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サルの料理法を発見した人

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4月8日の朝刊で三戸(みと)サツヱさんのご逝去を知った。
97歳であったという。
面識のある方ではないが、
サルの芋洗い行動を発見した人として知っている。

1953年、宮崎県串間市沖にある幸島(こうじま)に住む
野生のニホンザルの中に、餌づけされた芋を
わざわざ海水につけてから食べる1匹がいた。
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洗うためではなく、海水で塩味をつけていたのである。
やがてその行動が群れ全体に広がっていった。
サルの世界にも文化があることを発表し、
研究者から注目された。
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この地域のサルをもともと研究していたのは、
京都大学の今西錦司氏らのチームだった。
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この地域では、昔からサルを大切にしていたので、
三戸さんも、教員をしながらサルとかかわっていた。
そのことから、今西チームをいろいろの形でサポートした。
と同時に、ご自身もフィールドワークに参加し、
いつのまにかサル学者になっていった。
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ところで、「料理」をどう定義すればよいのか。
食文化研究者として知られる石毛直道氏は、
著書『食卓文明論』の中でこう述べている。
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「……料理ないし調理とは、いかなる行為であるかを
具体的に述べた定義がないのである。
それは、料理の概念が、それぞれの文化によって
異なるからである。たとえば、英語のcookという語彙は
普通には日本語の『料理』と同義語であると解釈されるが、
厳密にいえばcookとは火熱を使用した料理をしめす
ことばである。したがって、日本料理の華でもある
刺身はcookの範疇にはいらない食べ物である」

食文化が違うと、「料理」の定義が違ってくるのは、
当然といえば当然。が、グローバル化が進むにつれて、
「料理」の定義もまた、国際化することだろう。
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ともあれ、日本語の定義に従えば、
ニホンザルの芋洗い行動は、料理の始まりといえる。
似たようなことは、たとえば野生のネコの例でもいえる。
イリオモテヤマネコは、とらえた鳥を食うとき、
口が当たる部分の毛をひとまずむしり取ってから
食い始めるという。

これに対して、エジプトヤマネコであったか、
一口食っては口に入った毛を吐き出すという。
つまり、イリオモテヤマネコは下ごしらえをしてから
食事を始めるが、エジプトヤマネコでは、
いきなり食らいつくのだという。
(記憶が正しければ、動物学者の小原秀雄先生に伺った話である)
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さて、幸島のサルだが、
三戸さんの娘、森 梅代先生も、霊長類学などの学者である。
1987年、『栄養と料理』11月号のために、
森先生を愛知県犬山市にあるモンキーセンターでインタビューをした。

当時、『栄養と料理』では、
先生に「サルのフィールドから」というタイトルで
短期連載をしていただいていた。
これに関連して、「編集長訪問」というコーナーにも
ご登場願うことにした。

幸島のサルの食性などを中心にお話をうかがった。
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大橋「先生が調査されている幸島のサルは、
海辺にいるのですから貝をとったりするのでしょうね」
「ええ、一枚貝をとって食べます。
それから小さいタコをとって食べたりしています。
サルは、もともとあまり海の物を食べる動物では
ないのですが、人と長くつき合っているうちに、
いろいろの食べ物を覚えていきます。(中略)
幸島のサルは最近は魚も食べるんです。
一度味を覚えるとおいしさがわかるようです」

というようなお話をうかがった。
いまも記憶に残っているのは、
メスのサルにも順位があり、
代々、その地位は子に継承されるとのこと。
(某国はサルを学んでいるのではないと思うが)
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サル社会に餌不足とか異常気象とかの異変があると、
上位、中位、下位のグループのうち、
中位あたりに位置するグループの死亡率がいちばん高い、
というお話である。
その理由はわからないが(当時時点で)、
先生の推測では、
「中くらいというのは
いつも上のほうを向いていて、自分も上と
同じようなことができると思っているかもしれません。

