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このブログ、「注目を集め」てはいません。

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「注目を集める」
「先行き不透明」
「立件を視野に捜査を進めている」
という表現が耳障りだということは、
以前、このページに書いたことがある。

「注目」はわざわざ「集め」なくても、「注目される」ですむし、
「先行き不透明」は不適切かつ卑怯。
「先行き」は心眼または洞察で見るものだから、
「不透明」といって、問題から逃げてはいけない。
人間は、不透明な壁の裏側は見通せないが、
未来なら、ある程度見通すことができるはず。
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「立件を視野に捜査を……」は、「視野に入れて」というべきで、
「入れて」を省くのは横着である。

これらの表現がNHKニュースに突出して多いので、
NHKの方言なのだろう。
なんとも気になるので、NHKの放送文化研究所に尋ねたら、
ていねいな返信があった。
「誤りとはいえないまでも、常套表現が問題」とのこと。
職員研修のときなどに、意見を参考にさせてもらう、ということだった。

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ヒマがあったらテレビやラジオ番組で、
「注目を集める」という表現がいかに多いか、頻度を確かめてみるといい。
1日に軽く10回は超えるはずである。
民放にも感染中だから、全部を合わせたら、相当の数になるだろう。

話題をもう1つ。
冠婚葬祭のご案内ハガキの文章に句読点を打たない習慣が
いつの間にか定着した、とここに書いたが、
あるホテルの担当者がこの記事にたどりつき、
自分のブログにこんな趣旨のことを書いてくれた。
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(この種の案内状では)
句読点を省くのが常識と思っていたが、
「浅墓な常識をぶっ壊すようなブログをみつけた」と。
http://www.iwaki-wh.com/weddings/staffblog/2010/08/post-13.html

1人でも、それに気づく人があったのは幸運である。
ただし、それによって改善される可能性は少ない。
周囲の関係者が、例によって例のごとく、
句読点を打つと「縁が切れる」「つながりを裁つ」などという屁理屈を並べ、
彼の新しい(いや、昔からの)常識をブロックするに決まっている。
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なにしろ、当塾に5年も通い、句読法を学び、
明治維新以来、「国語」を確立するために
関係者がいかに努力してきたかを知っている人でも、
自分が結婚式の案内状を作る段になると、
結婚式場のアマチュア型「句読点無用論」に押し切られ、
後退を余儀なくされてしまったのだから。

グレシャムの法則に「悪貨は良貨を駆逐する」というのがあるが、
コトバにも表現にも似たようなところがある。
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ただし、グレシャムの法則と違うのは、
よいコトバや表現が、悪いコトバや表現を駆逐することもある。
「すばらしい」「最高」という意味の「ヤバイ」も、
また古巣に押し戻されて、悪人の専門用語に帰結する可能性はある。
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コトバの「よい」も「悪い」も、適切も不適切も、多数決で決まるが、
1人の造語や使用語が一瞬に広まることもある。
だから自分の表現法を信念で支える意味はある。
そのためにも、つねに脇差し(刀のこと)か、すりこぎ棒か、水鉄砲かを
携えておく必要がある。(「脇差し」は銃刀法違反)

それが武士道であり、大和魂であり、文化人である。
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by rocky-road | 2010-08-31 16:16  

歌える歌、歌いたくない歌。

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わがロッコム文章・編集塾で、最近、宿題としたのは、
「好みの楽曲の歌詞を文章論として論評しなさい」というもの。
この課題の目的は、量産される歌謡曲(に限らないが)歌詞を
文章論として論ずること。「論評」だから、全面受け入れではなく、
評論精神を発揮しなければならない。

作詞家養成の塾でもないのに、こんな課題をして気の毒だと思うが、
言語感覚を養うこと、批判精神を研ぐことは、
プロがプロとして、専門性を深めるために避けては通れないハードルである。
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歌は、耳になじみやすいが、その一部は言語メッセージである。
そこには思想があり、感性があり、世界観があり、教養がある。
ヒットした曲は、詞が優れているとは限らず、
むしろ、とても歌詞とはいえないような「つぶやき」がまかり通っている。

Jポップス系は、リズム優先のアップテンポだから、
とかく言語メッセージはあと回しになる。
勢いと視覚的魅力と、ノリで、とりあえずは商品化してしまう。
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シンガーソングライターの中には、
作詞どころか、国語も未熟な者が多く、粗悪な国語を日本中の
若年者に蔓延させ、言語感覚を狂わせてしまう。

「側にいるだけで 愛しいなんて思わない
ただ必要なだけ 淋しいからじゃない
I just need you (oh yeah)」
(ウタダ ヒカル 「Automatic」)
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「風鈴の音でウトウトしながら 夢見ごこちでヨダレをたらしている」
(ゆず 「夏色」)

