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社会進出のための衣替え

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《食コーチングプログラムス》の企画による
「食事相談のための身だしなみ総点検 ①」に
コメンテーターとして出席させていただいた
(2010年1月24日)。
以前、『男が着るとき、生きるとき』という本を書いたので、
いくらかはコメントできることがあるかと思って
出させていただいた(本は未発表)。
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上記の著作を思い立ったのは、
男性の衣服があまりにもコチコチで画一的だったため、
カジュアルウエアの奨めが風潮となった時代である。
もっとも、衣服をテーマにしたというよりも、
衣服を切り口にして男の生き方を問いたかったのである
(1995年ごろ)。
当時、男性のスーツは「ドブネズミ色」などと揶揄(やゆ)されていた。
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男性が衣服や肌着を買うとき、1人で店に行くか、家族と行くか、
ジーンズは何本持っているか、ジャケット(当時はブレザー)を持っているかなど、
自分で行なった調査データなども入れておいた。

衣食住のうち、「住」は専門家の仕事となり、
「食」も家庭内の仕事から外部化が進んでいる、
「衣」は繕うことがなくなり、洗濯も全自動になってきた、
こういう状況を見ると、衣食住は女性専科ではなくなった、
「衣」の自己管理は男の自立度を示すバロメータだ、
ということを言いたかった。
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時代が移って、いまは健康支援者のジャケット。
「ジャケット」を当時私は「私的な、よそい着」と定義した。
健康支援とは、個人の私的な部分を強化することが中心となる。
食事相談にスーツで臨むのではカタすぎる。
やはり「私的な」(この場合は相手の私的場面)「よそい着」でいいのだと思う。

とはいえ、実はジャケットはコーディネートがむずかしい。
今日、男のカジュアルウエア化がいつのまにか減速し、
またまた黒地に細いストライプというスーツが
若い男性の定番ユニフォームになりつつあるのも、
日本人は本質的に「個性」が苦手で、
画一的なユニフォームの中に自分を埋没させたいのである。
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ジャケットコーディネートは、上下をいかに組み合わせるかで
大いに悩むところではあるが、
それは、出かける先のいろいろの状況を想定することを含む。
いわば先を読む脳のトレーニングであり、
生物としての適応力強化にほかならない。

私は、20代半ばころからジャケット派になっていったが、
やや改まった場(結婚披露宴とか)にもジャケットで行くことには
少しは構える必要があった。
しかし、自分の環境、ライフスタイル、周囲の環境改善に
かかわっている、という自覚も確かに感じていた。
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健康支援者がジャケット派になる場合は、
カーディガンからのステップアップだから、
むしろ誇りがふくらむのではないか。
私のように、ときに肩身の狭い思いをする機会は少ないだろう。

それでもハードルはありそうだ。
まず、同僚や周囲の人の無関心がある。
人の身だしなみに関心を示したり話題にしたりする文化がない環境では、
ほとんどの場合、黙殺される。
人の身だしなみを評価するコトバがないのである。
その程度ならまだいい。
「あら、どこかへ出かけるの?」
「あらまあ、急に、どうしちゃったの?」
「あなたって、目立ちたがり屋ね」
「こういう忙しい現場にそんなチョロい格好をしてきちゃダメ!」
なんていう強風や逆風もありそうだ。
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環境改善には戦いが伴うのだ。
そうやって生物は自分の生息エリアを広げてきたのである。
こうした逆境、逆風に耐え得た個体には、
活力、変化、美しさ、コミュニケーションのある人生が待っていることだろう。
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by rocky-road | 2010-01-26 15:12  

 人生の終点までは遠いですか。

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 以前、レンタル自転車で京都市内から嵐山まで走ったことがある。
 夏の嵐山を満喫しての帰り、鴨川沿いではなく、
 町なかを走って京都市内に戻るつもりで
 何人かの人に道を尋ねた。
 たぶん、4人くらいに聞いたと思うが、
 4人が4人、「遠いですよ!!」と忠告してくれた。
 なかには「ここからはムリ」と、断言する人もいた。

