<   2009年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

 

食事相談という格闘技

b0141773_9502197.jpg

『文藝春秋』の12月号に、
作家でイタリアに住んでいる塩野七生さん(しおの ななみ)が、
評論的なエッセイを書いている。

日本が民主党政権になって変化が起こるであろうが、
期待していることの1つは、
日本の記者クラブの全廃だ、という。
閉鎖的で、外国人記者にはなかなか門戸を開かなかったし、
自由な質疑応答の機会が与えられていないからだ、
と指摘している。
一方的な情報提供の場なら、そんなのなくてもいい、と。
b0141773_9395014.jpg

また、日本人記者は、予定した質問はするが、
臨機応変の議論はしない、とも指摘している。
これは、記者会見を設定する省庁の役人や国会議員のほうに
より大きな原因があるのだと思うが、
その程度のことしかできない記者クラブなら、
不要だ、廃止してしまえ、というのである。

大賛成である。
過日、中国の要人と天皇陛下との会見を
政府が急遽設定したことについて、
小沢一郎氏が記者団からの質問を受けているシーンが
テレビ放映されていた。
b0141773_9401593.jpg

天皇との会見は、1か月前にアポをとる慣例になっている、
それを破って会見を設定したのは、
天皇を政治の世界に巻き込むことにならないか、
という突っ込み質問である。

宮内庁は、一度は断ったが、政府(小沢幹事長?)から逆襲されて、
慣例を破って会見を設定した。そこを記者が突く。
が、さすがは「豪腕」といわれる政治家、
「そういうことは法律に書いてあるのか、
あなたは法理を読んだのか」と逆質問をした。
これは、相手を封じる詰問の典型的なパターン。
この政治家の得意とするワザの1つである。
b0141773_941118.jpg

か弱い日本の記者のこと、
この問いに、さらに逆質問をするなんていう根性はない。
たじたじとなって、だから翌日の新聞には、
ひどく政治家を批判的に書いた。

犬の遠吠えの見本のような対応である。
こんな一方的な記者会見なら、
確かに記者クラブごと廃止してしまったほうがいい、
と考えたくもなる。
b0141773_9413286.jpg

相手の質問に、突っ込みを入れる逆襲タイプは、
世間にもときどきいる。
「そういう質問をすること自体、この問題を真剣に考えていない証拠だよ」
「そんな発言をするっていうことは、
この闘争に真剣に取り組む意志がないということ?」
会議などで、こういう指摘をされると、出席者は、こわくてなにもいえなくなる。
恫喝型(どうかつがた)とでもいうのか、
アンフェアな、せこい戦術を使うヤツは、
どこの職場や組織にも、1人や2人はいるのではないか。

食事相談の現場でも、こういうタイプに遭遇している栄養士が
日本のあちこちに、少なからず存在するのではないか。
「酒をやめれば糖尿病が治るって断言できますか」
「あなたは私がパーティに出ることに反対らしいけれど、
私の人脈がか細くなってしまうことに責任をとってくれますか」
b0141773_9415316.jpg

世の中には、「ちょいワル」どころか「すごワル」もいる。
ひ弱な日本記者クラブのようにならないためにも、
栄養士はタフにならなければならない。
「私が責任をとる前に、あなた自身、ご自分の人生について、
ご両親や周囲の方にどんな責任をとるおつもり?」
(ケンカになるかな??!!)

食事相談は、なんだかんだいっても、
会話による格闘技の要素もある。
小沢一郎氏の写真を眼前に置いてトレーニングに励むと、
少しは腹が据わってくるかもしれない。
[PR]

by rocky-road | 2009-12-22 09:44  

喪中につき、「テン」

b0141773_23284888.jpg
わがロッコム文章・編集塾で、
読点「、」の打ち方について講じているとき、
資料に使った、十数通の「喪中につき……」のあいさつハガキの文章に
実に見事に句読点が使われていないのに気がついた。
しばらく考えて、その理由がわかった。

だぶん、パソコンのソフトにある文例に句読点が
使われていないのだろう、と推測した。
以前は、ここまで〝句読点省き〟が徹底はしていなかった。
それは、依頼先の印刷所によって、文例が違っていたからである。
b0141773_23295961.jpg

が、パソコンの普及、そして、いろいろのソフトウエアの普及によって、
事態は一変した、いや、ますます〝しつつ〟ある。
かねがね、パソコンの日本語変換システムを推進した人たちの
国語力を疑っていたが、その力不足が、ここにも顔を出した。