ところが結果としてはできなくて、
その辺がプレッシャーになりやすいのではないか。
一方、順位の低いサルは最初からあきらめていて、
かえって自分の好きなことができる――
そんなところがあるのかもしれません
しかし、この点はまだわからないことが多くて、
研究中というところでしょう」
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もう1つ、このインタビューで記憶にあるのは、
餌づいたサルは、人から餌をもらうほうに軸足が移って、
自分で野生の植物(木の葉や実など)を採らず、
人が来るのを海辺でずっと待ち続けるようになる、
というお話だった。

さて、当時、なぜ『栄養と料理』が
サル学者や文化人類学者、脳学者などの生き方や
研究内容を紹介したかというと、
食を栄養学からだけ見ているのでは、
思考は深まらず、視野が広がらないからである。
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「専門」とは、アリの目で砂糖の1粒を見つめることではなくて、
ときには鳥の目で、上空から砂糖の1粒を見るとどうなるか、
そこまでをも自分の視野に入れて思考を深めることではないだろうか。

(このブログを書くにあたって、
森先生の消息をインターネットで訪ねたら、
2011年3月に、名古屋文理大学の副学長として、
最終講義をされた、という情報に行きついた)
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by rocky-road | 2012-04-14 22:10  

桜を、どう撮りましたか。

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近くの公園で、
幹からぽつんと飛び出して開花しようとする
桜のつぼみを撮っていたら(上の写真)、
背後から見知らぬ男性に声をかけられた。
「アップもいいですね」と。

「枝からではなく、幹からいきなり
こんな花が咲くんですね」と私は応じた。
60歳前後に見えるその男性は、
それにはぜんぜん反応せず、
「長野県の〇〇の桜を撮ったことありますか」
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「いいえ」と答えると、彼は、そこの桜の美しさを語り始めた。
彼によると、脳こうそくで倒れて以来、
20年間、写真をやっていないという。
当時はフィルムの時代で、プリントすると高いので、
「ダイレクトプリント」をして、
その中から気に入ったものをプリントした、とか。
「それは『ベタ焼き』とか『インデックスプリント』とかというのでしょう」

どうやら写真談義をするつもりはないらしく、
写真撮影のためにあちこち出かけたことを語りたいらしい。
こちらとしては、撮影を急ぎたいし、
サクラの名所語りをするつもりもないから、
「何か所くらい出かけたんですか」
「その中でいちばん気に入っているのはどんな写真ですか」
「傑作はどのようにしたのですか」
(額に入れて飾るとか、フォトコンに出すとか)
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こういう問いかけにも乗ってこないで、
2~3か所の桜名所の話を繰り返す。
私は、彼の主治医ではないが、
まじめな旅行論や写真論に入り込むのをやめて、
思い出の地のことを聞こうとしたのだが、
写真論になったり桜論になったりで、
話題のピントが合わない。
そのうちに、仲間に呼ばれて去って行った。

ふと、昔を思い出した。
寝たきりの義祖母を診るために
毎月訪ねてくれる老巡回医がおられた。80歳を越えていた。
大の写真好きとわかって、
その後、写真(ポジフィルム)を持ってくるようになった。
私もライトテーブルを用意して待つようになった。
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そのうちに作品評を聞くのが目的となり、
義祖母の診断がないときにも、作品を持って来訪された。
祭り写真が好きで、日本に限らず、各地の祭り写真を持ってこられた。
あるとき、長崎の老花魁(おいらん)を撮った写真を評価した。
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なんともグロテスクで、これはシュール過ぎて、
「作品」というにはちょっと……
先生は、ご自分で出かけて行ったときの写真はよいけれど、
ツアーでみんなと出かけた場合は平凡になる、
みんなと同じ写真を撮っているだけでは
先生の実力は発揮できない……、
先生には被写体を見つける才能がおありなのだから。
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これ以後、先生は現われなくなった。
妻は酷評し過ぎたからだというが、
私は、先生がそんなケチな根性の人間ではないと信じている。
老齢のこと、体調を崩したのか、撮影活動のための体力が落ちたのか。
デンワで確かめればよいことだが、
それをする勇気はなかった。
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さて、桜論、桜撮影論に戻ろう。
城を入れ込む、堀を、川を、海を入れ込むなどなど
そこへ行かなければ撮れない写真がある一方で、
どこの桜でも、自分に引きつけて撮るという、
別の楽しみ方もある。
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これは、二者択一論ではなく、
どちらを選ぶにしろ、同時進行的に行なうべき撮影法である。
小田原城下の桜、松前の桜、弘前の桜、角館の桜……
を撮りに行って、花のアップしか撮らなかったらもったいないが、
それとても、一概には否定できないのが、
撮影意図というものである。
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小田原城には目がいかず、花のつぼみに関心が向いたとすれば、
それはそれでモチベーションである。(プロは別として)
「この桜、どこの?」と聞かれて、
「場所は、問題ではないの、小田原の桜はこういう表情なの」
実際にそういったら嫌われるが、
それくらい開き直れる意図があれば、
それはそれでよい。
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が、平凡だが、無難な対応法は、
①まず、そこでしか撮れない写真を撮りまくる。
②ある程度撮ってから、自分の関心を中心に、
 自分らしい作品を撮る。
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同時進行……同時に二兎どころか、十兎くらい追うところに、
写真のスリルとおもしろさ、そして、
トンボのような複眼を持つときの優越感と陶酔とがある。
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by rocky-road | 2012-04-08 23:00  

