文章は「手」で書くもの。
ロッコム文章・編集塾/能登教室が近づき、
講義の準備を進めている。
(9月14日1時30分~5時)
能登教室は人数が多いので、
宿題として提出された
手書き原稿の添削には時間がかかる。
といって、
人の原稿を読むことは少しも負担にならない。
というより、楽しみに近い。
小説や論文、手紙などを読む楽しみとは違って、
筆者の言語センス、視点のバラエティ、
誤字、文脈の乱れ、用字用語の不統一
などとの出会いは、
よくも悪くも想定外のことが多く、
エキサイティングであり、
発見や気づきの連続である。
そこから見えてくるのは、
日本語とは、日本人とは、
言語とは……といったことである。
それは、「現代に生きている」
ということを実感する瞬間でもある。
それにしても、
このパソコンの時代に
なぜ原稿用紙を使って
手書きの文章を求めるのか。
アナログ的すぎて
時代に逆行しているように思われるかもしれない。
が、日本の文字や文章は
手書きすることによって育ち、成熟してきた。
漢字、ひらがな、カタカナ、
楷書、行書、草書、速記文字……。
そのデザイン、筆順、筆圧、サイズなどは、
手の機能性、手のサイズなど、
「手」という部位と、
用紙や筆記具といった、手の周辺の事物が主導して
進歩、進化してきた。
動物の行動は
すべて脳が主導しているかのように
錯覚する人が多いが、
個々の体型、目の色、肌の色、
クセのあれこれは、
脳の命令で定まるものではない。
脳を持たない生物にも、
生物的な意志があり、指向性がある。
当然、文字や文章の発達には、
「手の意志」が少なからず寄与している
と考えていいだろう。
この論を疑う人は、
次の場合を考えてみればよい。
マッサージ器が普及しているのに、
子や孫、アロマ施術者やマッサージ師による
メンテナンスを好む人が多いのはなぜか。
走る・歩く健康法を考える人のうち
少なからずの人が
近くにあるスポーツ施設を使わず、
ロード走行を続けるのはなぜか。
スポーツの試合をテレビ観戦すればいいのに、
遠路、時間と労力をかけて
わざわざ競技場へ赴くのはなぜか。
スマホへの依存度が高い子と、
そうでない子との学力、思考力に
差が出た、という調査は、
なにを意味するのか。
人は、脳だけで感じたり考えたりするのではなく、
全身で、つまり、髪、爪、
かかと、ホクロ、イボも含め、
全身で考えるのである。
脳だけ、手だけ、足だけを使った人と、
全身を使った人とでは、
思考の幅も深さも違ってくる。
よい思考を得るには、
いろいろの環境に身を置き、
全身の各部位に多様な刺激を与え、
多様なひらめきのを起こすことである。
ということで、
わがロッコム文章・編集塾では、
手書きの文章トレーニングを前提とする。
それは、パソコンを軽視するものではない。
むしろ、パソコンに使われるのではなく、
パソコンを使いこなすための基礎づくりである。
ところで、
過日、ある塾生から、
自主的に文章力をつけるにはどうしたらよいか、
と尋ねられた。
いままでにも、類似の質問を受けてはいたが、
この際、真正面から応えてみよう、
と考えて、作りかけのテキストをストップして、
文章トレーニングの「自主トレ」メニューを
テキストとしてまとめた。
能登教室では、
このテスキトを封切りする予定。
開塾したばかりのクラスには適した内容だろう。
蛇足ながら、教室終了後、
初めて能登の海に潜ることを予定している。
受講者のうち有志も、
同行してくれる。
舳倉島(へくらじま)は海女の海。
能登の女性には潜りの素質があるかもしれない。
いや、潜ることによって、
文章がますますうまくなるだろう。
ちょっとムリがあるかな?
さて、
能登教室の次回は11月30日と決まっているが、
広島でも、
定期的にコミュニケーション強化セミナーを
開くことが決まった。
主催《コミュニケーション研究会 ひろしま》
第1回は12月6日。
各地の健康支援者の社会性強化に
貢献できる幸せを感じるこの頃である。
by rocky-road | 2014-09-03 23:31