私だけが知っていること。
わがロッコム文章・編集塾の6月の授業では
「非言語記号のリテラシー」を取り上げた。
急に風が出てきたから夕立を予想して洗濯物を取り込む、
同僚の不機嫌な顔を見て相手の内面の不満を感じる、
リンゴが木から落ちるのを見て引力の法則を知る……、
それが「非言語記号のリテラシー(読み解き能力)」である。
この授業のあと、さっそく実践してもらおうと、
「いま、私だけが気がついていること」
という課題で宿題を出したが、
提出された文章の成績はきわめて悪い。
かつてないほど不出来の人が多いのである。
ある人は「夫がいつからか結婚指輪を外したことに
気がついている」と書いた。
ほほえましいが、いや危機かもしれないが、
課題の答えとしては「ブー」である。
妻が美容院を変えたらしいとか、
おじいちゃんが行きつけの飲み屋で
牛乳ハイを飲むようになったとか、
そういうローカルな話題ではなくて、
もっとスケールの大きなことに気がついてほしい。
写真は、みんなが見ている風景から、
自分の発見を切り取る技術である。
俳句は、それを五七五の17音で切り取る。
これに対して散文の宿題では、
600字も与えられるのだから、
発見に加えて、いろいろの考察ができる。
コトバは写真と違って心の中まで描写できる。
小沢一郎のインタビューを受けるときの口調が、
ここ数日、急にていねいになったが、それはなぜかとか、
なぜ道の接合地点を「ジャンクション」と
英語準拠の名称を使うのか、その理由は……とか、
そういう社会性のある発見や考察を書いてほしいと思う。
これは、オピニオンリーダーになるための
避けては通れない道だと思うからである。
休日の銀座を歩いていたら、
一か所に人だかりが……。
見ると、「みゆき通り」という道路標識の上に、
首にリボンを巻いたネコがうずくまっている。
いまは「一億総取材カメラマン時代」だから、
それを〝取材〟している人たちのふくらみだった。
「なぜ、そんなところにネコがいるのか」
そのことに首をかしげている余裕はない。
前後を考えず、とにかくケイタイカメラで取材モードに。
その即応性は、カメラマンとして合格である。
理屈じゃない、とにかく「いい絵を撮れ!」である。
が、書き手の取材者としては失格である。
「なぜ、そんなところにネコがいるのか」
その自問自答に答えを出さなければならない。
足場もない、そん高いところに、
ネコといえども、よじ上れるはずがない。
それよりもなによりも、そんなところに上る動機がない。
とすれば、だれかが乗せたのだろうか。
しかし、それにしてもネコはじっとし過ぎている。
華の都の、銀座のど真ん中で
うたた寝をするネコとは、こりゃいったいナンダ。
ここから取材を始めるべきだろう。
周囲を見渡すが、飼い主と思われる人物はいない。
どこかにいるはずなのに、姿は見えない。
それはそうだ、本人は、そこにネコを置いて、
自分は思い切りフェードアウトするのである。
「パフォーマンス」とは自己アピールを表わすコトバだが、
「他己アピール」ということもある。
自分の置いたネコに人々が群がる様子を見て、
ある種の快感を得る、人間の心理の深い一面である。
彼は心の中でコトバでないコトバで
「私だけが知っている」と、
つぶやいているはすである。
「自分はいないのに、居る」
この境地は、フルへフェイスのサンバイザーをかぶって
街をゆく女性の心理にも通じるものがあるかもしれない。
相手からは見えない自分の目の動き、
その目で、周囲の視線を見据える快感(!!??)、
さらに、そのフルフェースレディの心理を
あれこれ考察する楽しさも、
夏の楽しみの1つにはなる。
考える快感を得る対象物は、街のあちこちにある。
何匹もの犬を連れて歩く人、
人の集まる場所にペットを連れて行ってご披露する人、
花火をあげる人、歴史に残る建造物の建設にかかわる人、
ヒット商品を企画する人……
いくつものクションを置いて自分をアピールする心理。
これもまた、人類の文化、文明を発展させる
強い強い動機の1つということだろう。
ところで、銀座のみゆき通りのネコ、
同じ人と思われる初老の男性が、
数年前に、原宿の人通りでも、
「他己パフォーマンス」をやっていた。
銀座で、その人にインタビューをするつもりで粘ったが、
ついに直撃できなかった。
少なくとも彼は、私のターゲットとして、
しばらくは狙われ続けることになる。
by rocky-road | 2012-07-02 18:43