日記に押される1年、引っ張られる1年。
書店には、たくさんの日記が並んでいる。
買ったばかりの新しい日記に
記入するときの喜びは格別だが、
連用日記をつけている場合でも、
新年から、巻頭ページに戻って
再出発するときのワクワク感は、
何度経験してもいいものである。
以前、人から、連用日記をつけるとして、
3年用がよいか、5年用がよいか、
あるいは10年がよいか、と聞かれたことがある。
私自身は年度版か、10年連用しか使った経験がないので、
3年用、5年用については
確かな答えはできない、といわざるを得なかった。
毎年、新規のもの(年度版)に替えていた時代がおよそ40年、
「10年日記」に切り替えてから約20年というところだろうか。
後年は、歴史観のような意識が強くなり、
ロングスパンの10年間という単位で
自分の行動を見ていこうと思うようになった。
こうした経験の範囲でいうなら、
連用日記のほうがモチベーションが高まり、
持続性へのよい条件になるように思う。
1年間をなんとか乗り切ると、
それを振り返っているうちに、
新しい年の月日を埋めていくことへの意欲が高まる。
去年の同じ日の比較というのは、
やってみるとそこそこに楽しい。
もう1つ、ときどきある質問に、
「あったことを書くのがよいのか、
思ったことを書くのがよいか」というものもある。
答えは簡単で、「好きなように書けばいい」に尽きる。
なにを書くか、第三者としてアドバイスしたいことが
ないわけではないが、
日記を書く目的は、人によってみな違うから、
それをいっても意味がない。
寝る前に書くか、翌朝書くか、
机の上で書くか、寝床で寝そべって書くかによっても、
記入内容が変わってくる。
(ここではパソコン日記は除外する)
生物の行動は、ちょっとしたシチュエーションによって
大きく変わるものである。
日記をどう書くかということよりも、
毎日つける習慣の意味を理解しておいたほうがよい。
多くの日記論は、書いた記録のほうにポイントを置くが、
それは日記の一面に過ぎない。
日記の記入習慣の利点には、少なくとも2つある。
1つは、「きょうも書く」という目的を持って行動する意義。
これを私は「一次目的」と呼ぶ。
日記習慣は、人を取材モードにさせる。
行動中、日記の有無など忘れていたとしても、
書く習慣は、その人にある種の動機を与えている。
これに対して、記録したものを大切にする目的は、
「二次目的」として位置づける。
日記の一次目的性に着目した人の1人に秋元 康氏がある。
『文藝春秋』の2007年9月号に、
「途中経過の人生論」というエッセイを書いているが、
そこで「一行日記」をすすめている。
一行だけなら無理はない。カレンダーや手帳の脇に、
今日、起きたことを一行だけ書けばいいのだから。
なのに、その一行さえ浮かばないことがある。
それは、きっと、もったいない一日だ。何もしないうちに、
過ぎてしまったような一日。そんな日にしないために、
何かをしようと思うようになる。
高校の友達に電話をするだけでもいい。
いつも使っている駅のひとつ手前で降りてみるのもいい。
遺書を書いてみるのもいい。
一行日記のネタになるようなことをしてみれば、
その日が意味のあるものになる。
ここでは、生きた結果としての日記ではなく、
生きる目的としての日記の側面を指摘している。
順序が逆のように見えるが、人の動機の一面を言い当てている。
オリンピックは、勝つこと、記録を更新することに目的があるが、
金メダルを噛んでみせたりしてポーズをとったり、
国旗掲揚に涙ぐんだりしているのを見ると、
あたかもその瞬間に価値がるように見える。
目的と結果は、しばしば転倒する。
モチベーションというものは、一筋縄ではいかない。
いずれにしろ、モチベーションのスイッチは
多いほうが有利だ。
なんのために有利なのか。
そのほうが人生が楽しいからであり、
人の役に立つ機会が多いからであり、
健康維持や向上に有利だからである。
1行日記は、簡単に書くことのたとえである。
1行で1日を書くのはムリ。
大事なのは、書く時間(5分? 10分?)を
定期的にとること。
それは考える習慣、書く習慣を
自分の人生に組み込むことにほかならない。
by rocky-road | 2012-12-29 23:37