「僕の我慢がいつか実を結び 
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が百年続きますように」(一青窈 「ハナミズキ」)

などの歌詞には、一貫性や論理性が希薄で、もちろん詩情もなく、
何をいっているのかわからず、
まともな大人なら、とても人様の目や耳に伝えることはできない
恥ずかしいほど未熟な文章である。
とても「詩」や「詞」と呼べるシロモノではない。
作詞に関しては、ど素人、こんな稚拙な歌詞でもショウバイなるところに、
音楽市場のイージーさがある。

こんな現象を、阿久 悠氏は「ミュージュックはあるがソングはない」と嘆いた。
さらに「ヘッドホンで聴く歌は聴くにあらず、点滴である」とまでいったが、
国語を基準にいえば、カタコト日本語と巻き舌歌唱法は、凶器に近い。
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メロディでだけで聞く歌謡曲の危うさは、
栄養士にも縁がある「安心・安全」という歌(?!)にも通じる。
熱中症で亡くなったり、海や川で溺れたり、ヘリコプターが電線にけっつまずいたり、
世の中、いまも昔も危険がいっぱいである。なにが「安心・安全」か。
「安心・安全」を標語として歌ってしまうと、リズムばかりが頭に残って、意味が薄れる。
ヘリコプターが電線に脚をひっかけるなんて、操縦士は鼻歌でも歌っていたのか。

しかし、提出された宿題への回答を見ると、思っていた以上に
こういう幼児的作詞に反応しなくなっていることがわかる。
そもそも論評すべき曲が見つけられない。
このネット社会の中からターゲットとなる曲が見つからないのは、
不慣れということもあるが、審美眼が麻痺しているからだろう。
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ようやく楽曲を見つけても、論評基準がわからない。
用語はどうか、文体はどうか、歌われている世界はどうか、
シチュエーションはどうか、感性はどうか、何をいわんとしているのか……など
論点はいくらでもある。

評論精神を性悪(しょうわる)行為のように思う人がいるかもしれないが、
その精神は、街の景観を損ねている廃墟を見つけて、
それを建て直す作業にほかならない。
それは、次の世界を創造する第一歩である。

現状に甘んじている人には、
次の時代を切り拓くための着眼もないしエネルギーもない。
それでよいのか。
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たかが、歌謡曲というなかれ。改善の端緒は生活圏の中にいくらでもある。
「栄養指導」「行動変容」「地産地消」「食の欧米化」「安心・安全」
などなど、流行歌(はやりうた)には、未熟な歌詞が多い。

念のためにいうと、いじわると批判精神とは違う。
悪口と警告とは違う。
あら探しと問題点への着眼とは違う。
改善のための提言と寛容さとは違う。
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by rocky-road | 2010-08-24 12:07  

集合写真を撮ろう、1000枚撮ろう。

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前回、集合写真の意味について、このページに書いたところ、
こんな感想をいただいた。
「集合写真は自分史の一部だと、改めて感じました」
「自分の居場所を大切にし、あとで悔いないにしようと思った」

こんな感想をいただいて、「やはり、そう取られたか」と
自分の筆力の弱さを再認識せざるを得なかった。

ときどき話題にしていることなのだが、
記録の意味として、真っ先に
「あとで役に立つから」をあげることを、
私は、あまり好まない。
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日記にしろ、写真にしろ、その他の記録にしろ、
それを、思い出づくりのためとか、
備忘録としてとか、という従来の考え方は、
記録の一面しかとらえておらず、
この解釈は早晩改める必要があると思う。
世に流布している日記のすすめ論も、ほとんどこれなのである。

そこで、改めていわなければならないが、
集合写真に限っていうと、
自分の居場所を見つけ、そこで出会った人との交流を
映像として記録する場合は、記録の二次的目的である。

それ以前に、「みんなに集まってもらって写真を撮ろう」という動機がある。
みんなが楽しそうにしているのを見て瞬時に集合写真を思いつくことがあるし、
1か月前から考えている場合もあるし、
だれかが言い出して「では!」となる場合もある。
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いずれにしても、シャッターを切る瞬間までは、
まだこの世に存在しない場面を、撮影者はイメージしている。
それがアイディアであり、モチベーションである。
まず大事なのは、このアイディアであり、モチベーションである。

観光名所で待機している写真屋さんに撮ってもらった集合写真の
顔、顔、顔が、あまり楽しそうに見えないのは、
カメラマンの心理的動機が弱いからにほかならない。

動物の行動には、かならず「動機」または「動因」があると、
行動科学はいう(動物にまで広げると叱られるかも)。
そして、呼吸することも眠ることも、いや、脈拍までもが「行動」だという。
人の活力、人の可能性、人の希望、人の夢、人の野心などなどの
根元(ねもと)にはモチベーション(動機)がある。
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人に呼びかけ、人を集め、「写真を撮りましょ~う!!」
と叫ぶ人のモチベーションは、
人とのよい関係をつくろうというモチベーションに通じる。
人嫌いの人や殺人鬼が「写真を撮りましょ~う!!」と叫んだら、
これはニュースである。

