スカイツリーを見たら生物を大切に。


東京スカイツリーが5月22日にオープンしたことで、
1人の写真愛好家の被写体リストからは、
スカイツリーはひとまず消えた。

被写体探しにポイントを置くカメラマンにとって、
みんなが撮っているものを一緒に撮るほど
おもしろくないことはない。

スカイツリーは最初からみんなの関心の的、
つまり「追っかけ」の対象だから、
それをどう撮ろうが、「同じ穴のムジナ」ではないか、
そう突っ込まれるに決まっているが、
ニーズにしろ企画にしろ、
半歩前進くらいが、対象者の関心の引きどころである。

ツリーつながりだからといって、
今年切られてクリスマスツリーとして
使われるであろうモミの木とか
オーストラリア原住民が重用してきたオイル、
「ティーツリー」のビンとか、
近畿日本ツーリスト(略称「近ツリ」)の社屋とかを
撮っても、写真コミュニケーションは成立しにくく、
今日的モチーフとはならない。

私の関心を引いたのは、
東京といえども、まだ戦後の風景が残っている
超下町に、場違いにも、世界一の電波塔が立つという
このミスマッチのほうである。
そのギャップを記録しておきたいと思った。
街は変貌し、普通の観光地になる。
つまり地元ではない、
よそ者中心の街になる。

スカイツリーのオープンの様子を
テレビ局が中継していたが、
雨で尖端が見えないツリーを撮るカメラマンには同情した。
報道カメラマンは、ベストコンデションは選べない。
プロカメラマンとはそういうもの。
いい写真は、アマチュアだから撮れることが多い。
テレビ画面の中にばかりいる「戦場カメラマン」よりも、
戦場となっている街や村には
名カメラマンがたくさんいるだろうが、
その作品が世に出るのはずっと先のことである。

スカイツリーに入場したトップグループに
ねじり鉢巻きをしたおっさんがいたが、
この人こそ、私の被写体だったが、
テレビ局はおっかながって、
しっかり取材はしていなかった。

辛いのは、トップ中のトップ入場者は、
名古屋から来たというカップル。
スカイツリーには興味はなく、
水族館に最初に入るのが目的だったという。
みんなの目が空を向いているとき、
あえて地の底の海に目を向ける、そのへそ曲がり度は立派。

が、そこに水族館など作ってくれるから、
ついで水族館ファンが生まれてしまうのである。
名古屋にも立派な名古屋港水族館のほか、
竹島水族館(淡水魚)、碧南海水族館、
南知多ビーチランドなどがある。
が、あのカップルのモチベーションは、
東京まで来て、スカイツリーには目もくれず、
水族館に一番乗りする、というものだった。

今後は、水族館だけ派は減って、
スカイツリーやソラマチでのショッピングついでの
ついで水族館派がしばらくは続くだろう。

ところで、名古屋からの水族館一番乗りカップルが
大の水族館通であったのかどうか、
テレビでのインタビューからは判断できなかった。

へそ曲がり度という点で見ると、
スカイツリーという新名所に興味を持たず、
古い下町と新名所のミスマッチのほうに関心を示す
カメラマンの発想と似ているように見えるかもしれない。

が、私の場合、ツリーの中身には興味はないが、
ツリーのルックスには大いに興味がある。
というより、それがなくては絵にはならない。

そのあたりのニュアンスを論ずる場は、
この5月27日に食コーチングプログラムス主催の
「『給食だより』『広報メディア』を10倍楽しくする
編集力スキルアップセミナー」

があるので、そこで触れてみたい。

今回のテーマは『企画力で勝負!! 
ヒット企画はこうして生み出す!』 
である。

よい企画とはなにか。
名古屋から一番乗りしてくれた人がいたからヒットか。
冗談ではない。

スカイツリーやソラマチを名乗りながら、
海に助けを求める関係者の企画力の脆弱さ、
その程度の頭脳が日本の一部を動かしている現実。
企画には独創性、提案性、高い理念などが求められるが、
スカイツリーの水族館は、
「他人のふんどし」以外の何物でもない。

遠からず、収支バランスが釣り合わなくなる、
非採算部門になること間違いない。
海に行って、いろいろの魚を採取し、
運び、餌を与え、水を管理し……ということを
年から年中、繰り返すだけではない。
海洋生物を水槽に入れて
泳がしておきさえすればお客は喜ぶなどと
思ったら大間違い。

