う余地が狭められている。
  箸を自在に使って食べられるおかずとしては、
  焼肉であり、すき焼きであり、ハンバーグであり、
  とんかつである。
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3.ご飯は味がうすいため、しょうゆや味噌、ソースなどの
  調味料で味つけされたおかずの助けが必要。
  焼肉やすき焼きは、この条件に合っている。
  日本人が好きな肉料理といえば、肉の味が染みた野菜などを含むおかずである。

  肉のうまさを「やわらかくておいしい」と表現するのは、
  口の中でご飯と混ざったときの、咀嚼しやすさ、
  日本人の習慣的な歯の強度などからくる
  必然的な味覚によるものと考えられる。
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4.茶わんに盛ったご飯、箸の使用は、
  日本人の食事を「欧米化」から守ってきた。
  「欧米化」の砦とさえいえる。
  戦後、いろいろの面でアメリカ化した日本人だが、
  言語を英語に変えなかったこと、
  土足で家に上がらなかったこと、
  ご飯、茶わん、箸を捨てなかったことなどは、
  奇跡的ともいえる文化的成功例。

  皿に盛ったライスは、少しずつ「茶わん化」されつつある。
  「茶わんよ、箸よ、よくぞがんばった!!」
  皿を口を持っていって食べる食べ方について、
  洋風マナー研究家がどういおうと、
  これぞ和風文化の防御行動なのである。

  社内公用語を英語にした会社の従業員の食生活、
  健康行動がどう変わるか、
  そうはしなかった会社との違いを
  数十年がかりで追跡研究されることが望まれる。
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《補足》
辻調理師専門学校が、
全国の20~60歳代の男女572人に対して
インターネットで行なった
「和食ならではと思う料理」としてあげられたものは、
  ①すし 44%
  ②刺身 9%
以下、味噌汁、天ぷら、煮物、肉じゃがと続いた。
(読売新聞、12月23日)
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このように、
和食を一料理という部分だけで見るのは、
正確ではないし、
あまり意義があるとはいえない。
天ぷらやすき焼き(牛鍋)、肉じゃがなどが
純和風かどうかを論じることは生産的ではない。

それにしても、「和風ならでは」のバラケよう。
1位が44%で2位が9%、
なんとまとまりの悪い調査だろう。
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これぞ、ご飯と茶わんを中心とした食生活の適応力。
ここに軸足があれば、料理単品の国籍がどこであっても、
さしたる問題ではない、ということの好例。
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ラーメンや「カレーライス」、焼き肉が
日本を代表する料理になったように(?)、
ギョーザやハンバーグ、とんかつ、サイコロステーキ、
レバニラいためなどが和食と考えられる日が
きっとくるだろう。
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このあたりから、
日本料理店の考える「和食」と、
健康支援者が考える「和食」とは、ズレ始める。
健康支援者は、「健康」をとるか「文化」をとるか。

それは愚問。
「健康維持を阻害しない範囲で文化を尊重する」
が答えだろう。
それによって、文化遺産をとり消されたとしても。
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なぜなら、文化とは足跡ではなく、
現在進行中の歩行であり、
次の1歩をどこに置くかのヒントなのだから。

by rocky-road | 2013-12-23 22:50  

『日本人らしさの発見』

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去る12月1日に行なわれた
パルマローザ 栄養士・健康支援者のための輪読会
「人間を多角的にとらえるために関連書物を読む。」
のテキスト書籍を選ぶ段階で、迷うことがあった。
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以前、NHKラジオ第2放送の深夜番組で放送された
『私の日本語辞典』の一部を
引用するかどうか、それで迷った。
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大学時代の恩師、芳賀 綏(はが やすし)先生
(現・東京工業大学名誉教授)の話がおもしろく、
「人間を多角的にとらえる」ためには、
ぜひ、このユニークな視点を伝えるべきだと思った。