歴史を振り返ると、日本の国語教育はすぐれて文学中心主義で、
実用文や仕事文、公的な手紙文を軽視する傾向があった。
結婚式の案内、葬式の知らせ、喪中のあいさつ、転居の通知の文章を
学校で教えてもらった人はほとんどいないはずである。
それらは、印刷屋さんや結婚式場、葬儀社、引っ越し業者に
お任せになった。
b0141773_23331871.jpg

だから、個人が、やや公的な案内状を出すときには、
印刷所のおじさんに教えてもらうしかなった。
街や村での国語の先生は印刷屋さんだった。

それが今度は、先生がパソコンソフトになった。
確かに国語教育が手を抜いてきた分野ではあるが、
明治以来の国語教育が、ガラガラと、パソコン屋さんに崩された。
読点は、やっかいなところがあって、完全に正書法に組み込めない。
しかし、句点「。」については迷う人はまずいない。
マスメディアでは、「おはよう。」という場合の「。」は
省くことが多いが、個人レベルでは、7、8割の人が打つ。
b0141773_23334889.jpg

なのに、「喪中につき年末年始のご挨拶は……」という
あいさつハガキでは、いっさいのセンテンスから「、」も「。」も
省かれてしまう。「挨拶」は「あいさつ」でいいのに、
なんて、横道にそれている場合ではない。

文明が文化の充実を下支えするとは限らず、むしろ足を引っ張る例は、
これまでにも何度も経験しているが
(たとえば、8ミリフィルムがビデオに変わったとき、
アマチュアの作品のレベルが一度はガタンと落ちた)、
句読法の完全無視も、これと同じこと。
いまさら、「日本文は古来、句読点は打たなかった」なんて、
聞いたふうなことを言ってもらっちゃァ困るってもんよ。
パソコンが普及する前からそうしていた人以外、
そういう反論はできないはず。
b0141773_23341278.jpg

印刷屋のおじさんなら、「こないだ、お宅で作ってもらったあいさつ状だけど、
受け取った人から、『句読点くらい打ったらどう?』っていわれたよ」
という一言で、改善のきっかけが作れた。
が、相手はパソコン、いや、パソコンに遠隔操作されている人間、
無知な自分が相手では、とりつく島がないし、つける薬もない。

ロッキーが他界したときには、直木三十五(1891~1934年。
読点を各文節ごとに打つ作家だった。
「直木賞」は、この人を記念している)のように、
「、」を打ちまくってやるからな(……とだれかに遺志を伝えておこう)。
b0141773_23343359.jpg

ちなみに、喪中はがきをもらったら、こんな返事を書くことを
30年来続けている。
《毎日香》は、「お線香を送ろう」と宣伝しているが、
他界する人がこんなに多くては、とても追いつかない。
ハガキ1枚でも、個人レベルの偲ぶ心は伝わると思う。

-----------------------------
文例
拝復、お父上の喪中のお知らせ、謹んで承りました。
百一歳とは、お見事な人生、ただただ活力ある人生に平伏するのみ。
存在感のある方でしたから、ご一家のお心の空白、
さぞや大きいことでしょう。
心からご冥福をお祈り申しあげます。

明年のみなさまのご多幸とご健勝をお祈り申しあげます。 合掌

-----------------------------
ちなみに、原文は毛筆(ぺんてる筆)、句読点は必須。
[PR]

by rocky-road | 2009-12-09 23:35  

ハシゴを楽しむ。

 
b0141773_22444370.jpg

 大学卒業直後から、マスメディアに原稿を書く機会を得た。
 専門誌に投稿したり、恩師の原稿を代筆したり。
 学術誌に、恩師の名で1年間連載したが、
 「好評につき」、半年間連載が延長された。
 20代の若僧にとって、
 社会への参加意識と自信とが高まる経験だった。

 その当時、「総論に対して各論が少ない、
 もっと事例を増やせ」と指導された。
 学生時代から座右の書となっている『思考と行動における言語』
 (S.I.ハヤカワ著 大久保忠利訳 岩波現代新書 1961年)にも
 こんな記述があった。
b0141773_2245269.jpg

 「面白い著述家、有益な話し手、正確な思想家、そして正しく適合する個人
 というものは、あらゆるレベルの抽象のハシゴを操作し、素早くなめらかに
 そして秩序ある仕方でより高いレベルからより低いレベルに、
 低いレベルから高いレベルに動ける人--その心はしなやかに
 巧みに美しく、まるで木の上のサルのような人である」
 などとあって、恩師の指導の適切さには納得するばかりであった。