 「ここまで来た帰りなのだから、なにをいまさら」と心では思ったが、
 「ハイ、ありがとうございます」と、あいまいに感謝を述べて帰途についた。
 距離感覚が東京の人とは違うのだ、と思ったが、
 その後、東京の新宿で道を尋ねたときも、
 すぐ鼻の先の距離なのに「歩いてはムリ」と断言されたので、
 京都人だけの距離感覚の問題ではないことがわかった。
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 つまりは、車利用の多い現代人の距離感覚が、
 歩行型・自転車型人間のそれとは、だいぶずれているのだ、
 ということを悟った。(ずれているのはお前だ!! そ、そう?)

 似たようなことは、影山さんから聞いた、
 栄養士の野菜350グラム目測感覚にも見られる。
 栄養士に「この野菜の中から350グラム分を選んで」という
 演習をすると、大半の人が多めに取ってしまうという。
 なかには1キロ以上の野菜を取り分けて「これが350グラム」と
 平然としているとか。
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 この調子だと、「野菜350グラムはなかなかとれない量」というイメージを
 一般の人に無意識的に刷り込んでいる可能性がある。
 そういうイメージを与えることに生物的なメリットがあるとすれば、
 その「大変なことを指導する私」をアピールしているのかもしれない。

 さて、話が少し変わって、この1月10日、
 パルマローザの第238回ブラッシュアップセミナーで、
 「健康支援者のための 将来を考えた自分づくり10のアプローチ」という
 話をさせていただいた。
 これは、遠い人生の道のりを、そんなには遠くはない、ということを
 考えてもらうことを目的とした講話であった。
 
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 10のアプローチを示したわけだが、その1つに「アフター6の過ごし方に
 計画性があるか」というのを入れた。
 長い人生の姿を、いま現在、前倒しして見たかったら、
 仕事が終わったあとの寝るまでの時間を、
 自分がどう過ごしているかを見ればいいのではないか。

 この先、思わぬ番狂わせがないとはいえないが、
 けっきょくは、きょう1日×100年ってとこが、
 自分の人生ではないか、終点は、案外近いところにも見えている。
 そういいたい、京都の人にも新宿の人にも……。
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 水中では、陸に比べてモノが約30パーセント近くに見える。
 「水」というレンズのなせるワザである。
 日々の生活にも、人生を短縮して見る方法はあるのだろう。

 ここからは福袋的蛇足。
 講義の中で、ブログの文体について少しふれた。
 このブログは、文体としてはエッセイ。
 京都の話題から人生の距離へと展開する、
 典型的なエッセイ構成である。
 このパターン、定番化すると臭くなるから、
 ほかの変化球と混ぜて使う必要がある。
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by rocky-road | 2010-01-13 20:51  

「スポーツ栄養」はどこへ向かって走るのか。

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恒例の「東京箱根間往復大学駅伝競走」のテレビ中継は、
年賀状書きをしながら観戦をする視聴者のニーズにぴったりと合っている。
レースがゆっくの展開するので、手元の作業のじゃまにもならず、
ややオーバーなアナウンスが、年賀状書きを励ましてくれているようにも思えてくる。

「光の中、穏やかな表情を保ちながら、黙々と自分の仕事をしています!!」
「無念のリタイヤを心に秘め、その屈辱からはい上がる旅を続けます!!」

「そうだ、きょうの分は絶対に書いてしまおう。
去年は出し遅れが多かったし、あの屈辱からはい上がらねば!!」
などと、自分の長期戦に置き換えて、黙々とひた走るのであります。
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スポーツには、もともと情緒性が伴う。ドラマチックは「演劇的」とも訳せる。
たすきを渡したあと、へたり込むのが伝統的な演技ともなっている。
20キロも走ってきたら、しばらくは「余走」(?)が必要なのに、
毛布を持った介護者が、走者に急ブレーキをかけるように抱え込む。
仕方なしにランナーは、その毛布の中に身を預けるという段取りが定着した。
これも一種の様式美といものだろう。