整理しておこう。
記録には2つの意義または目的がある。
一次目的は、いわば準備性。
記録しようと思っている人のモノの見方、考え方は、
そうでない人とは違いがある。

自分の居場所を見つけ、それを維持したいと思う人の人生は、
モチベーションが低いとはいえないだろう。
とすると、カメラは単なる記録機ではなく、
変転する局面に適応し、参加する「生き方機」でもあるといえる。
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さて記録の二次目的は、従来の「結果」の価値。
二次目的に関しては周知のことだからいわないが、
それは一次目的に比べると価値が低い、などと思ってはいけない。
一次目的と二次目的とを比べて、どちらに意味があるか、
などという対比は無意味である。いや有害である。

しかし、一般的な「記録論」では、一次目的に無関心すぎるので、
ここでは一次目的に力点を置いて論じた。

さて、集合写真論に戻ると、
前回、私が強調したかったのは、記録としてのそれではなく、
「人の輪」「人の和」をつくっていくモチベーションとしての集合写真である。
集合写真を撮ろう、撮ろうと思おう、
1000枚の集合写真を撮ろうと思った人には、
少なくとも1000箇所の「居場所」が得られるはずである。
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by rocky-road | 2010-08-16 01:29  

居場所をつくる全員集合写真

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花粉症でお世話になっている医院の待合室に、
明治維新を推進した志士たちの集合写真が飾ってある。
「尊皇攘夷志士四十六人像」とのタイトルがあり、
慶応元年 一八六五年 写真撮影 上野彦馬とある。
これには、西郷隆盛、伊藤博文、坂本龍馬、中岡慎太郎などなど、
そうそうたる人々が写っており、それぞれに名が付してある。

しかし、考えてみると、これらの人々が
一同に会するなどということは、まずありえない。
撮影日まで書いてはあるが、疑わしい。
敵対していたり、新撰組に追われていたり、
これだけのメンバーが顔をそろえる可能性はない。
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それはともかく、こういう写真(絵もあるかも)を集めて
リアリティのある写真を合成した人の
着眼と根気には脱帽せざるを得ない。

「集合写真」をどう定義すべきか、迷うところだが、
ここでは「3人以上の人が、撮影されることを前提にして集まった写真」
ということにしておこう。
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世界中の栄養士、健康支援者を対象にして
「第1回 健康支援者 集合写真世界コンテスト」というのを
開催したら、パルマローザや食コーチング関係の集合写真は、
まちがいなくグランプリを取るだろう。その点数の多さにおいて。

集合写真は、ただそこに人が集まるのではなく、
イベントのプログラムが秒単位で進行する中で、
そのための時間と場所を確保し、
かつ、撮影の意図を全員に周知徹底しなければならない。
キビキビとやらないと時間ばかりくってしまう。
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軍隊なら「全員集合!」との命令一下(いっか)で、全員集合となるが、
平和ボケ重症の日本では、号令に機敏に従う人は少ない。
その大事業をクリアしたあと、いよいよシャッターを切る。

喪中写真は別として、明るい集まりであれば、
みんなに「チーズ顔」や「バター顔」をしてもらわなければならない。
さらには、だれがシャッターを押すか。
最初から三脚を用意しておけばよいが、
イベントを進行させるための仕事が多く、
そこまで手が回らないのが普通。
主催者がシャッターを押すとなると、本人が画面から抜けてしまう。
となると、画角やシャッターチャンスを考えられるカメラマンが常在する必要がある。
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パルマローザ関係の場合、このあたりの流れがきわめてスムース。
そのうえ、あとあとのことを考えて、
人々の背格好やファッション、バッグまでを勘案して列をつくる。
コーディネートの極地とでもいいたいほどのノウハウがある。
これでこそ、「第1回 健康支援者 集合写真世界コンテスト」の
グランプリを獲得できる。
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デジタルカメラによる集合写真のスタイルは変わった。
いままでのように1~2列の横並び式ではおもしろくない。
少し隙間をあけて並んでもいいし、縦に伸びて遠近感を出すのもいい。
パルマローザではよく階段を使う。
ある人の結婚披露宴で、参列者がこの方法で撮っていたら、
プロのカメラマンに、そのアイディアを盗まれたという。
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集合写真の意味の1つは、その場に自分が「いる」こと、「いた」こと。
人生の目的の1つは、地球上に自分の居場所を複数つくること。
それが自分のモチベーションを高める方法だし、
人との関与、人への貢献の歴史の1ページを描くことにもなる。