モノもコトもヒトも、捨てた翌日に必要になる。

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4月2日の読売新聞「論壇 スペシャル」欄に、
「断捨離」(だんしゃり)で知られる
やました ひでこ氏(クラター・コンサルタント)と
野口悠紀雄氏(のぐち ゆきお 一橋大学名誉教授)
との対論が載った。

やました氏は、冒頭で、「『断捨離』とは、
何もかも捨てればいいと言っているわけではない。
身体に新陳代謝の出口(排せつ)と入り口が必要なように、
家についても出口と入り口を考え、
過剰にモノを詰め込んでいるなら
外に出しましょう、と提案しているのだ」といい、
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さらに、「『断捨離』とは、徹底してモノと向き合い、
自分とモノとの『関係』を問い直し、他人に頼らず
捨てるか残すか選択・決断しながら、自分を確立していく
営みといえる。自分自身のカウンセリング、コーチング、
コンサルティングなのだ」

至極ごもっともなことをいっているのだが、
ニュアンスとしては、やはり捨てることが念頭にある。
新陳代謝や家の出入り口をいうのに、
排せつや出口から例示するところがおもしろい。
(もっとも、日本語では「出入口」とはいうけれど、
 「入出口」とはいわない)
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「断捨離」とは、ヨガ道場の修行の1つのようで、
心の執着を手放すために、断行、捨業、離行という
行法を実践するという。
仏教などでいう「解脱」や「悟り」と同根の概念だろう。

そこで「待った!!」をかけたくなる。
だれかまわず、悟りを開くことをすすめるのは、
果たしてエネルギッシュな生き方のすすめになるのか、
ということである。
モノに執着しない、というのはカッコいいが、
どうかするとシラケた、草食系的生き方を
誘発または助長する可能性が高くなる。
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アメリカでは、太平洋戦争を戦った元兵士らのあいだに、
日本軍の武器や、捕虜や戦死者の遺品を集める
コレクションファンがいるようで、
それらのオークションが開かれるという。

80歳過ぎの元アメリカ兵士が、
集めてきた日章旗を遺族に返したいと話していた(NHKテレビ)。
彼はいう。「これらのものは、私が死ねば1週間以内に
息子たちが捨てるだろうから、いまのうちに処分したい」
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こんなのは「断捨離」といってもいいかもしれない。

(日章旗とは、この場合、日本の出世兵士が
最期まで身につけていた国旗。
 家族や近隣の人の寄せ書きがあり、「武運長久」などと
 墨書してある。多くは、からだに巻きつけたり、
 鉄兜=ヘルメットの下にあてがったりしていた)

さて、新聞での対論役の野口氏は、こう説く。
「人類は、情報を『捨てない』ことによって進歩してきた。
情報を蓄積してきた文明は発展し、情報を残さない文明は滅んだ。
だから、情報について『捨てろ』というべきではない。
マーフィーの法則に
『書籍は捨てた翌日に必要になる』というのがある。
我々は単に捨てれば能率があがるような単純な仕事を
しているわけではないのだ」
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同感なのだが、この場合の「情報」の意味に異議がある。
野口氏はいう。
「『捨てる』といっても、
衣服などの『モノ』と『情報』は全く違う」

これは困った。
書籍には情報があり、衣服には情報がない……、
この単純明快な「断捨離」には面食らう。
モノに情報がないだって?!?!?!