42.195キロのフルマラソンを走ったランナーが笑顔で手を振ったりしているのに、
その半分ほどのランニングでへたり込むのは、
「駅伝」という、日本文化の象徴的なパフォーマンスだろう。
「自分がヘマをやったら仲間に申しわけない」という責任感が、
選手をひしひしと追い込んでゆく。
この悲壮感が日本人のメンタリティにぴったりと合ってシビレさせる。
上位チームのランナーは、穏やかな表情で、
ときには笑顔で自分の区間を走り終える。
この較差も演劇性を高めてくれる。
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たぶん、少なからずの選手は糖質を充分にとり、
ビタミンやミネラル剤で栄養強化する程度の対策はしているだろう。
しかし、補助食品やサプリメントの質や量が勝敗を分けるというものではない。
ときにはエネルギー不足で迷走するアクシデントもあるが、これは例外。

選手の資質、トレーニングの方法と量、コーチとの相性、
その日の体調、心理状態……などなど、計量化できない要素がからみ合って、
選手のその日のパフォーマンスを決定する。
「スポーツ栄養士」がついているチームが勝った!!!という時代が来るとしても、
それはずっと先のことだろう。
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「スポーツ栄養」とは困ったコトバだ、と『エンパル』7号に書かせていただいた。
(パルマローザ発行のオピニオン紙、2010年1月10日発行)
選手の身体条件を左右するのは栄養ではなく、食事ではないか、と書いた。
くわしくはそこに譲るが、要は「スポーツ栄養」とは
「スポーツマンの食事」「運動する人の食事」のことだということ。
理屈を先行させると食事はまずくなる。それは、これまでの栄養士が冒した誤りである。

「スポーツ栄養」がまた、同じ道を歩こうとしている。

「スポーツ栄養」を仕事にしたいと思う栄養士は、
「スポーツ」にも競技指向と健康指向とがあること、
どちらにも「選手時代」と「非選手時代」があり、非選手時代は圧倒的に長いこと、
ときには「勝つ食事」を求められるとしても、
その食事、そのサポートには、常に選手の人生におけるモチベーションアップという
「精神的栄養素」が付加されていなければならないこと……
などなどを頭にしっかり叩き込んでおくとよい。
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選手を支えるということは、その人の人生を支えることだから、
栄養素をいじっていても、決め手にはならない。
人生の節々で、すぐにバテて、へたり込むような人づくりをしていては、
「スポーツ栄養」に将来はない。
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by rocky-road | 2010-01-04 19:46  

「明けましておめでとうございました?」

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2010年がスタートした。
年賀状を書き続けているうちに、
新年を迎えた。
クリスマスカードから年賀状まで、
書く文化は健在、「めんどう」「無意味な習慣」といってしまうと、
生きていること自体がめんどうにも、無意味にも思えてくる。
うっとうしいことも、うっとうしくないこともあって、
それが人生ということか。

「明けましておめでとうございます」という。
このフレーズも、変化を免れている言語現象として
注目しておいたほうがよい。
「先日は、結構なものをありがとうございました」
「本日は、落成20周年式典、おめでとうこざいました」
と、過去形で発話する人が増えた。
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若者から崩れた表現法ではなく、
そこそこの年長者も、
「本日はご結婚おめでとうございました」という。
この場合、
厳密にいうと、以前に受けた好意といえども、
謝意はいまも続いているのだから、
「ありがとうございました」では、謝意がそこで終わってしまう。

「……ました」というのには、音声学的な理由はあるのだろう。
「……masu」の「su」は閉じる音、「……masita」の「ta」は開く音。
しかも、「ta」という破裂音が入るので、耳には謝意が強く伝わる、
多くの人は、無意識的にそう感じるのだろう。
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だったら、「明けましておめでとうございました」も
生まれてきてもよさそうだが、
いまのところ見かけない。
もし、ロッキーロード読者が、このバージョンを見つけたら、
それは言語学上の発見だから、
その年賀状のコピーを、大橋に売りつけたらいい。
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by rocky-road | 2010-01-01 01:45