きょうも、ダイビングシーズン。
毎年4月初旬は、ダイビング関係の2つのイベントがある。
この状態は少なくとも34年間に及ぶ。
「これからはダイビングシーズン」などというのは
部外者の言、または「ときどきダイバー」の言。
休日中心に活動をしてきたから、
元旦をはさんで、
年末・年始に海に入ることは珍しくなかった。
ダイバーにとって、
「ダイビングシーズン」は1年中である。
少し余裕が出てくると、
日本の季節に関係なく、
いま夏の国に出かけて行って潜った。
「? 夏を追いかけて ♪」である。
ご来光を海外の海で見ることはしばしばあったが、
日本で見るほどの感興はないことを知った。
4月7日、8日、9日の3日間開かれる
「マリンダイビングフェア」は、
水中写真コンテストの作品発表展、
プロカメラマンのトークショー、
ダイビング関連機材の展示会、
世界のダイビングスポットのブース展示などがある、
華やかなイベントである。
(東京池袋のサンシャイン/文化センター)
ここで気がついたのは、
フォトコンテスト入選作品のタイトルに
「擬人化型」が激増したこと。
「擬人化型」とは、
被写体となっている生物の立場でネーミングすること。
「きれいでしょ?」「何、見ているのよ」「仲よくしようよ」
などと、生物がしゃべるパターン。
このネーミングは、かつては女性に多かった。
しかし、今回見ると、男性応募者にも多い。
ここからうかがえるのは、
生物の名や生態を検索するという
トレーニングができていないこと。
おそらく図鑑を持っていないだろうし、
インターネットで調べる発想も根気もない。
そして、もしかして「草食系男子」の増加。
水中写真は、「ネイチャーフォトグラフ」
というジャンルに属する。
この場合は、生物の個体名を入れたい。
自然への興味、自然をたいせつに思う心は、
そこから始まる。
大橋作品 「イワシの春」
第17回 水中写真コンテスト グランプリ
昔、水中写真作品の好ましいネーミング論を
『マリンダイビング』誌に何回か書いたことがある。
ダイビング雑誌には、
そのようにして、
読者をリードする責任がある。
が、いまや、編集部にはその必要を感じる人間が
いないのだろう。
さて、4月15日には、
久々に「水中映像祭」に出かけた。
私が何人かの友人に
共同発起人になってもらうことをお願いして立ち上げた
水中写真の勉強会を中心とするサークルである。
第1回の「水中映像祭」を開催してから34年になる。
私は第20回まで運営してきた。
後継者を育てた覚えはないが、
みんながあとを引き継いでくれて、
そこから数えても13年になる。
スライドショーという発表形式は、
当時の日本では一般的ではなかった。
持ち時間5分の中で、
30~80枚のスチール写真を
一定のストーリーに組み立て、
プロジェクターにセットし、
自分の直感的なタイミングで絵を送っていく。
一種の演奏である。
あらかじめ用意したBGMやナレーションを使って
海の美しさ、生物の生態、旅の体験などを
映像表現してゆくのだが、
緊張して、プロジェクターのボタンを押す指が
震える人も少なくなかった。
自家用のプロジェクターを持っている人はいないので、
会の機材を使っての練習日を設けて、
晴れの「映像祭」に備えた。
それがいまは、パワーポイント時代。
自宅で整えたデータを持ってきて
パソコンにセットするだけ。
そういう時代、つまりこの十数年間、
私は、この方式で作品作りをしていないが、
しばしの局外者となって鑑賞して感じるのは、
機材や発表システムは発達しても、
コンテンツ、つまり作品の質は、
そう飛躍的に進歩はしていない、ということ。
現役時代は、「テーマが大事」と言い続けてきた。
数十枚のカット、つまり「点」を並べると、
なんらかの意味、テーマを求められるようになる。
「で、なにを言いたいの?」
映画を見てきた人の報告、
コンサートに行ってきた人の報告、
講演会に行ってきた報告、
どの場合も、ひととおりの流れを説明すると、
「で、どうだった?」と、感想を求められる。
極論すれば、その「求められるモノ」がテーマである。
もっとも、最近は、映画のストーリー、
コンサートのおもな楽曲、
講演会の講師名、演題さえも
正確に伝えられない人が多い。
せめてしばらくは、
プログラムくらい持ち歩けよ!!!
が、「第34回 映像祭」では、
テーマという点では、
大半の作品がクリアしていた。
「海はきれいだった」だけではテーマにならない。
「タコはこんなふうに擬態する生物である」
「海中の生物の色彩は、どんな光学的理屈で
人間の視界に入ってくるものであるか」
これがテーマである。
「京都の紅葉は真っ赤っか。水中にも赤い生物がこんなに」
さて、これがテーマになり得るか。
評価が分かれるところだろう。
かつては、スチール部門、
8ミリフィルム部門、
ビデオカメラ部門と、
3つにパート分けをしていたが、
いまは、スチール(静止画)と動画とを
1作品の中で自由に使えるようになった。
表現の幅はそれほど広がったが、
人間の表現力はたかが知れている。
それを実感できることは、
失望ではなく希望である。
まだやるべきことはゴマンとある。
それが希望でなくてなんだろう。
by rocky-road | 2017-04-17 14:03