宇宙だって、太陽だって、空だって、
海だって山だって、モノだぜ。
人類は、それらのモノから情報を読み取って、
科学し、考え、同時に、過酷な自然環境に
適応してきたのではないのか。
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「いや、太陽と衣服とは違うだろう」
そうかしら?
本情報だって、パソコン情報だって、
紙や鉱物、合成物質というモノによって運ばれているではないか。
服にしたって
「その服、似合っているね」
「その上下、ミスマッチじゃない?」
「あなたらしさが浮き出るようなファッションだね」
という情報を運ぶではないか。

「思想とおしゃれとは次元が違う」だって?
では聞こう。
「食事と思想とどちらが大事か」

世界は、二者択一の論理では割り切れない。
あれもこれも欠かせないものである。
あるのは、その人、そのときどきの優先順位である。
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やました氏はこうもいう。
「女性はよく、季節の変わり目に『着る服がない』と言う。
しかし、実際にはタンスの中に服がいっぱい詰まっている。
ならばなぜ『着る服がない』と思うのだろうか。
実は『着たい服がない』のではないか。では、
なぜ『着たくない服』を取ったままにしているのか。
着たくないのに取っておかせる価値観がその人を
支配しているからではないか……」

この意図的にシンプルな論法に驚く。
そのとき「着たくはない服」は、即無用なものなのか。
危ない論法である。
そんなことをいったら、衣服は使い捨てるしかない。

やました氏と野口氏、
横綱相撲をがっぷり取っていて見ごたえがあるが、
モノについての認識は深いとはいえず、やや心配。
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オリンピックの金メダルの価値は、
売るといくらになる、ということではないし、
海辺で拾った貝殻の価値も、
他人の評価とは関係ないところにある。
物質は情報を持つばかりではなく、
その物質を手にするまでのプロセスをも情報化する。

言語情報は、モノ情報の上位にある、
とする見方は一面的である。
思想が現象であるように、心も現象である。
そうした現象の大半は、
環境というモノからの刺激によって起こる。
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生物にモチベーションを与えるのは、
ときにモノであり、ときに刺激であり、
動物においては生理現象であり、
ときに心であり、人間においては、ときに思想である。

私は「幸福」について、こう定義した。
「日々の生活、健康状態、人間関係、
将来性などに関して個人がそのときどきに感ずる
高いレベルの充足感」

いま「いらない」と思ったものが、
この先も不要である、という保証はない。
ヒトは、今後を予知することが、いまだに苦手である。
環境が変わると(朝か夕か、なども含む)、
感じることも考えることも変わる。
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登山中の人が、ときに1片のビスケット、
1枚のビニール、もう1足のくつ下によって
命を支えることがある。
人生の坂を登っている人に、
あれもこれも捨てること強くすすめることは、
人生を軽く考えろ、といっているようにも感じられる。

日本人の伝統的な思想に
「モノには神が宿る」というのがある。

断捨離は、間違えると人生のモチベーションを
捨てる生き方のように受け取られる。
どう補おうとしても、
「断行、捨業、離行」を指すコトバであることに変わりはない。

「『捨てるな』ということは、ゴミ屋敷みたいになっても
仕方がないということか」
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スリム志向が摂食障害の前兆ではないように、
モノを大事にすることと、
心の病としての「ゴミ屋敷化」とは違う。

結論としていいたいのは、
モノ〝にも〟モチベーションを与える情報があるということ、
そして、人間にとってのモチベーションは、
死ぬ瞬間まで不可欠だということ。

モノなり思想なり、動物なり人なりを捨てるときは、
情報という現象――たとえば思い出、生きたアカシなどの
一部またはすべてを捨てることになる、
……そういうことを認識しておきたい、
ということをいっておきたい。
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by rocky-road | 2012-04-02 22:58