が、アナウンサーのインタビューに答える形式であるため、
輪読会のテキストにするには、
テープ起こしをし、若干のリライトも必要と思われた。
時間的な制約もあって、今回はあきらめた。
2011年11月の放送だったが、
「本にでもなっていてくれれば……」と惜しんだ。
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ところが、輪読会直後に、先生から電話をいただき、
新著が出たので、数日中に届くはず、との情報を得た。
予想どおり、例のラジオ番組の論説を文章にしたものだった。
『日本人らしさの発見』という書名。
大修館書店、2013年12月20日発行。2000円。
出来立てのホヤホヤ、いや、奥付の発行日前の到着である。

読み始めたところだが、
ラジオで予告編を聞いているので、
内容はだいたいわかっている。
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いま、日本人が世界の文化を語るとき、
「欧米対アジア」という図式を前提にしがちだが、
この本では、「万物を愛で包容する日本の《凹型文化》(オウ)」
に対して「排他的な《凸型文化》(トツ)」という、
新しい対比で見るおもしろさを提示する。
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同じアジアでも、日本と中国では、メンタリティがかなり違う。
その違いの線の引き方に「発見」がある。
一言でいえば、気候風土の違いである。
日本は湿度の高い湿潤地域に属し、
中国の一部を含む、ヨーロッパの一部は
乾燥した大陸に属する。
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乾燥地域では牧畜が行なわれ、
ここから動植物の見方、接し方、
そしてコミュニケーションの仕方までもが
違ってくる。

風土の違いは、神の数の違いを生み、
神の居場所さえも変えてしまう。
凸文化圏では神は天にあり、
凹文化圏では八百万の神が、山や川、木や草、
石や土など、身近なところに宿る。
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凹文化世界に属する日本人の特徴は、
自然と和合し、季節感を愛し、「間」や「気配」を重んずる。
相撲の立ち合いは、行司が「始め!」と指示するのではなく、
両者の呼吸が合ったときが開始のときである。
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邦楽にはコンダクターがいない。
それぞれが、ほかの奏者と呼吸を合わせて
演奏が展開する……これが間であり、呼吸であり、調和である。
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こうしたきめの細かさは、
確かに気がねや気苦労、気づかれを生む要因でもある。
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対する凸文化圏の顕著な特徴は、
「愛と憎しみの文化」であったり、「対立と闘争」
「征服と復讐」であったりする。
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 「プロローグ」は、こんな文章で始まる。

 「二一世紀は日本の世紀であるべきです。
 それは、日本が何につけても世界一になろうといった、
 無邪気な、そして無謀な話とは違います。
  日本の文化、その根底ある日本人の「気心」のよさ、
 美風が、もっと広く深く、世界に理解され、そして、
 その気心に根ざした日本の文明が、地球を、人類を救うのに
 大きく役立つべき時期が来ている、という意味です。」(中略)
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 「地球上の諸民族の〝気心〟などと言い始めたら、
 千差万別ではないか? たしかに細かく見れば、
 違いだらけとも言えるが、また大きく類型(タイプ)
 に分けることが可能です。と言えば、ああ、東洋対西洋か、
 アジア対欧米でもいいや、日本人は東洋(またはアジア)の
 側だろう、と片づけられることが多かった。まさに、その先入観に
 間違いがある。」(中略)
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 「人間性の根本は不変なもので、だからこそ文化圏の別を超えた
 相互理解と協力ができる。その確信を一方に抱きつつ、
 文化圏による生き方・価値観の差異という現実を的確に知り、
 そこから将来への対処の方向を見定めることによって、
 日本人の使命、人類社会の役立ち方の自覚が生まれます。
  そのような、民族の知恵、いわば<民族的教養>を
 深めることに資する本でありたい。執筆のベースにある
 筆者の念願と、強い使命感はそれです。」
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読みやすい文章で、深い洞察が語られる。
先生は、言語文化論を専門とされるが、
今度の本では、文化人類学的な視点で、
日本人、凹型文化を中心に、
凸文化との比較文化論を展開する。
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コンパスを大きく広げて、
地球物理学者、古美術鑑定家、文化人類学者、
民族学者など、矢継ぎ早に関連分野の諸説を引用しつつ
論述する。が、ご自分の軸足はしっかりと定まっている。
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若き日、先生から引用の仕方を仕込まれた。
自分のグラウンドだけで戦う窮屈さや弱さを指摘された。
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今回の先生の文章は、自他の文章がかなり入り混じっているが、
ご自分の歩調が乱れることなく、
マラソンレースで、2位以下を大きく引き離し、
独走態勢(一人旅)に入った優勝ランナーのように
軽快に飛ばしてゆく。
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読んでいて、ランナーズハイになったかのように
ぐんぐんと読み進め、陶酔状態になる。
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こうした陶酔体験を、次回の輪読会で
受講者のみなさんに味わっていただきたいと思っている。