「やっぱ、ここはショーが必要でしょう」となり、
「マンタがほしい」「ジンベイザメがほしい」
「ジュゴンが来ればもっと人気が出るかも」
「いや、シャチでしょう」……。
こうして、水族館競争は続き、
自然へのインパクトは助長されるのである。

よい企画とは、その先に続く展開をも含んで
評価されるものである。
スカイとアンダーウオーター、
それはイメージとしては対照的でおもしろいが、
「お上りさん」とナチュラリストとは、
属性が違いすぎる。

スカイツリーを見るとき、
そこの下には貧困な企画力がある、
それを連想し続けることだろう。
ヘボ企画の象徴としてそびえ続けるスカイツリーに
深い同情を禁じ得ない。

救いがあるとすれば、
その水族館見物から、
生物の多様性のおもしろさを感じ、
ヒトとしての生き方に喜びを感じる人が
何人か生まれる場合であろう。

食コーチングプログラムスからのご案内
*大橋禄郎先生のブログ、
「ロッキー・ロード」でもお示しされておられるように、
5月27日(日)に、
「『給食だより』『広報メディア』を10倍楽しくする
編集力スキルアップセミナー」を開催いたします。
このセミナーにご参加ご希望の方は
ご住所、お電話番号、ご所属を明記の上、
食コーチングプログラムス主宰 影山なお子宛に
palmarosa@yours.biglobe.ne.jp
お申し込みいただけますようお願いいたします。

前回(3月25日)開催した
第1回「『給食だより』『広報メディア』を10倍楽しくする
編集力スキルアップセミナー」の様子は
影山の「スタンバイ・スマイル」にアップさせていただいております。
お目通しいただけましたら幸いです。
http://palmarosa.exblog.jp/15633341/
*開催場所:神奈川近代文学館 中会議室
*開催時間:10時30分~午後5時
*参加費:1万円
(ランチ代別途)
*この研修会は5回シリーズとなっています。
 単発でのご参加も歓迎いたします。
 お尋ねください。

# by rocky-road | 2012-05-22 19:27 

お料理評論家になりませんか。


パルマローザが行なった
4月29日の写真撮影会に続く
フォトコンテスト(フォトコン)の選評が終わった。
(このホームページの「スタンバイ・スマイル」参照)
http://palmarosa.exblog.jp/
大好きな仕事であるがために思いきり力が入り、
終わったらぐったりした。

その理由の1つは、
日本でもっともメジャーなフォトコンで
「第一席」を受賞し、授賞式に出席したが、
選者の著名カメラマンたちの選評が
あまりにもたどたどしいので、がっくりした経験があるからだ。
途中で「私が代わりましょうか」と、
出ていきたい衝動を抑えるのに苦労した。

また、テレビ番組で見るデジカメ写真教室でも、
指導するカメラマンは「いいですね」「いいですよ」を
繰り返すばかりで、改善すべき点をまったく指摘しない。

非言語的な創作活動をしている人たちだから、
ハレの舞台で、作品評を論理的に展開するのが不得手なのだろう。
仲間と、酒でも飲みながら論じれば、
もっとイキイキした論評ができるのだとは思うのだが。

そんな実情を考えると、
私が50年近くかかわっている水中写真の世界は、
なかなか作品評の水準が高いところだと改めて思う。
正確にいえば、水中写真家・舘石 昭氏が主宰する
『マリンダイビング』(水中造形センター)の
長きにわたるフォトコンテストである。

ここでは、その回ごとに
作家や漫画家、海洋生物学者などを選者として招き、
発表会場でも、誌上の座談会でも、
その人たちに多角的に論評を求めている。

私がグランプリを受賞した、
第11回 水中写真コンテストについては、
1982年2月号に、3名の審査員による座談会を載せている。
私の作品についてのコメントを引いてみよう。

審査員は、作家の畑 正憲氏、村上 龍氏、
水中写真家の舘石 昭氏である。

編集部「まずグランプリを獲得した『イワシの春』は、大橋禄郎さんの作品です。
     この作品を推薦された畑さん、いかがですか?」

 「この人、さすがにキャッチフレーズのつけ方がうまいですね。
  それと、この作品は奇をてらったものではなく、ごく平凡な風景を
  さりげなく撮って表現力を持たしていますね。
  だから見ていて見飽きないし、多くの人に愛される作品じゃないかと思います。
  また、色彩のバランスも実にいいですね。ただ、ちょっと魚の群れが乱れているのが
  気になりますけれど、すぐれた作品だと思います」