 著述経験の少ない者には横着なところもあって、
 机上でササッとやっつけ仕事をする。
 面倒でも、適切な事例や、アイディアを練って、
 抽象的なところに当てがわなければならない。
 それが著述のわかりやすさの原点であり、
 パワーアップにも、信用アップにもつながる。
b0141773_2245444.jpg

 「抽象のハシゴ」とは、たとえば、てっぺんには生物があり、
 階段を下りるに従って、動物、人間、アジア人、日本人、
 東京人、男、高齢者(?)、北区住人、赤羽西在住、
 趣味はダイビングと写真、絵画、旅行、身長164センチ、
 姓は大橋、名は禄郎と下段に降り立つ。

 むずかしい話だと思ったら、具体例を出し、
 わかりやすくし、また大きな話に戻る、
 それを瞬時に行なう人が魅力的な著述家だというのである。
b0141773_22461154.jpg

 講演会などの依頼を受けるとき、
 依頼者はクドいくらいに、「参加型に」「ワークを」「演習を」「ロールプレーを」
 などと注文をつけてくる。
 ワークなんていうのは、本当にバカげていて、
 講師が話したことを材料にして、
 グループごとにディスカッションをさせるという注文。

 実際に、そういう場面に出会ったが、「なるほど」と納得。
 講師がヘナチョコなため、とても1時間半の講演時間が持たない。
 「ああ、そういうこと!!」
 つまり講師にゲタを預けないようにして、
 退屈シーンを軽減させようというのである。
b0141773_2246337.jpg

 ヘナチョコでない講師にしてみれば、
 新鮮情報をたっぷり提供したいのに、
 素人のディスカッションなんかで時間を使われてしまっては
 もったい、講師料のムダ使い、と思わざるをえない。
 参加型は一見民主的、一見アクティブに見えるが、
 どんぐりの背比べの時間を増やすことでしかない。

 影山 なお子さんのお話を伺っても、
 やはり「演習を」と注文する依頼者が多いらしい(命名「演習型依頼者」)。
 依頼者の「十把一絡げ傾向」を嘆かざるを得ないが、
 彼らにだけ責任を問うのも酷というものだろう。
b0141773_22503279.jpg

 ある知人の講師は、隣り合った人と握手をしたり、
 自己紹介をし合ったりと、とにかくからだを動かさせる。
 会場には笑顔や笑い声もあふれ、いかにも楽しそう。
 「いやぁ、楽しかった。勉強になった!!!」と
 喜ぶ人も少なくないが、
 で、なにを学んだの?
 「いろいろ……」コトバがないからコトバにできない。

 まとめがない。
 抽象のハシゴの最下段の話で終始する。
 井戸端会議と同じで、部分があって全体がない。
 「Aさんは、こうよ」「Bさんは○○なんだって」「Cさんは……」
 ハヤカワさん(前述)だったら、こういう。「抽象のハシゴを少しは昇りなさい。
 Aさんのケース、Bさんのケースには、こういう共通性がある。
 これに対してCさんのケースでは……」
 まとめ、解釈、理論化……それが抽象化。
b0141773_22512620.jpg

 「スポーツ栄養」とは、ずいぶん抽象度の高い名称だが、
 「栄養」とくるから、栄養が選手レベルをあげるのだと錯覚させ、
 カルシウムだ、ビタミンB1だ、と、
 井戸端会議的に各論へ各論へと向かう。

 そんなとき、「よい選手のライフスタイルは」と、
 再度、抽象のハシゴを昇っていけばいいのだが、
 思考のトレーニングのない者は、
 ハシゴを駆け下りて、栄養素探しを始める。
 つまり、細部にこだわることで自己防衛をする。
 知的水準の低さを隠す防御反応だろう。
b0141773_22514779.jpg

 そろそろ「スポーツ栄養」というコトバを見直さないと、
 井戸端会議族、早くいえばハシゴの1段目で
 うろつく者ばかりをふやすことになる。
 
 栄養士、健康支援者、スポーツ関係者に、
 抽象のハシゴ論をやったら、
 少しは「演習病」が収まるだろうか。
 ムリでしょうね。
 だって、「そ、それ、演習ありですか」とくるから。
 すると私は、出初め式の火消しのように、火消し装束に身を固め、
 ハシゴ持参で現地に行き、その上で曲芸でもしなければならないだろう。

 対策は、使える理論、実用的思考のおもしろさ、役に立ち具合を
 ヘナチョコでない講師がコツコツと示すことでしかないだろう。
[PR]

by rocky-road | 2009-12-04 22:55