by rocky-road | 2013-12-13 22:59  

またまた、テンで話にならない話。

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過日、知人が転居したので、
その転居通知を作ってあげた。
近くの「はんこ屋」さんに原稿を持って行って、
「これを版下にして印刷してほしい」と
頼んできた。
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が、数日後、校正が来たのでそれを見ると、
すっかり打ち直してある。
どうやら「版下」(そのまま印刷にかけられる原稿)の意味が
わかっていなかったらしい。
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いずれにしても、全部打ち直すことになっている、
との回答。書体やデザインが微妙に違っている。
それはがまんしたが、
なんと句読点を全部除いてある。
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「原稿どおりといったのに。なぜ、勝手にそんなことをするの?」
と聞いたら、「句読点は、普通は入れませんから」ときた。
「これだな」と納得した。

わが塾生が、結婚の案内や報告ハガキを作ったら、
句読点を全部外されてしまった。
「困る」といったら、「縁が切れる」といわれて
押し切られたという。
世の中は、完全にそうなってしまっているのだ。
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数日前、
NHKラジオを聞いていたら、
アナウンサーが、年賀状の書き方について、
調べてきたことを語っていた。
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いわく、
「『賀正』や『迎春』のような2字熟語は、
目上の人に使うのは好ましくない。
『謹賀新年』『恭賀新年』などの4文字がふさわしい。
また、『賀正』や『謹賀新年』の文字のあとに、
『おめでとう』などとは書かない。
『賀正』などが、すでに祝いのコトバだから」
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いやな予感がしてきたが、予感は当たって、
こんなことを語り出した。
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「句読点は打たない人が多いようです。
もともと筆で手紙を書いていた時代には
句読点は打たなかったので……」
「入れるかどうかは、人によって判断すればよいでしょう」
という追加コメントはあったが……。

天下のNHKがこんな放送をしたからには、
ますます手紙、ハガキ文化からは
句読点が消えてゆくことだろう。
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100年以上前、
明治政府は、それまでなかった「国語」を創設した。
お雇い外国人から「国語がないのはおかしい」と
指摘されたりしたことが一因……、
こう、司馬遼太郎氏が語っていた。
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このころ、「である体」や「です・ます体」が生まれた。
また、「わたし」や「わたくし」
「あなた」や「彼」「かの人」「彼女」などの
人代名詞が統一されてゆく。
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句読点も、徐々にではあったが、
教科書に採用され、小説家が積極的に使い始めた。
しかし、新聞記事には、1945年までは
あまり使われることがなかった。
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コトバは、多数決で決まるから、
「見れる」「食べれる」「寝れる」
「ヤバ」「うま」「すご」「まじ」に抵抗があっても、
恥も外聞もかまわず、使った者が主流となる。
「悪貨が良貨を駆逐する」のだ。
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印刷屋さんもアナウンサーも、
国語の知識や理念が充分とはいえないから、
自己判断などする由もなく、
無意識に世俗的な風習を受け入れてしまう。

印刷屋さんくらいならば仕方がないが、
NHKまでが「年賀状には句読点はいらない」と公言する。
日本を代表する公共放送局にも、
国語を守ろうという意識がないという現実。
これはかなり悲しいことである。
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国語の現象として見届けておきたいのは、
パソコンで新春のあいさつを印字し、
文例はパソコンのコンテンツを使い、
宛名もラベルで量産する、というハード任せの時代に、
毛筆時代の書式だという理由で、
句読点は打たない、という流儀を
そこだけは踏襲するという珍現象。