村上 「ひと口にいうと印象派の作品みたいですね。
   ドキッとするような写真ではないけれど、
   壁に貼っていつまでもながめていたくなるような作品ですね。
   今回のコンテストの中では、一番見飽きない作品だと思いますね」

舘石 「この作品は、最初見たときからいいなと思ったんだけど、
   何回も見ていくうちにますますよくなっていくんですよ。(中略)
   それと、この作者は、肩に力を入れないで淡々と水中写真を撮って
   楽しんでいる。その姿勢がいいですね。
   技術的には充分なところまでいっているのだから、
   その達観した感じがいいんじゃないかな。
   見ていて心が休まるというか……」(中略)

「こういっちゃ作者に悪いかもしれませんが、
  ぼくはこの作品にアマチュア精神を感じるんですね。
  ベテランダイバーが計算しつくして、色がどうだ、
  光がどうだといって撮った作品でなく、ホンダワラのところを潜ったら魚が来た、
  それをたまたま撮った。そういう、計算しない感じが、
  ぼくたちの心を慰めてくれる作品になったような気がしますね。
  プロだけでなく、アマチュアでもよい仕事をやる人がいる。
  その典型のような気がします」

村上「精神がすごく素直だというのがピタッときますね」

舘石「うん、そのへんがスゴイんだなあ」(以下略)

一部の引用だが、ほとんど絶賛である。
これだけの豪華メンバーが、
一作品にこれだけのコトバを使い、これほどの賛辞を送ってくれる、
思えばよい環境の中で水中写真を楽しんできたものである。

それに比べると、
「お前の選評は冷たい」といわれるかもしれない。
反省点の1つではある。
が、やはり弱点、改善点を指摘しないと、
技術は進歩しないと思うので、
黙っているわけにはいかない。

写真にしろ絵画にしろ、
音楽にしろスポーツにしろ、
非言語的な世界にも、それらの鑑賞論や評論は必要。
評論のない文化や文明は、まだ未熟といわざるを得ない。

料理や食事に評論家はいるのか。
「料理研究家」はいても「料理評論家」はいない。
フランスには「ミシュラン」があるが、
星の数では「評価」はできても「評論」にはならない。
辰巳芳子さんあたりは、
無意識的に評論家の役割を果たしているかもしれない。

飲食店の料理などは、客が評論家といえなくもない。
しかし、言語能力、評論精神のない者の評価は、
「スゴ~イ」「カワイイ」「どうやって作るんですか」
程度のものだから、板前やシェフは堕落する。
軽口をたたく程度の料理人が、
「軽妙な語り口で人気の……」と持ち上げられて
舞い上がってしまっているのが現状である。

以前、「外食・中食評論家」の仕事を
してみたいと思ったことがあるが、
いまは、そういう時間もなくなった。
だれか希望者があれば後押しをして、
10年以内には看板を掲げるくらいのプロに
仕立てる自信があるのに、手をあげる人はいない。

さて、フォトコンの話に戻る。
今回の受賞のコトバを読んで、
この撮影会に参加した人たちの言語表現力も
ナミでないことを再確認した。

撮影会やフォトコンテストの規模の大小と、
作品のレベル、論評や受賞のコトバのレベルを
過小評価しないことである。
日本は、いや世界は、
思っているほど大きくはないのだから。

# by rocky-road | 2012-05-11 23:28 

いま、同業者に言いたいことは?


ゴールデンウイークの前半は、
横浜での連続3日間のセミナーに参加した。
28日は、ロッコム文章・編集塾の遠距離クラス、
29日は、山下公園、大桟橋を中心とした撮影会、
30日は、食コーチングプログラムス主催の「食ジム」
みなさんの高い参加意識と向上心を感ずる、
爽快な3日間となった。

今回は、ロッコム文章・編集塾の
遠距離クラスについて書いておこう。
遠方のため、毎月通えない人のための、
3か月に1回開くクラスである。

この教室のコンセプトは、「勉強のための勉強」ではなく、
日々の生活、今後の生活に使える思考力、文章力を磨くこと。
「作文教室」ではなくて、
「文章で考える」スキルを身につける教室である。

これを実践するために、宿題を重視し、
全員にご自分の文章を音読で発表していただく。

前回の課題は「栄養士(ケアマネージャー)の専門誌から
『いま全国の栄養士(またはケアマネージャー)に
言いたいこと』という原稿依頼があった
ことを想定して一文を書きなさい」

