貧しき町を 通りけり

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『文藝春秋』に、
伊集院 静氏が、
「文字に美はありや」という連載を
2年近く続けている。
歴史上の人物の書を鑑賞し、
分析する、という好企画である。
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2015年9月号では、
松尾芭蕉と与謝蕪村の書を取り上げている。
書の話は別の機会に話題にするとして、
今回は、伊集院氏が紹介している
蕪村の句、

月天心 貧しき町を 通りけり
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から入りたい。

伊集院氏はいう。
「この句と遭遇した時、
O・ヘンリーの短編小説の一篇を読むような気持になった。
中世ヨーロッパのキリスト教世界の
ファンタジーを見る思いがした」
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この記事は、綴じ込んであるカラーページに
載っている筆跡と対応しているのだが、
松尾芭蕉の

  荒海や 佐渡によこたふ 天河

の原筆にも触れている。
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この2句は、
スケールの大きさで鑑賞者を惹きつける。
鳥瞰図(ちょうかんず)というのは、
人間が空を飛べない時代からあるが、
この句もまた、
文字による鳥瞰図である。
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人間には、地上にいながらも、
鳥の目で上空から自分のいる風景を
描く感性が備わっている。
それは、臨死体験のときにも現われる。
臨終の自分を囲む近親者、
それを天井の高さから見渡す自分。

それはそれとして、
「荒海や」のような大きな句を詠んだ芭蕉が、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」のように
小さな句を詠むバリエーションがおもしろい。
それが創作のおもしろさ。
大小、左右、硬軟など、
バラつくから駄作の中に傑作、
名句の中に凡作が混ざり込む。
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日本文学者で、
わが東京都北区に在住の
ドナルド・キーン氏は、
短歌や俳句をたしなむ人の多いわが国を
国民の多くが詩人である、
と評してくださった。

確かに、万葉の時代から今日まで、
プロではない、アマチュア詩人によって、
短歌、俳句、歌謡(室町時代以来『閑吟集』などに
収載されている小唄など)、川柳、
そして、各地にある民謡などがつくられ、
育てられてきた。
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近年は、マスメディア、
デジタル機器の普及によって、
アマチュア詩人界はさらに活性化している。

もっとも、
「数の増加は質の低下」というテーゼもあるから、
駄作、拙作の乱造には耐えなくてはならない。
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  妻よりも 気が利いている コンビニだ

  この村じゃ デパートですよ コンビニは

  温めて ほしいよ俺の 懐を

ある雑誌の入選川柳である。
これが入選作品だというから、
ドナルド・キーンさんには申しわけない気持ちだ。

  五七五 うめけば寝言も 川柳か

  川柳の 粋を 選者が枯れすすき (Rocky)

大衆文化の低落は、
選者や、一部のプロ、
つまりオピニオンリーダーから始まる。
選が甘い、評価が甘い。
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テレビの写真教室にしろ
書道教室にしろ、
「それじゃダメ!」と指摘すべきところを
「いいじゃないですか」などとやる。
つまり、受講者や応募者を甘やかす。

甘やかしを番組にしたのが、
たとえば「NEWS WEB」
などという番組である。
プロが出演して話している最中に、
視聴者からのつぶやきが入る。

ふだん、その問題を考えたこともないど素人が、
「なかなかやるね」「そうじゃないだろう」
程度のことを言って
画面に入り込んでくる。
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落書きは、公共施設のトイレとか、
鉄道沿線の石塀とか、廃墟の壁とか、
それでも限定的だったが、
テレビとなると、
数百万、数千万という視聴者の目を汚すことになる。
人間の品格のうち、迎合は、
もっともひっかかりやすい誘惑である。

昭和を代表する評論家、大宅壮一は、
テレビの普及を「一億総白痴化」といったが、
ここまでの白痴化を予想はしていなかったことだろう。
バカな番組は見なきゃいい。
が、時事問題をプロが語り、解説しているところに
超マチュアが乱入してくる、
いや、局側が乱入させる。
これが公共放送だというから、
あきれる。
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だが、だが……だが、
こういう文化の低落化現象に遭遇したときこそ、
夢と希望を持たなくてはならない。
若者におしなべて未来があるのではなく、
あしたの予定、
これからへの夢と希望のある人に未来がある。

「百万匹のサルに百万台のタイプを
叩かせておいたら、いつかは傑作が
生まれるかもしれない、という話は
だれでも聞いたことがあるだろう。
しかし、インターネットのおかげで、
この説が間違いであることがわかった」

といったのは、
アイラー・コーツという人だとか。
(『書きたくなる脳』 アリス・W・フラハティ著
ランダムハウス講談社発行)
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かつての日本では、
半数以上の人が、一生に数回しか
文章を書かなかった。
いやゼロだった人も多かった。
それがいまは、3人に2人以上が、
デジタル文章を書くようになった。
その感動は、なにものにも代えがたい。

デジタル機器依存症の罹患率は、
いまよりも数十倍は進むだろう。
それにブレーキがかかり、
Uターンを始めるのは10年後か、
30年後か、いずれは軌道修正をする。
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自動車が普及し、運動不足が起こると、
スポーツジムやエアロビ教室、
ヨガやジョギングなどで
対策を講じたように。

問題は、白痴の中で生きている
まだ白痴化していない人間の健康度である。
選択肢はいくつかある。

1.自分も白痴化する。
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2.自分は自分、数少ないアンチ白痴化仲間と、
  交流を続ける。

3.白痴自身にではなく、
  白痴化を促進しているメディアに属し、
  まだ白痴に感染していない人に
  抗議を続ける。
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4.いつの日かUターン現象が起こると信じて、
  なーもせずに、のんびり暮らす。

5.白痴化心配症になって、
  日々、嘆いてくらす。
  嘆きは、努めて表現する。

しかし、
「世の中、右も左も真っ暗じゃございませんか」
という中でも、
郵便会社が食文化の切手を作った。
郵便文化を楽しむ人が少なかろうと思う
専門店であっても、
一汁三菜に目が行ったのは救いである。
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「和の食文化」は、
ただの流行、といってしまえばそれまでだが、
この切手の生かしようはある。
食関係者は、この切手の意味を把握し、
話題にしてゆく価値はある。
もっとも、この仕事もそれなりの頭を使う。
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健康支援者には、
白痴化以前の人が多いから(?)、
セミナーなんかでうまく使っていけるだろう。
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最後に、もう一度、
蕪村の句で、世の中を俯瞰して、
心を清めよう。

  月天心 貧しき町を 通りけり
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by rocky-road | 2015-12-02 23:45  

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