撮られる人の注意点としては、
1.肩越しにカメラを見ても、カメラからは顔が写らないことも。
2.バッグで足を隠さない。大荷物は、別の場所に置く。
3.前列だからといって、無意味に膝や腰を曲げて小さくならない。
(そもそも、あまり重ならない)
4.カメラから遠くなる人はグラスや手をあげてポイントを作る。
5.目をつぶりやすい人は、シャッター直前まで目をつぶっている。
6.足は前後に構える(仁王立ちは不可)
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西郷隆盛と一緒に写真を撮った人、
高杉晋作と一緒に写真を撮った人、
坂本龍馬と一緒に写真を撮った人は、
互いがそこに居合わせたことに幸せと誇りを感じていることだろう。

さてあなたは、どんな場所で、どんな人と居合わせるのかしら?
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by rocky-road | 2010-08-09 14:26  

人生を楽しむ技術としての編集

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広島県栄養教諭・学校栄養職員夏季研修会のお招きで、
2日間(7月28日、29日)の研修会のうち、
3時間の講義を担当させていただいた。
初日は影山 なお子さんが全日を使って
「学校栄養士のための食コーチング入門」を講じた。

私の演題は「食情報を魅力的に伝えるための基礎と実際」
--文章力・編集力・デザイン力をつける--

栄養士が文章力や編集力、デザイン力を学ぶことに
違和感を感じる時代は急速に終わろうとしている。
会場ロビーには出版社2社がブースを設け、
「食育」関連の書物を相当な点数、展示していた。
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つまり食育は、学校の栄養教諭・栄養職員に
編集者のとしてのスキルを身につけることを急速に迫っているのである。
「食育だより」など、社会教育的メディアをほぼ定期的に発行するわけだから、
編集技術は不可欠である。

なのに、編集のなんたるかのレクチャーもせず、
定期刊行物を発行させるなどは、
水泳のできない人をプールに投げ込むようなもの。
これを虐待、イジメ、荷重労働といわずして、なんといおう。
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実際、慣れない仕事を押しつけられ、多くの現場担当者は、
残業や、ふろしき残業、休日出勤を余儀なくされていることだろう。
いまに、食育だよりに追いかけられて過労死する人が出るかもしれない。
メタボ健診にしても食育にしても、行政のやることは見切り発車の連続で、
必要なスキルを教えることもせず、
いきなり兵隊を戦場に投げ込むといったムチャをする。

以前、『スターリングラード』という映画を観たが、
ドイツ軍占領地域にソ連軍が進攻するとき、
ソ連軍には兵員の数だけの銃がなく、
上官は敵前上陸直前の部下に叫ぶのである。
「武器のない奴は、死んだ奴の銃を拾って戦え!!」
なぜか、あのシーンが浮かんだ。
編集技術を持たない人のメディアづくりは、
まさしく銃を持たない兵隊である。
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それでも、作ったメディアが多くの人に読まれていれば救いがある。
いくつかの現物を見せてもらったところ、
残念ながら、これらのメディアは、肝心な情報を
あまり運んでいないことが明らかだった。
それはそうだ。
制作者にコミュニケーションを行なおうという意図が弱いから、
読み手にフィットする情報の質も量も不足してしまうのでうある。

担当者は、媒体を作ることが目的となり、情報を効率よく伝えるという、
本来の目的を見失ってしまっている。
つまり読み手不在のメディアなのである。
編集の基本中の基本は、読み手の想定、洞察である。
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しかしこれは、担当者にドジが多いということではない。
それどころか、プールサイドに立っていただけなのに、
後ろから押されて、プールに突き落とされた被害者なのである。

家庭で食教育ができなくなった、だから食育基本法をつくった、
しかし、その責任を家庭に戻すのではなく、学校やイベント屋さんや、
関連企業に丸投げすることになった。
とはいえ、家庭もなんとかしてもらわなければならない、
では少しは情報を与えよう……。
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そこまできたら、「そうか、よい情報メディアを作ることが、
食育活動には欠かせない」と、だれかが気がつけばよかったのだが、
そこに着眼する人は、メディア関係者以外には少ないから、
「栄養教諭・学校栄養職員のための編集入門」なんていう発想はありえなかった。

というようなことが頭に浮かぶ研修会だった。
このあたりの状況を見ることができたのは幸運だった。
それ以前に、そのことに気づいて、
私を講師に指名した栄養士または栄養士会があったということは、
さらに幸運であった。
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今後、編集を学ぶ機会を得た栄養士の何人かは、
編集は食育メディアをつくる技術であることにとどまらず、
生活やコミュニケーションを楽しむ生き方の技術であることに
気がつくはずである。
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by rocky-road | 2010-08-03 00:53