この課題の目的は、不特定複数の仲間に向けて
いま、いちばん伝えたいメッセージを考え、
それを最適な文章で伝えること。
同業者を想定するとき、後輩なのか先輩なのか、
あらゆる年代なのか、
それが文体を決める出発点になる。

不特定複数の人に向けて文章を書こうとすると、
まず対象者のイメージが浮かばない。
大ベテランが読む可能性があるのに、
新米栄養士に向けて語りかけるような、
ちょっと上から目線の文体になってしまう。

「いま、言いたいこと」は何なのか、
それも、そう簡単には浮かばない。
問題意識を持つことなく、
ついでみたいな生活をしていると、
ここ一番の発言ができない。

栄養士、健康支援者に限ったことではないが、
自分が社会に向けて何かを発言する機会が
あるとは思っていないから、
社会性のある発言の準備などしていない。

それでも健康支援者の場合は、
研究発表や地域のメディアへの寄稿などの機会があるし、
料理教室や食育、生活習慣病などに関する
セミナーの講師を務めることもある。

そういう経験をベースにして、
もう少し多くの人に向けて発言する機会を
ふやしてゆくとよい。
地区予選から始まって全国大会に出場するようなものである。

それは、社会に向けて、
栄養士の存在意義を知らしめることになるし、
もちろん、社会の健康意識を高めることにもなる。
また、一部のドクターによる
フードファディズムの伝播を抑止する効果もある。
「悪貨は良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)は、
健康情報にも当てはまるところがある。

いや、一部の栄養士自身もマイナーなメディアで、
首をかしげたくなるような情報を発信しているから、
栄養士のすべてが良貨の流通促進人とはいえない。

「栄養士に向けて一言」は、
良貨流通人としての基礎体力作り、
という意味もあって課題をしている。

塾生から提出された文章の多くは、
コミュニケーション力の強化の必要性を説いている。
では、そのコミュニケーション力を
どこで、どう学べばよいのか、
そこまでは書ききれていない。

「いま、自分が学んでいるように……」
といってしまえばすむのだが、
それがいえない。
日本全国の栄養士に、
「ここに来ればなんとかなるのに」といっても、
それぞれに事情があって、
そうは問屋が卸さない。

では、健康支援者が、
コミュニケーション力を学ぶ場所や機関があるのか。
それは確かめようがないが、
その可能性は高くはない、とは想定できる。

であるとすれば、北海道の栄養士にも沖縄の栄養士にも
実現可能なコミュニケーション力強化法を
提案する必要がある。
ここで、自分の体験を語る文章ではなく、
アイディアを示す文章表現文と
シフトする必要に迫られる。

「人は文章で考える」のだから、
原稿用紙に向かいながら(宿題は手書きで提出)、
考えなければならない。
「コミュニケーション力をつけましょう」
「文章を学びましょう」程度では、
人は動かない、動きようがない。

考えて、考えて、考え抜く。
新緑の並木の下を歩きながら、
あるいは海岸の砂を踏みしめながら、
そしてもちろん、本を読みつつ、
考え抜く。

そうした「1人プレーインストーミング」が
一流の健康支援者をはぐくむ。
それは、地方予選から全国大会に進出するための、
避けては通れないプロセスである。

ゴールデンウイークの後半は、
提出された原稿に目を通しながら、
さわやかな季節を楽しみたいと思っている。

★写真は、3日間の中からの〝無難な〟ものをピックアップした。
 というのは、撮影会のまとめとして、久々にフォトコンを試みることにした。
グランプリ1点、推選2点。受賞者には賞品を出す。
また応募全作品(1人1点)に作品評をする予定。

そのため、応募作品と類似カットになりそうな写真は、
意識的に避けた。私が撮った写真のうちの報告的写真に限ってある。

# by rocky-road | 2012-05-02 09:42 

サルの料理法を発見した人


4月8日の朝刊で三戸(みと)サツヱさんのご逝去を知った。
97歳であったという。
面識のある方ではないが、
サルの芋洗い行動を発見した人として知っている。

1953年、宮崎県串間市沖にある幸島(こうじま)に住む
野生のニホンザルの中に、餌づけされた芋を
わざわざ海水につけてから食べる1匹がいた。

洗うためではなく、海水で塩味をつけていたのである。
やがてその行動が群れ全体に広がっていった。
サルの世界にも文化があることを発表し、
研究者から注目された。

この地域のサルをもともと研究していたのは、
京都大学の今西錦司氏らのチームだった。

この地域では、昔からサルを大切にしていたので、
三戸さんも、教員をしながらサルとかかわっていた。
そのことから、今西チームをいろいろの形でサポートした。
と同時に、ご自身もフィールドワークに参加し、
いつのまにかサル学者になっていった。

