「いい写真」とはどんな?
4月29日開催が恒例となった、
パルマローザ主催の写真撮影会が終わった。
天気予報は、早ければ昼ごろには雨、
と伝えていたが、幸い、撮影中は雨には合わなかった。
結果論ではあるが、今年は氷川丸に乗船し、
そこを撮影場所に選んだので、
雨が降ったとしても船内にいる限り、
雨の影響を受けなかっただろう。
今年は事前のレクチャーも、
終了後の合評会も省いた。
その理由は、フォトテクニックの基本は、
初参加の人でも、ある程度はわかっていること、
撮影会と合評会を1日(午後5時まで)に収めるのは
時間的に窮屈なこと、などによる。
その代わり、撮影中に参加者の撮影ぶりを見たり、
写真を見せてもらったりして、
適宜、アドバイスをさせてもらった。
それはそれで、現場感覚を体験できてよかったと思う。
経過説明などは影山さんのブログに譲るとして、
今回も、当日の撮影写真による
コンテストを行なうので、
「いい写真とは何か」について少し書いておこう。
最初に、はっきりしておかなければならないのは、
「写真は芸術か」という問題。
芸術をどう定義するかにもよるが、
広辞苑の定義
「一定の材料・技術・様式を駆使して、
美的価値を創造・表現しようとする人間の活動
およびその所産。造形芸術(彫刻・絵画・建築など)・
表情芸術(舞踊・演劇など)・音響芸術(音楽)・
言語芸術(詩・小説・戯曲など)、また時間芸術と
空間芸術など、視点に応じて種々に分類される」
に従えば、写真は文句なく芸術である。
広辞苑の定義に写真が入っていないのは、
写真の歴史が絵画などに比べてあまりにも浅いせいか、
単なるスペースの問題なのか、定かではない。
写真が芸術の外に置かれがちなのは、
仕事の大半はカメラというメカニックが担うこと、
「ただシャッターを押すだけ」と思われがちで、
絵画や文学作品など、ほかの芸術に比べて
作業量(労作=栄養学でいう「ろうさ」)や作業時間が
軽いと思われていることによるのだろう。
しかし、「写真は芸術か」という設問には
答えを急いではいけない。
音楽に「第九」があり、コマーシャルソングがあるように、
絵画系に「晩鐘」があり、トイレの落書きがあるように、
人間のさまざまな所産には多様性がある。
すべてが芸術性を持つ必要はないし、
むしろ持たないほうがいい。
ある著名な水中カメラマンは、
元画家で、学生時代にセザンヌを学んだ。
それがために、芸術論を持たない、
または絵画論的美意識を持たない者に
まともな写真など撮れるはずはない、と、
活躍中の多くの水中カメラマンを軽蔑したという。
心の中の自負心だと思うが、
うっかりその話を側近にもらした。
その人の死後、そのエピソードが私の耳に入った。
カメラマンが、
自分の写真活動にコンプレックスを持ったら
おしまいである。
写真は(写真も)、
芸術以外に、科学、報道、発見、説明、
リアリティ、驚き、マジック、ミステリー、
コミュニケーションなど、
無限の応用範囲がある。
芸術であろうとすると、かえってそのダイナミズムや
可能性をそぐことになる。
写真は、写真でいい。
さらにいえば、4月29日の横浜・山下公園に
停泊している氷川丸の船内はこうだった、
その周辺はこうだった、ということだけで充分。
それは、この世の中に空前絶後の瞬間である。
それが芸術なのか、報道なのか、
おしゃれなのか、おちゃらけなのか、
それは後世に、自分以外の人が決めること。
いまは、数人の人に、ある種の印象を与えればよい。
少なくとも2014年4月29日に行なわれた、
パルマローザの撮影会においては、
芸術性で優劣を決めることにはならないはずである。
フォトコンは一種のゲームでもある。
だれが先手をとるか、
だれが意外性をアピールするか、
普通の可愛さが他を制するか、
「ヘタウマ」が共感を呼ぶのか、
その結果は、スポーツのゲーム同様、
戦ってみない限り、だれにもわからない。
もっとも、この世の中には
勝ち方がうまい人はいるが。
わかっているのは、
ヒトは、珍しいもの、新しいもの、
おかしいもの、きれいなものに
「へぇ~っ」といってしまう生物だ、ということ。
by rocky-road | 2014-05-01 23:22 | 写真教室