日本の国語教育では、
事務文書や各種案内ハガキの書き方の勉強には手が回らず、
あるいは、
感動のある名文鑑賞に軸足を置いた教育だったので、
無意識的にせよ、実用的な文書を低く見る傾向があった。
そういうものは、職場や業者任せておけばよい、と。
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さらに、いまのように、
一般人が文書を印刷する機械も技術もなかったから、
それらの軽印刷は、いきおい業者任せになった。
その結果、国語のあるべき姿などにまったく関心のない業者、
軽印刷屋や結婚式場が形式を決めることになり、
それが主流となるばかりか、
一般人を指導・教育するという、おかしな図式になった。

補助符号の研究者の書いた文章の句読点を除いたりするのは、
キャディーさんが
プロゴルファーにアドバイスをするようなもの、
グラウンド整備員が
マー君に投球ホームを教えるのに等しい。
出過ぎている。
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人が「文化」を考えるとき、とかく伝統に着目し、
過去のほうにポイントを置くが、
文化は、つねに現在進行形である。
案内通知に見る「句読点文化」は、
まさしく現在進行形どころか、未来をつくりつつある。

これぞ民間伝承の生きたモデルを
ライブ感覚で体験することができる事例である。
「正月に昆布を飾って長寿を願う」
「節分に歳の数だけ豆を食べる」
「霊柩車を見たら親指を隠せ」
「歯が抜けたら屋根の上に投げろ」
そういうしきたりが、どうして生まれるのかを
いま、見ることができる幸運を喜ぶべきだろう。
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それを信じるかどうかは、個々人のメンタリティ、
または教養の問題。
「パソコンに遊ばれるな」は、私の口癖。
ハードに収められている機能を
めったやたらに使う状態をいう。

パソコンの書式は、
国語の専門家が参加してできているわけではない。
国語表記のあるべき形を示そうとしているものではない。
パソコンに使われている人は、
内蔵されているフォントや記号、色を抑制もなく使う。
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「ロボットに使われる時代」は、未来の話ではない。
すでにロボットに使われている人が、
日本には何千万人といる。
「近未来」ではなく、「いまでしょう!!」

年賀状や喪中のあいさつに句読点を省く人は、
近代の国語表記法を乱す人ということになる。
自転車の暴走、ところかまわずのケイタイ使用、
タバコやガムのポイ捨て……、
そういう民度の低下は、国語の軽視にも現われる。
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そういわれるのがイヤなら、
文語体の文章表現を学んで、草書か行書を習って、
もちろん毛筆で手紙を書くことをすすめたい。
晴れて句読点を省くことができる。

そんなことを書いていたら、
喪中のあいさつハガキが来た。
見たら全文に句読点が打ってある。
私の説を伝えたことのない人の案内である。
これは奇跡か、砂漠でオアシスに出会った気分である。
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国語文化よ、
戻るのか進むのか、
それを見通す機会、
2014年元旦がもうすぐやってくる。

by rocky-road | 2013-12-07 23:49  

「義理人情」は人間以外の世界にも。

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パルマローザが開催する「輪読会」も、
この12月1日(日)で第5回を数えた。
今回のテーマは「人間を多角的にとらえるために
関連書物を読む。(その1)」
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テスキトとして3冊を使った。
 ①『進化と人間行動』
  長谷川寿一、長谷川眞理子著
  東京大学出版会
  2000年4月発行
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 ②『文化人類学のすすめ』
  船曳建夫編
  筑摩書房 1998年3月発行
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 ③『食と栄養の文化人類学』
  ポール・フィールドハウス著
  和仁皓明訳
  中央法規出版 1991年2月発行
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1日で3冊を読むのは困難で、
序文など、一部を読むのが精一杯である。
『進化と人間行動』は30ページ分。
頭から少しずつ、順番に音読してもらい、
それについて補足したり、質問を受けたりして
進めてゆく。

今回選んだ3冊は、
生物学の基本と、文化人類学のさわり部分。
その狙いは、人間(または生物)をどう見るか、
人間の文化とは何か、ということを考えること。
よく議論される、人間の行動のうち、
どこまでが生得的(せいとくてき・うまれつき)なもので、
どこまでが文化的なものか、
それを専門学者の解説で考えてみること。
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今日、一部の栄養士は、
「栄養素士」から「ヘルスサポーター」または、
「モチベーションサポーター」へと、
軸足をシフトさせつつある。
そのとき、大前提となるのは、
「人間とは何か」について、
一定の常識を備えておくこと。
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人間を理解することは、何十万冊の本を読んでも
不可能だが、しかし、たとえば食行動のうち、
どの部分が本能的であり、どの部分が文化的であるのか、
という程度の疑問を持つくらいの視点がないと、
とても人間を理解することはできない。
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軽々しく「行動変容を促す」などと
恐れを知らない表現を公然としているようでは、
とても人間をサポートすることなどできはしない。