ところで、「料理」をどう定義すればよいのか。
食文化研究者として知られる石毛直道氏は、
著書『食卓文明論』の中でこう述べている。

「……料理ないし調理とは、いかなる行為であるかを
具体的に述べた定義がないのである。
それは、料理の概念が、それぞれの文化によって
異なるからである。たとえば、英語のcookという語彙は
普通には日本語の『料理』と同義語であると解釈されるが、
厳密にいえばcookとは火熱を使用した料理をしめす
ことばである。したがって、日本料理の華でもある
刺身はcookの範疇にはいらない食べ物である」

食文化が違うと、「料理」の定義が違ってくるのは、
当然といえば当然。が、グローバル化が進むにつれて、
「料理」の定義もまた、国際化することだろう。

ともあれ、日本語の定義に従えば、
ニホンザルの芋洗い行動は、料理の始まりといえる。
似たようなことは、たとえば野生のネコの例でもいえる。
イリオモテヤマネコは、とらえた鳥を食うとき、
口が当たる部分の毛をひとまずむしり取ってから
食い始めるという。

これに対して、エジプトヤマネコであったか、
一口食っては口に入った毛を吐き出すという。
つまり、イリオモテヤマネコは下ごしらえをしてから
食事を始めるが、エジプトヤマネコでは、
いきなり食らいつくのだという。
(記憶が正しければ、動物学者の小原秀雄先生に伺った話である)

さて、幸島のサルだが、
三戸さんの娘、森 梅代先生も、霊長類学などの学者である。
1987年、『栄養と料理』11月号のために、
森先生を愛知県犬山市にあるモンキーセンターでインタビューをした。

当時、『栄養と料理』では、
先生に「サルのフィールドから」というタイトルで
短期連載をしていただいていた。
これに関連して、「編集長訪問」というコーナーにも
ご登場願うことにした。

幸島のサルの食性などを中心にお話をうかがった。

大橋「先生が調査されている幸島のサルは、
海辺にいるのですから貝をとったりするのでしょうね」
「ええ、一枚貝をとって食べます。
それから小さいタコをとって食べたりしています。
サルは、もともとあまり海の物を食べる動物では
ないのですが、人と長くつき合っているうちに、
いろいろの食べ物を覚えていきます。(中略)
幸島のサルは最近は魚も食べるんです。
一度味を覚えるとおいしさがわかるようです」

というようなお話をうかがった。
いまも記憶に残っているのは、
メスのサルにも順位があり、
代々、その地位は子に継承されるとのこと。
(某国はサルを学んでいるのではないと思うが)

サル社会に餌不足とか異常気象とかの異変があると、
上位、中位、下位のグループのうち、
中位あたりに位置するグループの死亡率がいちばん高い、
というお話である。
その理由はわからないが(当時時点で)、
先生の推測では、
「中くらいというのは
いつも上のほうを向いていて、自分も上と
同じようなことができると思っているかもしれません。

ところが結果としてはできなくて、
その辺がプレッシャーになりやすいのではないか。
一方、順位の低いサルは最初からあきらめていて、
かえって自分の好きなことができる――
そんなところがあるのかもしれません
しかし、この点はまだわからないことが多くて、
研究中というところでしょう」

もう1つ、このインタビューで記憶にあるのは、
餌づいたサルは、人から餌をもらうほうに軸足が移って、
自分で野生の植物(木の葉や実など)を採らず、
人が来るのを海辺でずっと待ち続けるようになる、
というお話だった。

さて、当時、なぜ『栄養と料理』が
サル学者や文化人類学者、脳学者などの生き方や
研究内容を紹介したかというと、
食を栄養学からだけ見ているのでは、
思考は深まらず、視野が広がらないからである。

「専門」とは、アリの目で砂糖の1粒を見つめることではなくて、
ときには鳥の目で、上空から砂糖の1粒を見るとどうなるか、
そこまでをも自分の視野に入れて思考を深めることではないだろうか。

(このブログを書くにあたって、
森先生の消息をインターネットで訪ねたら、
2011年3月に、名古屋文理大学の副学長として、
最終講義をされた、という情報に行きついた)

# by rocky-road | 2012-04-14 22:10 

桜を、どう撮りましたか。


近くの公園で、
幹からぽつんと飛び出して開花しようとする
桜のつぼみを撮っていたら(上の写真)、
背後から見知らぬ男性に声をかけられた。
「アップもいいですね」と。

「枝からではなく、幹からいきなり
こんな花が咲くんですね」と私は応じた。
60歳前後に見えるその男性は、
それにはぜんぜん反応せず、
「長野県の〇〇の桜を撮ったことありますか」

「いいえ」と答えると、彼は、そこの桜の美しさを語り始めた。
彼によると、脳こうそくで倒れて以来、
20年間、写真をやっていないという。
当時はフィルムの時代で、プリントすると高いので、
「ダイレクトプリント」をして、
その中から気に入ったものをプリントした、とか。
「それは『ベタ焼き』とか『インデックスプリント』とかというのでしょう」

どうやら写真談義をするつもりはないらしく、
写真撮影のためにあちこち出かけたことを語りたいらしい。
こちらとしては、撮影を急ぎたいし、
サクラの名所語りをするつもりもないから、
「何か所くらい出かけたんですか」
「その中でいちばん気に入っているのはどんな写真ですか」
「傑作はどのようにしたのですか」
(額に入れて飾るとか、フォトコンに出すとか)

こういう問いかけにも乗ってこないで、
2~3か所の桜名所の話を繰り返す。
私は、彼の主治医ではないが、
まじめな旅行論や写真論に入り込むのをやめて、
思い出の地のことを聞こうとしたのだが、
写真論になったり桜論になったりで、
話題のピントが合わない。
そのうちに、仲間に呼ばれて去って行った。

ふと、昔を思い出した。
寝たきりの義祖母を診るために
毎月訪ねてくれる老巡回医がおられた。80歳を越えていた。
大の写真好きとわかって、
その後、写真(ポジフィルム)を持ってくるようになった。
私もライトテーブルを用意して待つようになった。

そのうちに作品評を聞くのが目的となり、
義祖母の診断がないときにも、作品を持って来訪された。
祭り写真が好きで、日本に限らず、各地の祭り写真を持ってこられた。
あるとき、長崎の老花魁(おいらん)を撮った写真を評価した。

なんともグロテスクで、これはシュール過ぎて、
「作品」というにはちょっと……
先生は、ご自分で出かけて行ったときの写真はよいけれど、
ツアーでみんなと出かけた場合は平凡になる、
みんなと同じ写真を撮っているだけでは
先生の実力は発揮できない……、
先生には被写体を見つける才能がおありなのだから。

これ以後、先生は現われなくなった。
妻は酷評し過ぎたからだというが、
私は、先生がそんなケチな根性の人間ではないと信じている。
老齢のこと、体調を崩したのか、撮影活動のための体力が落ちたのか。
デンワで確かめればよいことだが、
それをする勇気はなかった。

さて、桜論、桜撮影論に戻ろう。
城を入れ込む、堀を、川を、海を入れ込むなどなど
そこへ行かなければ撮れない写真がある一方で、
どこの桜でも、自分に引きつけて撮るという、
別の楽しみ方もある。

これは、二者択一論ではなく、
どちらを選ぶにしろ、同時進行的に行なうべき撮影法である。
小田原城下の桜、松前の桜、弘前の桜、角館の桜……
を撮りに行って、花のアップしか撮らなかったらもったいないが、
それとても、一概には否定できないのが、
撮影意図というものである。

小田原城には目がいかず、花のつぼみに関心が向いたとすれば、
それはそれでモチベーションである。(プロは別として)
「この桜、どこの?」と聞かれて、
「場所は、問題ではないの、小田原の桜はこういう表情なの」
実際にそういったら嫌われるが、
それくらい開き直れる意図があれば、
それはそれでよい。

が、平凡だが、無難な対応法は、
①まず、そこでしか撮れない写真を撮りまくる。
②ある程度撮ってから、自分の関心を中心に、
 自分らしい作品を撮る。

同時進行……同時に二兎どころか、十兎くらい追うところに、
写真のスリルとおもしろさ、そして、
トンボのような複眼を持つときの優越感と陶酔とがある。

# by rocky-road | 2012-04-08 23:00 

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