「食」は本能であるとともに、
高度に文化的な行動である。
ひと口に「文化」といっても、
コミュニケーションから健康観、宗教観、
レクリエーションまで、多様である。
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今回、みなさんが関心を示したのは、
動物の個体間に見られる協力行動(利他行動)の部分。
魚では、異種の魚のからだや口の中をクリーニングする例、
チスイコウモリでは空腹の仲間に自分の栄養源を吐き戻して与える例、
ライオンやチンパンジーに見られる協力関係の例。
ここには人間でいう「借り貸し」「義理人情」に似た行動が見られる。

こういう知識があると、
人の食行動の問題点をあげつらうアプローチが
生物学的にも、文化的にも、
いかに不合理なものかがわかるだろう。
よい点を見つけ、それを指摘することは、
一種の「利他行動」、相手に満足と感謝の心を生む。
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それが、よりよい行動を生み出すのは、
われわれ地球上の多くの動物に共通する心理(本能)だろう。
自分を支持してくれる相手を識別し、感謝の気持ちを抱き、
なんらかの方法でお返しをする……。
この場合の「お返し」は、
相手の期待に自発的に応える諸行動である。

食コーチングがいう「肯定的指摘」は、
否定的なアプローチに比べて、
はるかに協力的であり、利他的である。
それゆえに効果が上がっている。
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参加したみなさんが関心を示したことのもう1つは、
文化人類学以前の、博物学的、知的好奇心が
人間間に差別や格差を生んだという記述。

北半球に住む、文明が進んだ人たちは、
南半球に住む人たちの、文明的でない部分に
強い関心を示しながらも、
いつの間にか、遅れていることを楽しむようになった。
その感覚は、いま、われわれの中にもある。
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裸で暮らす人、矢で動物を仕留める人、
肉を生で食べる人などに示す強い興味。

やがて、それらの人を、
遺伝的にも「劣った人間」と見がちになった。
その感覚が植民地を生み、民族浄化の思想を生んだりした。
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文化人類学は、遅れている人間文化を研究する学問ではないと、
筆者は強調している。
現代社会にも、文化の違いがあり、
その違いは、
人間の、そしてヒトという動物の多様性の現われである。
多様性は、可能性にも通じる。

違いを「価値」の上下で見るのではなく、
バリエーションとして見る。
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生物学にしろ文化人類学にしろ、
「フィールドワーク」という、
無心に取材をする調査手法をとる。
そこに住む人たちをときどき訪問して聞き出す、
というのではなく、対象者と生活をともにしながら、
何か月も、何年もワークを続ける。

それほど慎重に研究をしても、
ときどき相手のウソに引っかかって、
事実とは違う研究発表をする例もあった。
なかには、研究者自身が、ウソの研究発表をすることもあった。
現場には、別のチェッカーがいるわけではないから、
インチキもありうる。
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ここで、進行役の私がみなさんに問うた。
「国民健康栄養調査」も、一種のフィールドワークだろうか。
でも、調査用紙を渡して「記入しておいてください」などとやるのが、
「調査」といえるのかどうか。
それでも、何十年も続けていくことで、
それなりの効果はあげている。
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さらに聞いた。
食事相談にも「フィールドワーク」の要素はないだろうか。
もし、丹念に対象者のライフスタイルを聞き出していれば、
その要素がないとはいえない。
が、「栄養指導」に関しては、
断然、フィールドワークの要素はない。
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とすると、実態を把握せずに対策があるのだろうか。

本も、読み方によって、いろいろのことが発見できる。
それにしても、相手は人間。
1回の輪読会ですむはずもない。
これはシリーズして、何回か続ける必要を感じた。
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by rocky-road | 2013-12-02 22:31